あなたは私の苦しみが分かりますか

作詞 大黒摩季 作曲 大黒摩季 編曲 楠井五月

解説 摩季ネェの14thアルバム『MUSIC MUCSLE』Disc2「RESTING MUSCLE」の6番目に収録されている。
 数ある摩季ソングに在って、歌詞・曲調共に非常に暗い。勿論暗いだけの曲ではなく、歌詞的にかなり考えさせられる一曲でもある。

 タイトルでも、歌詞中でも主人公は何度も「あなた」「私の苦しみがわかりますか」と問い掛けている訳だが、何度も問い掛けていると云うことは、恐らく「あなた」は主人公が苦しんでいる内容を察していないのだろう。
 歌詞内容から推測するに、恐らく主人公と「あなた」は正式な男女の関係にはないのだろう。「鳥のように いつの日か帰ってゆくなら」「誰のものにもなれない」「日曜のプロムナード 繻子のドレス 束縛して欲しい 本気で怒って欲しい」「普通の幸せ 愛し方を知らない永久の輪舞」と云った歌詞から、有り体に云えば愛人関係で、「あなた」は正式な相手との関係を壊す気は更々なく、時折主人公のもとを訪れては、刹那的に愛し合っていると見られる。

 そんなどこか故テレサ・テンの名曲「愛人」を彷彿とさせる歌詞が寂しさと意志の強さを際立たせているが、「愛人」の主人公が秦の愛情さえあれば愛人の身に甘んじるか覚悟を固めているのに対して、この曲の主人公は「私は光あふれる道を歩きたい」とあることから、誰に恥じることない正当なパートナーとなることを望み、それを察しない「あなた」に対して、「私の苦しみがわかりますか」と投げ掛けているのだろう。

 確かに愛人関係とは好ましいことではない。
 五十路を迎えて独り者をやっているダンエモンには感じ切れないことかもしれないが、結婚しているなら妻だけを愛するつもりだし、妻以外に愛する人がいることが良いことだとは思わない。勿論妻が自分以外の男を愛するのは絶対嫌である
 逆に自分が愛人の立場なら、正式な夫を押しのけてでも自分が正式な夫になりたいだろうから、主人公の気持ちは良く分かる。

 主人公が公明正大なパートナーの立場を欲しているのは、正式な立場にない愛人がいつか終わりを迎えるものであることを危惧しているからとダンエモンは見ている。
 自慢じゃないがダンエモンは何度も彼氏持ちの女性に横恋慕しては敗れてきた身である。ただでさえ彼氏持ち・旦那持ちが自分の方を振り向いてくれる可能性は低いし、自分のものになった後のことを考えると、想い人が簡単に男を捨てる人物であっても困るというジレンマを抱える。まして、想いを寄せた人が人妻で、且つ子持ちであるなら、家庭を崩壊させるという業を背負わせることに耐えられない。
 恐らく、今後もダンエモン(=道場主)は惚れた相手が彼氏持ち・旦那持ちでもアタックすると思われる(自慢じゃないが、惚れてアタックしなかったことは無い!)が、旦那と子供がいる場合は身を引かざるを得ないと思っている。

 この曲の「あなた」が主人公を遊びで愛しているとは思わない。
 「いばらの道を歩」くのも「「君を支えたい」そう言ってくれる」のも、立場はどうあれ、本気で愛してくれているからだろう。だが、「鳥のように いつの日か帰ってゆく」のも、恐らくは正式な妻子への想いも併存させており、捨てる気が無いからだろう。
 そして、道ならぬ関係が発覚した際には妻子の怒りを呼び、妻子は二者択一を迫ることは想像に難くなく、そうなると正式な妻子に軍配が上がり、主人公は「地を這う惨めさ 望まずに生きる… ある日総てをうばわれる痛み」を食らうことになるのだろう。

 推測を重ねるが、かかる悩みを抱えるのも、恐らく主人公は最終的な勝算が薄いと見ているのだろう。自分の求めを「我儘な執着を愛と言うのでしょう?」と問い掛けていることからも、自分がかなり無理を求めていることを自覚しているのだろう。
 そしてそんな主人公が見据えているのが、刹那的な愛し合いである。「ある日総てをうばわれる」ことへの怯えがあるから、「もう 出来ない約束よりも 甘いkissをして」と締め括っている様に、刹那的な情熱に身を委ねることを求めているのだろう。
 「甘いkissをして」という歌詞を見ると、「いちばん近くにいてね」を思い出す摩季ネェファンが多いと思うが(笑)、刹那的な情熱を求める意味ではダンエモン的には「風に吹かれて」「DA・KA・RA」を思い起こす。

 主人公が何度も訴える「苦しみ」は、「見下されても気軽に踏まれても それでも咲き続ける 小さな蓮華のように」「普通の幸せ 愛し方を知らない永久の輪舞」と云った歌詞で表現されているが、これ程秀逸な比喩故に悲しみを誘う歌詞も珍しい。
 「ある日総てをうばわれる」のなら、「最初から無い方が良い!」という考えも理解出来るし、「うばわれる」までの時間をどっぼり愛に溺れたい気持ちも良く分かる。勿論最終的な勝者になれればそれに越したことはないのだろうけれど、考えさせられる歌詞である。

 最後に余談。
 個人的に「総て」という歌詞が気に入っている。
 多くの人は日常的に「すべて」を「全て」と漢字表記していると思うし、実際摩季ソングにも「全て」はよく出て来る。一応、漢字としては「総て」が正しいのだが、「全て」の方が余りに一般的になっているので、他者が総表記してもいちいち突っ込んだりしない。だが、知識として「総て」の方が正しいと知っている以上は「全て」と書きたくないので、拙サイトでは普段「すべて」を「全て」と書かず、「すべて」と平仮名表記している(勿論探せば「全て」と書いている個所もあります)。
 まあ、「総て」でも「全て」でも意味するところは同じで、いちいちこだわる必要もないだろうけれど、普段こだわっている身としてはチョット嬉しい(笑)。


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令和五(2023)年九月二七日 最終更新