あなたを忘れたくて

作詞 椎名恵 作曲 松本俊明 編曲 見良津健雄
解説 椎名恵さんの12thアルバム『Cherish』の3曲目に収録。椎名ソングによくある失恋の痛手から立ち直らんとしている曲だが、随所に振られた直後である事をうかがわせる歌詞が見られるのが興味深い。
 いきなり話が逸れるが、道場主はその昔、愛した女性に振られる度にある恐怖が積み重なるのを覚えた。それは愛した人を忘れられない事で、恋を重ねる度に引き摺る記憶が増える事で次の恋が、愛情において純粋さを欠いて行くのではないか、という事に脅えたのである。
 道場主の大学時代の友人は「彼女ができれば、それまでの上手く行かなかった恋なんか一発で忘れるって!」と言ってその時の恋を励ましてくれたが、ある意味、忘れるのも怖かった。
 それから十年以上の時を経て道場主はようやく友人の言葉が事実かどうかを実感する場に立った。確かに今現在愛し合う相手が一番大切で、その実践の最中とあってはかつて愛した人達が脳裏をよぎる回数は激減した。しかしながら皆無ではなく、現れる時ははっきりと現れる。
 それはやはり過去の恋が少なからず今の自分を造り、その自分が今の恋にあるからだと思う。故にこの曲の主人公が「あなたを忘れたくて」と言いながら、「今は」と限定するのが非常に印象的である。
 もっとも、この曲の主人公は未来を見ていない訳じゃないが、曲の真骨頂はやはり直面している失恋の苦しみにある。「新しい恋をするには 想い出が邪魔になる」と言ってはいるが、それよりは「嫌いになれたら楽なのに」と締められている様に、「ただ忘れたくて」とある様に、楽になりたいのが第一だろう。
 注目したいのは「あなたは彼女に アドレスも見ずにダイヤルした 別離の理由はそれで充分だった」とあり、「二度と恋はしないなんて 嘘つきにはなれないけど」と展開している所である。このアルバムが出た1995年は携帯電話の普及率が佳境に入るか入らないかの頃で、「アドレス」を記憶やメモに頼る事も多く、何も見ずにできるのは想いを図る一つのバロメーターで、主人公は敗北を覚り、告げられる前に強がって身を退いた事がうかがえる。
   さて、別の視点から注目したいのは主人公が悔やみつつ振り返っている愛し合う日々の描写で、「ワインの栓が抜けなくて 思わず名前呼んだけれど」という日常を連想させる一例と、「あの日の彼女は あなたにどんな風に甘えるの?」と自らの例から予測している様子が興味深い。人間は最も身近な存在である自己を基準にして他人を諮る傾向が多かれ少なかれ誰にもあるが、主人公の回想と予想がどんな日常に想い出を置いているかがうかがえる。
 そもそも、別れなんて本来好ましいものではなく、また辛い思い出は忘れてしまいたいものである。だが、「ただ忘れたい」という思念が浮かぶ以上はとらわれている、と言う事でもある。願わくば、楽しさを記憶に残し、それを失った時の辛さだけを忘れれば、と思うのはダンエモンだけだろうか?
 

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