ゲンキダシテ

作詞 大黒摩季 作曲 大黒摩季 編曲 葉山たけし


解説 シングル曲の16番手、アルバムは『POWER OF DREAMS』の10番目の曲である。摩季ソングに幾つかある失恋の曲の一つだが、振られた自分の身の上と同時に我が身以上に自分を振った相手を気遣っている様子を伝える歌詞が秀逸である。

 歌詞は前後で大きく二つに分けられる。
 一つが振られた事とそ、れに対して再起を図るものである。タイトルの「ゲンキダシテ」が自分自身に対して歌われているものである。
 失恋の身から奮起しようという歌は多いが、相手を諦め切れない本音が要所要所で見え隠れしている特色がこの歌では特に強い。「嫌いになろうと すればするほど いいことも思い出してもっと好きになる」「運命なら嫌がっても また会える」という歌詞は悪く云えば未練が、別の云い方をすれば捨て切れぬ強烈な愛情が溢れている。
 愛情が薄れて振る方と、愛していながら振られて別れを余儀なくされる側との差がある以上当たり前と云えば当たり前だが、気丈さの中に見え隠れする本音とのミックスが見事である。

 もう一つは自分から離れた相手に対する気遣いである。
 振られた原因は相手に自分より好きな相手が出来たことにあり、自分に対する好意が全く失せた訳ではない、と推測される。となると、恐らくは彼氏側にも何がしかの辛さがあるのだろう。
 それに対して自分は大丈夫だから信じた道を歩んで欲しい、いつまでも後ろ髪引かれないで欲しい、と呼びかける歌詞であり、当然「ゲンキダシテ」という台詞は彼氏に対するものである。
 それにしても甲斐甲斐しい女である、この主人公は。「隠した弱さ」という精神的な面から「掃除」といった日常的なこと、果ては自分らしく生きる人生そのものまで、よくここまで気が届くものである。主人公が世話好きな生活をしているのか?それともこの彼氏がそれほどまでに欠点の多い人物なのか?その両方なのか?どっちにしてもダンエモンとしては「何の不服があって振るのじゃ?そこまで親身になってくれる彼女なんて滅多に出来るもんじゃねぇぞ!」と罵声の一つも浴びせたくなるのが本音である。

 この「ゲンキダシテ」がライブで歌われたのを初めて見たのは、1999年8月5日の千葉マリンスタジアムでのことである。
 前の曲を歌い終えた摩季ネェは突然後方に倒れた。二人のダンサーに助け起こされて、「私はまだまだ大丈夫だけど、みんなも大丈夫―?!」と叫んで歌い出したのがこの曲である。力尽きたかの様に見えて、ひょっこりたち上がって始まった曲が「ゲンキダシテ」……どうも倒れた(というよりバランスを崩して転倒した)のが芝居臭く感じられるのだが、それも一つのパフォーマンスでしょう(笑)。

 この曲にはもう一つの思いで(?)がある。
 同じ1999年の正月、3年振りに身内の新年会に参加したダンエモンは宴席上で母方の叔父に、「休みの日は何をしているのだ?」と聴かれ、「バイクを乗り回すか、家で大黒摩季の歌を聴いている。」と答えた。すると叔父は馬鹿にした様な笑みを浮かべて「おお、あの「ゲンキダシテ」とかいう変な歌を歌っている奴か?!」と云った。当然、一瞬ムカッとしたが、すぐに落ち着いた。
 昔からこの叔父は(決して悪い人でも嫌な人でもなく、昔から道場主を可愛がってくれている方なのだが)自分の理解出来ない趣味・価値観に対して馬鹿にした様な態度を取ることが多かった。そしてもう一つダンエモン自身、ファンになる前は全くこの曲の魅力を理解せず、やたら「ゲンキダシテ」を連呼する曲としての認識しかなく、何故カタカナなのか?とも思っていた。
 今では「ゲンキダシテ」の持つ重さ・広さを充分に理解しているが、なるほど上っ面だけ聴いていたのではなかなかその曲の魅力に気付かないのも仕方がないものである。
 そこを行くと興味のないことには徹底して無関心なダンエモンの深層心理に入りこみ、振り向かせた摩季ソングは素晴らしいと改めて思うし、摩季ソング以外の名曲を耳にしながら聞き流して終わらせている曲もあるかと思うと些か勿体ない話である。


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令和四(2022)年六月六日 最終更新