キイチゴ
解説 いきなりだが、話が逸れる。道場主は「イチゴ」という果物に対して様々な思い入れを持っている。かつて道場主が初恋を経験した故郷の某山脈に自生するキイチゴはすべて食用になり、かつての想い人と共にキイチゴを食した思い出を持つ。
また薩摩守が食用植物の勉学に勤しんでいる時、ジャガイモという野菜がかつてヨーロッパでは芽に毒があることから「悪魔のイチゴ」と呼ばれ、花だけが愛でられたが、後に学者によって芽を除けば貴重な食材であることを調べ、「地の林檎」と呼ばれて重宝されることになった歴史を知り、林檎に比して立場のないイチゴに同情した思い出がある(笑)。
また元禄時代の勉強中に尾張徳川家第三代藩主・徳川綱誠(大食漢)が草イチゴの食傷で急死したことを知り、人の儚さ、大自然の恐ろしさに驚嘆したことがある。うーん、この歌と全然関係なかった…。本題に戻ろう(苦笑)。
何処となく気だるさを感じさせるこのアルバム『PRESENTs』の6番手はダンエモンにとって数ある摩季ソングの中でその印象は薄い。とは言うもののこの歌が摩季ソングの中にあって個性に乏しいわけではない。それどころかかなり異色であり、「私」と「君」の対人関係は不倫とも同病相憐れむ身ともつかない不透明さがある。
「私」は主人公として、「君」は特定がかなり困難である。歌詞にもある通り、「都合のいい呼び方ない」である。歌詞から推測するに、「私」も「君」も互いに恋人がいながら「遠い」という距離感(物理的と心理的の相違はあるが)に苦しみ、そこから来る「『蓼しい』」という感情を共有している奇妙な中であり、その比喩として用いられているのがタイトルにもある「キイチゴ」である。
「『蓼しい』」と言う感情と「『孤独』」感を共有する二人が実際に何処まで接近しているのか(プラトニックで留まっているか肉体関係にまで至っているか)は歌詞からは完全には窺い知れない。「食べ過ぎちゃうとお腹をこわすキイチゴみたい」や「胸の奥軋ませるような秘密を分け合えそう」といった歌詞からは恋、またはそれに類するものを求め合う接触があることは間違いないと見える。
最後に押さえておきたいのは「違う」と言い切り口調の歌詞である。そこには結局は満たされないものを只近くにある、という存在に求めることが本当の幸せ、本当の満ち足りた気持ちにさせるものになり得ないことを教えてくれる様であり、物悲しさをより一層な物にしている。適切な言い方とは言い難いと思うが、「所詮キイチゴでは食事の代わりになり得ない。」と表現するのは乱暴だろうか?
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