作詞 大黒摩季 作曲 大黒摩季 編曲 Yoshiaki Fujisawa
解説 摩季ネェのアルバム『すっぴん』のトップバッターに収録。タイトルの「君は✈☠☢☻☈」の読みは「きみはテロリスト」で、正直、ダンエモンにとって眉をひそめる単語である。
勿論、言うまでもなくこれはテロを推奨する歌ではない(苦笑)。
タイトルにも使われている「✈☠☢☻☈」とは、自らが好ましくないもの、とすることに対して「勝手に決めつけ諦め」て、暴言でこき下ろし、無言で「サヨナラ」を迫ることや、そんな言動の果てに「美しい自由」はなく、「空虚」しか残さらないことをテロリズムに例え、「君は✈☠☢☻☈」としているのだ。
確かに、「「お前はきっと変わらない」」、「「たぶん一生 分かり合えない」」、「「俺には無理」」とあるように、この歌詞に出てくる「君」は随分あきらめが早い上に、決めつけの激しい男である。
勿論、このような諦観は終わりしか生まない。「君」の言動が武器となることを見るなら、「沈黙ミサイル」、「背面トマホーク」の例えは即妙で、それらの武器がもたらすのは「空虚」であり、「未来奪った闇」、「降り注ぐ光り遮る世界」であり、それが何になるのか?それが本当に望むことなのか?ということを主人公は「君」に何度も訴えている。
もっとも、主人公はそんなテロに屈するやわな存在ではなく、かなり言いたいことを言っている(笑)。
歌詞的には、「差し伸べる手を振り払う明日に 君の救いはあるの?」、「努力を放棄しないで 聞いて」、「息苦しくない?」、「怒りのコアは自分自身じゃないの? 見せて」、「どうしたいのか ちょっと教えて 知らなきゃそりゃ与えられない」等の歌詞に「君」に対する反発や批判が見られ、アルバム『すっぴん』の初回限定版についているDisc2収録の「セルフライナーノーツインタビュー」によれば、物騒なタイトルに対し、悪事や悪人に対して処罰する声が多い中、そうなった理由を見ることの大切さや、人間性善説に基づいた悪が善に帰す可能性を説き、「もし一つでも幸せがあったら?」、「心の底から愛する人が一人でもいたら」、テロを起こすような人も本当にそうなったであろうか?との疑問を摩季ネェは呈していた。
正直、ダンエモンは性善説だろうと性悪説だろうと取り返しのつかない悪行を為してしまった者はそれ相応の報いを受けるべきだと思っているので、悪行の果ての因果応報に同情する気は更々ないが、摩季ネェの主張する原因や本来の姿を見ることの大切さも忘れてはならないと思うし、触れてないだけで摩季ネェも処罰を否定している訳ではないと思う。
そしてそんな人間の本来の姿に触れることを摩季ネェは「『すっぴん』の証明」としており、そこから目を逸らすことを「書く人(=writer)としてやってはいけないこと。」としていた。
ダンエモンも自称・ライター(苦笑)として、重んじなければいけないことと痛感させられたのは言うまでもない。
最後に触れておきたいのは、さんざっぱら批判しつつも、その根底にあるのが「君」への「愛」にあることを見逃しては、この歌を単なる物騒な歌としてしか見ることが出来ないことを述べておきたい。
「LET ME HEAR」、「LET ME SEE」の命令形からし、相手に変化を望むからであり、それこそ「君」のように諦めていれば文句も出ることはあるまい。
摩季ネェもその気持ちはサビに出ていることを前述の「セルフライナーノーツインタビュー」で述べていて、「反発も言い訳も 熱い愛本気 愛なんだよ」、「温かな幸せを 君はまだ知らないだけ」、「憎しみは愛の表裏 裏返せば愛に変わる」と主張し、結局のところ「君」を愛しているが故の強弁である所が小気味いい。
世の実際のテロリスト達も、テロリズムの対象や、その周辺にいる者も元が同じ無垢な存在であることや、テロが何も生まないことを悟れば素直に転職できる………………というのはさすがに理想主義的過ぎるかなあ?
摩季の間へ戻る 平成二七(2015)年一二月一二日 最終更新