長篠の勇者達

武田勝頼軍
 武将を見る前に…
 山県三郎兵衛昌景
 真田源太左衛門尉信綱
 真田兵部丞昌輝
 武藤喜兵衛昌幸
 馬場美濃守信春
 その他の諸将



武将を見る前に…
 馬蹄の響きも高らかに敵陣に真一文字に颯爽と駆け込み雑兵を蹴散らす日本一の兵、武田騎馬軍団!いきなり夢を壊す様で申し訳ないが、戦国時代の日本で戦場を駆けまわった騎馬は現代の我々が大河ドラマなどで目にしている姿とはかなり異なる。
 現在「競馬などで騎乗される競走馬」が「一般的に現代の我々が抱く馬のイメージ」だが、これは明治以降に輸入されて増やされたアラブ種である。
 日本在来の馬は農耕民族に相応しい農耕馬である。アラブ種が体高一六〇cmあるのに対して農耕馬は一二〇cm程で、斉藤義龍が馬に跨ったら足が地面についたとの伝承があるが、決して在り得ない話ではない。
 また競走馬は騎手が極力軽装に務めて馬の負担を減らしてから走らされるのに対して、在来馬は二〇kgはある鎧と数kgの太刀や長槍に身を固めた武者を乗せて走らされたのである。競走馬に同じことをさせたら間違いなく骨折するが、柄は小さくとも力と頑丈さに優れる農耕馬はよくそれに耐えた。

 勿論それゆえに在来馬に競走馬と同じスピードは望めず、人間並の走力しか持ち得なかった。
 逆に言うとそうでもなければ騎馬と歩兵は行動を供にできなかった。
 同じ騎馬隊でも世界を席巻したモンゴル騎兵本物の騎馬隊であった。
 馬と供に各地を放浪し、女子供老人も騎乗し、馬泥棒を問答無用で死刑(その場で殺してもよい)としてきたモンゴル族(及び隣接する遊牧民族)は戦の折には最下級の一兵卒までもが騎乗し、乗り換え用に常に数頭の馬を余分に従軍させていた>
 彼等の馬の性能の程は薩摩守の研究不足で詳細は不明だが、その機動力・速攻性・破壊力はアジア・欧州を恐怖に陥れたのは周知の通りである。
 鎌倉時代に日本が元寇をしのげたのも、暴風雨もあるが、海に囲まれた日本に元軍が大量の騎馬を持ちこめず、騎馬民族としての本領を発揮出来なかったことも大きな要因だった。

 そんなモンゴル騎馬隊や競馬馬の速さと同じ目で見ては武田騎馬隊が可愛そうだが、それでも急峻な甲斐の山々で鍛えられ、元祖木曾駒も多数含んでいた武田騎馬軍団は織田・徳川は勿論今川・北条・上杉が恐れ、足利将軍家や浅井・朝倉・一向宗勢力は頼りとしたのは事実であった。
 勿論当時の在来馬の性質は武田軍は勿論織田・徳川も充分に承知している。織田・徳川軍は馬防柵を用意し、武田軍は鉤縄を利用して柵を引き倒した。
 前者は速度はなくとも力強く、気性も荒い騎馬と正面切って戦うことを避け、後者はその力に任せて柵を倒し、歩兵を蹴散らした。

 騎馬隊が偏見の目(←少し過言だが)で見られている様に武田軍全体が為す術なく鉄砲の前に倒れた様に見られ勝ちであるのも見直すべきである。
 鉄砲隊騎馬の突進力に対抗する為に三段の釣瓶撃ちを行った訳だが、前述した様に在来馬には時速一五〜二〇kmの人間並の走力しかない。
 勿論飛び道具である鉄砲が速射が求められたり、力ある馬に鉤爪を架けられて柵を倒されない為にも速射に努める訳だが、これだけ敵が鉄砲の運用について熟考していれば必然武田軍も鉄砲に対して考えられる限りの手を打った。

 当時の鉄砲−つまり火縄銃の弱点は強風速射性であった。
 必然、気象条件速攻、また初弾をかわされた直後に隙が出来た
 武田軍が織田・徳川軍に突撃を敢行した五月二一日は旧暦では夏にあたり、梅雨明け間際だった。
 実際に決戦直前まで豪雨だったのである。また信玄健在時より攻城戦で銃撃を中心とした迎撃に曝されていた武田軍は真田幸隆考案の竹束盾(文字通り竹を束にした弾除け)を長篠にも持ち込んでもいた。
 射程距離も武田軍は充分に計算していた。歴戦の猛将達が数多く鉄砲の餌食になったのは事実だが、その多くは織田方の柵を飛び出して強行された銃撃や地勢を利した伏兵による銃撃によって討たれたのである。
 決して騎馬の力に任せて馬鹿の一つ覚え的に馬防柵に突っ込んで討たれたのではなかった。

 更には軍勢の数にも注目して欲しい。信玄の時代に三方ヶ原の戦いでは武田軍二万七〇〇〇に対し、徳川軍八〇〇〇、織田の援軍三〇〇〇で、家康にとっては信玄の用兵や騎馬の破壊力も恐ろしかったが、その数も充分に恐れる要因だった。
 そして長篠の戦いでは逆に武田軍一万数千に対し、織田軍三万五〇〇〇、徳川軍八〇〇〇の計四万三〇〇〇である。約三倍の多勢に敢えて切り込んだ武田勢−日本一の兵と称された軍団が無策に突っ込んだと思えるだろうか?

 長篠の戦いは確かに武田軍の大敗である。
 「信玄の両腕」と云われた山県・馬場の勇将達が討死し、以後武田軍は遂には三河に踏み込むことが叶わなかった。だが武田軍は一万の兵を失いつつ、織田・徳川連合軍にも六〇〇〇の損害を与えた。気象条件・作戦・鉄砲数等の数多くの点で不利に立った武田軍が内部分裂を抱えつつ戦ったことを考えれば為すすべなく敗れた数ではなく、織田・徳川の損害は決して小さいとは言えなかった。
 勿論武田軍が歴戦の猛者を数多く失い、織田・徳川に名立たる武将の討ち死にがなかったことを考えると武田の惨敗に違いはないが、これほどの大勝をあげながら織田・徳川が武田を滅ぼすのに以後七年の歳月を費やしたことを忘れてはならないだろう(浅井長政・朝倉義景は信長に逆らって三年で滅ぼされている)。

 以上の背景を念頭に置いた上で不利な中、武田の猛者達が如何に戦い抜いたかを注目したい。


山県三郎兵衛昌景(やまがたさぶろうびょうえまさかげ)
概略 徳川家康をして山県とはげに恐ろしき大将ぞ……。」と言わしめた知勇兼備、非の打ち所のない名将-それが山県三郎兵衛昌景である。
 彼は元は飯富(おぶ)氏の人間だった。しかし実兄・飯富兵部少輔虎昌(おぶひょうぶしょうゆうとらまさ)が信玄の嫡男・武田義信の養育係だったために、信玄と義信の親子関係が険悪化した際に謀反の咎で切腹を命じられた。
 しかしこの謀反が未然に防がれたのは虎昌が弟の昌景に密かに知らせ、昌景から信玄に情報が伝わっていた為である。
 立場上義信に味方せざるを得なかった兄・虎昌を立場上処罰せざるを得なかった信玄は、「謀反人の弟」の立場に立たされたものの惜しんで余りある昌景に、家系が途絶えて久しい甲斐の名家・山県の姓を名乗ることを許した。
 信玄への恩義と兄の行為への贖罪の念から文武に尽くした昌景は、兄がそうした様に、軍装を赤一色で統一。世に言う「赤備え」で戦陣に臨んだ。
 赤い軍装は戦場で目立つ為、臆病な振る舞いや卑怯な行為をすれば即座に笑い者になる立場に立たされた。自らをそんな立場に追い込んで奮い立たせた山県勢は「信玄の片腕」とまで言われる活躍を為し、勝頼の器量も認め、昌景は二代に命懸けの忠義を尽くした。
長篠にて 最後の戦場で山県は左翼にて軍勢を率い、主に徳川と戦っていた。徳川四天王の一人榊原康政や譜代の臣・大久保忠世の軍と干戈を交えた。
 元より寡兵に立たされた状態で山県勢は敗色が濃厚になっても信長・家康を唸らせる暴れ振りを見せた。
 中央の御親類衆が退いたため、戦場に孤立した山県隊に勝頼は自ら救援に向かわんとするが、これは周囲に止められ、山県もそれを望まなかった。
 そしてじりじり退く山県に対し、前田利家がその退路を予測し、銃手を伏せ、一斉射撃を敢行した。
 一度目は何とか馬上に耐えた山県だったが、二度目の銃撃に落馬した。十数発の弾丸を受けたその身は既に遺体だった。
 大将を討たれた山県隊の残党は山県を銃撃した前田軍の射手達を何とか蹴散らすと側近の一人が介錯してその首級を織田・徳川勢から守り、勝頼の元に運び込んだ。
 勝頼は結果として見殺しにしたことを深く悔い、山県の犠牲を無にしないために悔しさに耐えて退却を開始した。
戦後 山県昌景の討死は長篠の戦いで命を落とした数多くの武将の中で間違いなく三本の指に入る痛恨事であった。
 山県家のその後は不明だが、昌景の戦死から武田家の滅亡を通して徳川家康は山県勢の生き残りを自軍に吸収することに腐心した。その後山県の鍛えた「赤備え」は徳川軍において井伊直政が受け継ぎ、同様に武田の残存勢力でも真田幸村が「赤備え」を率いて大坂夏の陣で家康の心胆を寒からしめたのは有名な史実である。
 山県の武勇は彼の理念と供に軍装の形で生き残ったのであった。


真田源太左衛門尉信綱(さなだげんたざえもんのぶつな)
概略 真田幸隆の嫡男で本来なら真田家の名声を一身に背負う立場にある男だった。
 一般に真田三代といえば幸隆昌幸幸村を連想する人が主流だが、それは取りも直さずこの幸綱と次弟の昌輝兄弟が長篠の戦いで討死し、歴史上から早々に降板してしまった事にあるといっても過言ではない。
 父・幸隆は信玄の西上戦に従軍せず、信玄の死に意気消沈し、翌年に後を追うように病死し、信綱が家督を継いだ。
 それ以前の第四回川中島が初陣と見られ、駿河攻略当たりから弟・昌輝とコンビで史書にその名を見せている。そして今川氏真を庇った北条との対峙にも兄弟は活躍している。
 小田原城攻略では天下の名城の堅牢振りに武田勢は軍を退くが、この時は殿軍として活躍した。
長篠にて 真田信綱は弟・昌輝とともに右翼に布陣して馬場勢・土屋勢と供に主に織田勢と戦った。
 信綱・昌輝兄弟を始めとする右翼の不幸は後詰が穴山梅雪だったことにある
 長篠の戦いには二年前の三方ヶ原の戦いで織田の援軍として徳川軍に従軍しながらほとんど戦わずに敗走した佐久間信盛から、「信長の勘気を蒙ったので織田を裏切り武田に内応したい。」との繋ぎがあり、これが真実かどうかが武田軍議でも争点となった。
 それを「真実である。」と強く押した穴山は佐久間の動きがおかしいと見ると、その責任から逃れるかのように勝手に戦線を離脱したはっきり言って死罪ものである
 背後=後詰の穴山隊を失った真田勢は柵を飛び出して突進してきた織田勢に完全に包囲された。
 信綱は包囲が完成する直前に勝頼に近侍していた弟・昌幸に「御館様を守って退却する様」に伝令を飛ばして昌輝とともに激戦の渦中に身を投じた。
 勝頼は使者に真田兄弟を退却させるよう指令を出すが、時既に遅く、信綱は首級一四を挙げる奮闘の果てに徳川方の将・渡辺政綱に討ち取られた。ほぼ時を同じくして昌輝も討死し、一門の禰津(ねづ)・滋野(しげの)・望月衆も殆どが運命をともにした。
 真田勢は本陣との伝令のやり取りといった一部の例外を除いて最後の一兵まで逃げずに全滅した。その死は甥の幸村程の知名度を得れなかったとはいえ、決してそれに恥じるものではなかった。
戦後 享年三九歳で戦場の露と消えた真田信綱に子がいなかったとは想像し難いのだが、真田家は三弟の昌幸が継いだ。
 見せ場が少なかった為に実像の掴みにくい信綱だが、口述が殆ど残されていないことから寡黙だったと思われているが、主君・武田勝頼の残した書簡は彼が信綱の誠実さを頼りにしていたことが溢れている。それは本来武田の本家ではなく、母方の諏訪氏を継ぐ筈だった勝頼が甲斐伝来の宿将達に軽んじられ、彼と同じく余所者−信濃者と見られていて、地縁のある真田一族を頼っていたとの説がある。


真田兵部丞昌輝(さなだひょうぶじょうまさてる)
概略 真田幸隆の次男で兄・幸綱とともに設楽ヶ原に散った華々しい最期は生きて名を残した弟昌幸・甥の信之・幸村兄弟にも見劣りしないものだった。
 彼の名が歴史に登場するのは対今川氏真の駿河侵攻である。以後ほとんど兄・信綱と供に奮闘した彼は活躍した期間の短さと次男と言う立場から兄以上に影が薄い。
 だが殆ど兄とセットにされるのは兄に劣らず、さりとて兄に対して出しゃばらない名コンビ振りを発揮したからだろうと思われる。
長篠にて 昌輝の長篠での奮闘は殆ど兄・信綱に準ずる。唯一相違が見られるのは、彼が首級を二つ挙げたことである。
 そして最期もまた兄と同様に多勢に無勢の乱戦の中に華々しく討死した。
 昌輝の行跡が殆ど書かれていないのは彼が無能だからではない。最後の一兵まで退かずに全滅した真田勢の中で、(繰り返しになるが)兄・信綱に劣らず、さりとて兄の活躍を阻害しない名コンビ振りを発揮したからだろうと思われる。
戦後 長篠で討死した真田昌輝は享年三三歳。薩摩守は昌輝の子孫の存在を確認していないが、信綱・昌輝兄弟に子が全くいなかったとしたら三弟・昌幸が武藤家を継いで戦後に真田勢に復するという流れは存在せず、始めから昌幸は真田姓だった筈である。
 結果として信綱・昌輝兄弟の子ではなく幸隆三男の昌幸が真田家を継いだ経緯は不明だが、はっきり言えるのは初代幸隆以来現在に至るまで賢主名君・賢人偉人を輩出する真田家の前途洋々たる働き盛りの壮年武者の死を惜しむ声は古来より現代に至るまで絶えないという事である(真田兄弟の甥・信之は代々名君を輩出し、現当主は大学教授である。また道場主の高校時代に担任教師から請われて級長を務めていた学友は母方の祖母が真田幸村の血を引いていた。その血筋によるものかどうかは断言出来ないが、彼が学業・人格において優れた人物であったことは道場主と仲の悪い連中でさえ認めていた)。


武藤喜兵衛昌幸(むとうきへえまさゆき)
概略 「武藤」とあるが、元の姓は「真田」である。
 真田幸隆の三男に生まれ、先代・武田信玄の時代に、断絶していた甲斐の名家・武藤氏の姓を名乗る様命じられ、武藤喜兵衛昌幸と名乗っていた(信玄は昌幸の才を「我が目である。」と評する程愛でていた)。
 この長篠の戦いで長兄幸綱と次兄昌輝が供に討死したため、昌幸は期せずして真田家に戻ったが、そんな彼の活躍を『武田勝頼』(新田次郎:原作・横山光輝:漫画)で見てみると、作品中最も美味しい所を殆ど一人でかっさらっている。
 とにかく戦略・予見・交渉全てに間違いがなく、唯一成功しなかったのが長篠での穴山梅雪の説得であった。
 彼が最初に史上に登場するのは武田信玄の小姓としてである。政治上の昌幸の立場は、信濃衆である幸隆が甲斐国主・信玄に二心がないことを示す証−つまりは人質だった。だが幸隆が信玄に信頼されていた様に、昌幸もまた才と人柄を愛でられ、直に軍学を授けられた様に、師弟の付き合いといってよかった。
 長篠の戦いを観点に武将を論述する主旨ゆえに詳細は省く(というか書き切ろうとしたらそれだけで一つのサイトになる)が、概略としては幼少の頃より信玄に可愛がられ、育てられた若武者はその才を遺憾なく発揮し、勝頼からも曾根内匠(そねたくみ)とともに両腕として頼りにされた若武者としての多才の男としての武藤喜兵衛昌幸を認識して頂きたい。
長篠にて 昌幸の兄・信綱の項でも論述したが、武田軍の進退には織田軍の佐久間信盛の内応が真実かどうかに争点があった。
 そして佐久間を最後の最後まで疑っていたのがこの昌幸であった。
 曾根内匠とともに勝頼に近侍して本陣を守っていた昌幸は決戦前から織田勢の鉄砲を警戒し、父・幸隆考案の防弾武具を多用させ、気象にも気を配っていた(自明の様に火縄銃は雨に弱い)。
 だが気象は味方せず、佐久間の裏切りも敵の謀略であったことが明らかになった。
 この時点で昌幸は退却を進言したが、勝頼は昌幸の言を適切なものであると認めながらも、見た目には騎馬隊が次々と柵を突破している旗色から退却を命じることが出来なかった。
 勝頼の意を察した昌幸は、その時点で採れる最善策として、左右の予備陣を前線に投入し、勢いのある内に一気に織田・徳川陣を殲滅することを進言した。
 ところが穴山梅雪が出撃を拒否し、自ら説得に行こうとする勝頼を押し留め、昌幸は信玄の形見の軍配を持って穴山陣に赴いた。

 話が逸れるが武田勝頼ファンに穴山梅雪は蛇蝎の如く嫌われている。
 勝頼を当主として認めない言動を繰り返し(「諏訪家の人間」と見做していた)、戦陣にあって下知に従わず、最終的には徳川家康に寝返った。これでは嫌われるのも無理はない
 穴山には言い分もあるだろうが、信玄の姉を母とし、信玄の次女を妻としている男として生半可なことで許されることではない。穴山は武田家滅亡後、本能寺の変を知り、家康と別ルートで領国に帰ろうとした所を落武者狩にあって斬り死にするという些かカッコよくない最期を遂げ、その死は余り同情されない。
 そして長篠の戦いでも昌幸の説得に穴山は逆ギレして昌幸の出自の低さを罵って追い返す始末だった。
 何と器の小さな男であろうか


昌幸は本陣に引き返して勝頼に退却を進言し、兄信綱からも退却の進言の使いが来た。
 勝頼は間違っても弱将ではなく、山県昌景・真田兄弟・馬場信春達の危機を聞く度、自ら穴山梅雪に進撃を命じに行こうとしたり、何度となく出撃しようとした。しかしそれを留めたのは他ならぬ昌幸であった。
 相次ぐ勇将達の訃報に昌幸はその犠牲を無駄にしない為にも、決して討死してはならないことを勝頼に訴え、勝頼も悔しさを堪えながら戦場離脱を決断した。
戦後 武藤昌幸は長篠の激戦で長兄と次兄を失い、期せずして実家の真田家を継ぐ身となった。
 また戦前から終始誤りのない洞察力を持っていた昌幸に諸将の信頼の目が集まり、上杉景勝との同盟や新府城の新築にもその際を遺憾なく発揮した。
 だが武田家中は国人同志の不信感が募り、信濃衆である真田家もその渦に巻き込まれた。
 主君である勝頼からは絶大な信頼を受けながら甲斐国人は昌幸を「余所者」と見做し、そんな視線から勝頼も庇い切れなかった。
 勝頼からは天目山の戦いを目前に、甲斐滅亡の際に身を寄せる為に郷里の上野で戦備を整えることを命じられ、昌幸は上田城に篭ったが、勝頼親子が来ることはなかった。
 武田家滅亡後、昌幸は智謀の限りを尽くして織田・徳川・上杉・北条と上手く離合し、小豪族としての命脈を保った。

 その後、世は豊臣秀吉の天下となり、その死後、関ヶ原の戦いが勃発すると、昌幸は東西どちらが勝っても真田の家が残る様に取り計らった。
 早い話、嫡男・信幸を東軍につけ、自らは次男の幸村と供に西軍についたのであった(ちなみに信幸の妻は徳川四天王の一人・本多平八郎忠勝の娘で、幸村の妻は石田三成の親友・大谷吉継の娘を妻)。
 上田城で徳川秀忠の大軍を足止めし、本線にに遅参させて西軍に貢献した昌幸だったが、西軍は敗れた。
 東軍に味方して大功を立てた信幸(戦後「信之」と改名)が手柄を投げ打って徳川家に忠誠を尽くす、として義父(本多忠勝)とともに訴えた助命嘆願により昌幸・幸村は助命され、替わりに高野山に流された。
 昌幸はそこで天寿を全う。大坂の陣で幸村が大坂城に入ると家康は昌幸が死んだことを知っていた筈なのに、一瞬うろたえて、「親父か?倅か?」と側近に尋ねたといわれている。
 昌幸は死して尚家康を恐れさせていたのであった。


馬場美濃守信春(ばばみののかみのぶはる)
概略 徳川四天王の一人・本多平八郎忠勝は生涯六〇度に及ぶ戦においてかすり傷一つ負う事はなかったが、武田家に於いて同様の存在をあげればこの馬場美濃守信春が挙げられる。
 そしてその信春が初めて傷を負った戦が彼の終焉の地となったこの長篠の戦いだった。
 道場主が馬場信春の存在を知ったのは昭和六三(1988)年NHK大河ドラマ『武田信玄』だが、美木良介氏演ずる馬場信春は短気ながらも闊達とした、戦場で頼りになる猛将だった。
 馬場は山県と並んで「信玄の両腕」と謳われ、大河ドラマでは信玄の死の直後に信玄と供に戦い続けた日々を振り返り、ため息混じりに「よう戦こうた…。」と呟いた原隼人正昌胤に「儂は四〇年じゃ!!」と一括するシーンがあったが、その言葉通り信玄の初陣から信濃攻略・川中島・上野・小田原・駿河・三方ヶ原・遠江・三河、とその歴戦は枚挙に暇がない。
 彼はニ一度の戦いにおいてかすり傷一つ追わず九度の褒賞を受けた。そしてその死に様は彼の歴戦の武勇を締めくくるのに相応しいものだった
長篠にて 戦場で彼は真田兄弟・土屋昌続とともに右翼を率いて水野信元・佐久間信盛の軍勢と激戦を繰り広げた。
 それゆえに彼は佐久間の裏切りが虚偽であることに真っ先に気付き得た。二の柵まで追い込んでも動かない佐久間勢を怪しいと睨んだ馬場はその旨を勝頼に報告すると自身は佐久間勢に斬り込み、七百騎でもって六〇〇〇の佐久間勢を押し込んだ。
 しかし土屋が銃弾に倒れ、真田兄弟も討死し、右翼では山県昌景までもが銃弾の前に落命した。
 馬場は殿軍に務め、勝頼の戦前離脱を成功させると自らも退却にかかったが、織田・徳川勢は執拗に追撃して来た。馬場信春の首を挙げられるか否かはそれほど重要だった
 寒狭川の手前に差し掛かったとき、馬場の手勢は三人にまで減っていた。そしてそこに追いすがってきた敵軍との戦いが最後の奮闘となった。
 何人かの敵兵を斬り倒すが、手傷を負った馬場は自らの体に槍を突き立てた兵に「見事じゃ、儂は馬場美濃守信春、首を取って手柄とせい。」と言って従容としてその首をくれてやった
戦後 馬場信春の死は織田・徳川を勢いづけ、武田に痛恨の一撃となった。
 そして死を恐れない奮戦と潔い最期に敵も味方も賞賛の声を送り、長篠に碑が建てられ、遺体は武田家の菩提寺である恵林寺に葬られた。 
 そして最期を悟って敵に手柄を与えた死に様はいろはカルタに
 「平然と首(こうべ)を渡す美濃守
 と残され、よく似た死を遂げた鳥居元忠と並んで有名となった(鳥居元忠は関ヶ原の戦いの前哨戦で伏見城で一五〇〇の寡兵で西軍三万と戦い、落城に際して敵兵に首を譲った。潔さに感じ入った敵兵は首を打つのではなく、鳥居に自害を勧めて自らが介錯した)。


その他の諸将
 一〇〇〇騎でもって三〇〇〇の滝川勢を圧倒した内藤昌豊は知将の名に恥じない奮闘の末に戦死した。

 陣馬奉行原隼人正昌胤は父・昌俊と二代に渡って陣馬奉行として活躍していたが、山県・内藤と供に左翼で戦死した。

 甘利信康は父の備前守虎康が信玄唯一の大敗戦・上田ヶ原の戦いで戦死したように、自身も武田軍大敗の地・長篠で戦死したのは歴史の皮肉だろうか?
 彼の鎮魂碑の横には案内板があり
 「雄々しくも 立ち腹さばく 甘利信康
 と書されている。

 馬防柵を飛び出して来た織田勢の銃撃を浴びた土屋昌続は馬防柵にしがみついた体勢で息絶えた。最期の最期まで敵陣に突入する姿勢を示した彼は、三方ヶ原で一人として敵に背中を見せずに討死した徳川勢を亡き信玄が褒めていたのを覚えていたと見るのは考え過ぎだろうか?

 歴戦の勇将達の奮闘振りに対して、穴山梅雪を始めとする御親類衆の腰砕けは目に余るものがあった。戦後高坂弾正が穴山と武田信豊の切腹を勝頼に進言したほどであった。
 ただそんな中にあっても長篠と甲斐の補給地である鳶ノ巣山城を武田信実 (信玄の弟・信虎七男)が最後まで守って戦い、討ち死にしたことを付け加えておきたい。



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最終更新 平成二六(2014)年六月一一日