長篠の勇者達

徳川家康軍
 武将を見る前に…
 酒井忠次
 奥平九八郎貞昌
 鳥居強右衛門勝商
 その他の諸将



武将を見る前に…
 決戦の舞台となった長篠は三河にあった。つまり長篠の戦いとは徳川領三河にある長篠城を攻め寄せる武田勝頼軍に対して長篠を救援するべく徳川家康が織田信長の援軍を伴って駆け付けた戦いであった。
 ゆえに武田・織田・徳川の三氏で見ると徳川軍こそが自領の為にも最も決死の奮闘を課せられる立場にあった。

 信長はどれほど家康に援軍を催促されようと万全の準備が整うまで援軍を出し渋った。
 が、武田軍と直接相対する家康はそうも言っていられず、信玄没後から長篠の戦いに至るまで何度も武田軍と干戈を交えた。
 がそれでも勝頼本隊と徳川軍のみで直接相対することは極力避けた。それほど家康は武田信玄と甲州勢を恐れていた。
 三方ヶ原で馬上にて脱糞するほどの恐怖を味わった家康の無理ならぬ用心深さだったが、勿論家康はただただ脅えていた訳ではなかった。

 ここで注意しなければならないのは長篠で奮闘する徳川軍には二ヶ所での奮闘があったということである。
 設楽ヶ原で織田軍と供に鉄砲隊で騎馬軍団と戦った家康本隊に属する軍と、長篠城内にてなかなか来ない援軍を待ちながら五〇〇の寡兵で三〇倍もの武田軍と戦い続けた奥平軍であった。
 そして設楽ヶ原の決戦以前にも援軍の手配や情報戦に尽力した者達の活躍は決して設楽ヶ原で奮闘した者達に劣るものではなかった。長篠城を前にした設楽ヶ原だけが徳川軍の活躍した場でないことを念頭において諸将の活躍を見てみたい


酒井忠次(さかいただつぐ)
概略 野戦を得意とした徳川家康の四天王といえば酒井忠次・本多平八郎忠勝・榊原康政・井伊直政であった。
 その四人の中で最長老であり、筆頭でもある酒井忠次は家康が跡取りとして期待した嫡男・信康を織田信長から守りきれなかったこともあって、他の三人に比べて人気も知名度もイマイチだが、この長篠の戦いにおいては織田信長を感嘆させ、他の三将に比して抜きん出た活躍をした。
長篠にて 戦前の軍評定にて主君家康と供に信長の面前に出た酒井忠次は一つの作戦を進言した。
 それは武田勢背後にある鳶ノ巣山城への攻撃であった。
 設楽ヶ原で不利と見た武田勢が引き揚げるのを防ぐと供に、戦勝後の地固めの意もあった。
 忠次の進言に信長は烈火の如く怒り、家康も退場を命じた。ところが諸将が陣に戻り、家康と二人になると信長は家康に忠次を密かに呼ばせた。
 信長は再び面前に来た忠次に最前の進言に実は感心していたことを告白し、「本来なら自分が行きたいぐらいの見事な作戦」と言って忠次に五〇〇の鉄砲隊を与え、密かに実行を命じた。敵を騙すにはまず味方からであった。
 忠次指揮による作戦実践の結果、武田勢は敗戦後、長篠に出る為の足がかりと一族の一人武田信実を失ったのだった。
戦後 「信長にも認められた知将」・酒井忠次だったが、皮肉なことにその信長との関連で御家の出世に歯止めをかけてしまった。
 というのも長篠の戦いの四年後、家康が涙を飲んで嫡男・信康を切腹させた事件にあった。
 信長が家康に嫡男・信康と正室・築山殿の処分を命じた背景には謎も多いが、ここでは触れないでおく(本筋ではないし、長くなるから)
 勿論家康とて人の子、何も唯々諾々と信長に従った訳ではなく、諸将と供に信康助命に手を尽くした。そして信長の信康母子弾劾に対して釈明の使者に発ったのが忠次だったのだが、あろうことか忠次は釈明するどころか弾劾の大半を事実と認めてしまったのだった。
 その後更に一一年を経て、豊臣秀吉が天下を統一すると徳川家康は関八州への御国替えとなった。忠次は息子の家次に家督を譲った隠居の身となっていたがこの御国替えに際して徳川譜代の臣が続々加増を受け、井伊・本多・榊原達が一〇万石前後与えられたのに対して家次は三万石しか与えられなかった。
 不服に思った忠次が家康にその旨を訴えたところ、家康は「そなたもわが子が可愛いか?」と冷たく言い放ったと云う。
 明らかに信康を救ってくれなかった忠次へのあてつけだった(家康は結構根に持つタイプである)。
 七年後酒井忠次は寂しく世を去った。


奥平九八郎貞昌(おくだいらくはちろうさだまさ)
概略 長篠城主として僅か五〇〇の寡兵で三〇倍も多い武田軍の侵攻に相対した奥平九八郎貞昌は戦後、地位(家康の娘婿としての譜代大名に)と(家康の長女・亀姫)と名誉(信長から賞されて「信」の字を与えられ「信昌」と改名)を手にしたが、そこに至るまでの貞昌の艱難辛苦は、それこそ三〇倍の武田軍と戦う以上の苦難に満ちたものだった。
 三河・作手(つくで)の国人領主であった奥平家は田峯(たみね)の菅沼定高、長篠の菅沼正貞とともに山家(やまが)三方衆と呼ばれ、長らく武田と徳川の両方の顔色を窺う慎重な外交が要求されて来た。
 三方衆の内、田峯の菅沼定高は早くから徳川に属していたが、奥平家は武田信玄存命中は武田に属していた。しかし信玄の死に伴い、明日の見えない状況に小豪族生き残りの常套手段に走った。
 つまり一族でわざと敵味方に分かれ、どちらが勝っても家名が存続する様に図ったのである。
 奥平家ではこのときは祖父の道文(どうぶん)が武田につき、父・美作守貞能(さだよし)と貞昌が徳川に味方した。この時甲斐で人質として生活していた奥平一族(貞昌の妻及び末弟・千丸を含む)は皆殺しにされた………。
長篠にて 奥平貞昌長篠の戦いの一面での主役である。
 徳川への合力後、老獪な家康は妻を失った貞昌に長女・亀姫を嫁がせて優遇した一方で、彼の二度と武田に戻れない立場(降伏しても間違いなく命はない)を利用して、長篠城主として城の死守を命じた。
 勿論それは長篠城の重要性を百も承知で貞昌を信じればこそでもあった。

 五〇〇の兵を率いて武田勢を待ち受けることとなった貞昌は天然の要害である長篠城に篭ってよく戦った。
 武田の細かい動きも的確に探り、家臣・塩谷五八郎を家康に派して大筒(←火縄銃を太くしたものと思って下さい)ニ挺を譲り受けた。武田軍の攻城兵器迎撃用の秘密兵器であった。
 貞昌大筒と地形を巧みに利用し、武田勢を迎撃したが、多寡の差は明らかだった。
 程なく弾状曲輪が落とされ、次いで二の丸も落とされ、残る本丸に篭ることになった。
 貞昌は家臣の一人鳥居強右衛門(とりいすねえもん)を救援要請の使者に任じ、武田の厳しい警戒を突破させ、烽火でもって連絡を取り合い、救援が必ず来ることを城兵に言って聞かせ、士気を盛り上げた。
 詳細は「鳥居強右衛門勝商」の項で論述するが、強右衛門は立派に使者の役目を果たし、自らは命を落とすもその死をもって城兵の士気を極限まで盛り上げた。
 その後、三〇倍の兵力の猛攻に耐えた奥平勢の努力は報われ、援軍として駆け付けた織田・徳川勢は武田勢を完膚なきまでに叩き潰し、長篠城及び奥平勢は九死に一生を得たのだった。
戦後 前述したように長篠城死守の賞として奥平貞昌は信長より「信」の字を与えられ、奥平信昌と改名し、「家康の義理の息子」として譜代大名の地位を手にした。
 石高こそ大きくなかったものの後に美濃加納城主の地位を与えられ子孫は譜代大名として続いていった。妻の亀姫は信昌没後、加納殿と呼ばれ、娘婿・大久保忠常の父である大久保忠隣が改易に遭ったときは父(家康)や弟(秀忠)にも怒りを露わにして、忠常の大久保家再興のきっかけを作った女傑で、その二人の血筋は奥平松平家として家康四男・松平忠吉の旧領武蔵忍(おし)一〇万石藩主にも残された。


鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)
概略 奥平家家臣。通称・「河童の強右衛門と呼ばれた鳥居強右衛門勝商はその胆力と運動神経を買われて長篠城と織田軍の連絡を取り持つべく奔走した。
 そして彼はその死と供に一風変わった名誉を得たのであった。
長篠にて 三〇倍の武田勢の猛攻を奥平勢はよく防いだが、援軍なくば落城は必至だった(元々篭城とは援軍あってのものである)。
 織田信長はかつて家康の高天神城救援要請に言を左右にして出し渋り、高天神城を見殺しにしたことがあった(←徳川家中の怒りに対しては金で誤魔化した)。それゆえ長篠城兵にとっても、援軍が来るか否かは心許ないものであった。
 奥平貞昌は強右衛門を援軍要請の使者に任命した。
 強右衛門は川に潜り、水中に縄と鈴を張る程の武田の警戒網を突破し、突破を知らせる烽火を上げるや信長・家康の側にいる奥平貞能(貞昌の父)のもと−三河岡崎城へ不眠不休で走り続けた。

 強右衛門は信長を前にしても堂々たる、しかしながら余計なことは言わない弁舌でもって、半ば脅してまで救援の確約を取りつけると「我等と供に長篠救援に向かおう」や「少しは休息されよ」と言った周囲の声に「一刻も早く吉報を伝えたい」と言って長篠にとんぼ返りした。
 強右衛門のような家臣を持った奥平貞昌に信長も家康も感心して貞能を褒め、長篠城が死守されることを確信し、また何としても長篠を救わねば、と考えた。

 雁峯山(がんぽうざん)より「援軍は来る」の意を示す烽火を上げた強右衛門は最後の最後で武田の警戒網に引っ掛かり、捕えられた。
 しかし目的の大半を既に達成させていた強右衛門は全く死を恐れず、援軍到来を述べて堂々と振る舞った。
 ここからが世に名高い鳥居強右衛門最後の活躍であった
 強右衛門の口から既に長篠城の城兵が援軍の到来を知っていることを聞かされた武田勝頼は強右衛門に提案した。それは城兵に「先に挙げた烽火は虚報で、援軍は来ない。」と告げれば、強右衛門の助命は勿論、彼の家族も助けるとした。
 強右衛門はその提案に乗った振りをして城前に立つと、
 「四、五万の援軍は目の前、一両日、城を死守なされよ!!」
 と声を限りに叫び、城兵からは歓喜の声が挙がった。

 武田兵は慌てて強右衛門の口を塞いだが遅かった。
 勿論武田の提案を騙して蹴った強右衛門に生きる道はなかった。強右衛門の忠義は讃えられるべきものだが、取引上は完全な騙しと裏切りだったのだから。そしてそれは強右衛門も覚悟の上だった
 強右衛門は両軍の見守る中で武田に逆らった者に対する見せしめとして殺されることとなった。

 すべてを覚悟して勝頼を謀った強右衛門にこの期に及んで死への恐れなどあろう筈がなかった。
 褌一丁で磔台に架けられた強右衛門は改めて城の死守を城兵に訴え、同時に数本の槍が彼の体を貫いた。
 長篠の城兵は強右衛門の死に涙し、武田兵への怒りと強右衛門に報いんとの念が城兵の士気をより一層盛り上げた。強右衛門は本望だっただろう。
 「見せしめ」とは本来、それを見る物の士気を挫く為に行われるのだが、誰がどう見ても逆効果だった(かといって許す訳にもいかなかっただろうけれどね)。
 そしてこの時、武田勢の中から一人の武士が進み出て、処刑台上の強右衛門の前に跪いて言った。
 鳥居殿!貴殿こそ誠の武士でござる!願わくば貴殿の最期の姿を我が家の旗印とさせて頂きたいが如何か!!」
 虫の息の強右衛門はそっと笑顔を浮かべて「承知」の意を示すと息絶えた。
 旗印へのモデルを申し出た武士の名は落合左平次(おちあいさへいじ)。彼は言葉通り磔に架けられた強右衛門の姿を紙面に描き、それを旗印とした。
戦後 強右衛門の男気に城兵はよく応え、また彼の救援要請に駆け付けた織田・徳川勢は武田勢に完全勝利した。
 残された強右衛門の遺族は栄え、また彼の最期を絶賛して自らの旗印とした落合左平次は武田家滅亡後も生き抜き、子孫は紀伊徳川家に仕えた。


その他の諸将
 三方ヶ原で進言に大敗した徳川家康は極力単独で武田軍と当たる事を避けた。そして高天神城を信長に見殺しにされたものの、この戦いでは信長も三万五〇〇〇の大軍と三〇〇〇挺の鉄砲をもって駆けつけてくれた。
 二度と武田勢に三河を踏ませない為の戦略上の分かれ目でもあり、徳川軍の士気は否が応にも盛り上がった。

 本多忠勝榊原康政といった若手猛将は左翼にて織田勢と供に武田中央隊と戦ってこれを退けた。

 石川数正大久保忠世といった家康の懐刀的な将達も右翼で山県隊壊滅に尽力した。

 またこの戦いの行方には三河の国人領主の運命もかかっていたため、大須賀康高を始めとする遠江国人衆も死力を尽くした。

 徳川と武田の長い死闘を見た時、信玄と正面切って戦わず、鉄砲隊充実まで武田勢の矢面に立たなかった織田勢に比べて、徳川軍が如何に重いものを持ってこの戦いに挑み、奮闘したかが窺い知れるというものである。



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最終更新 平成二六(2014)年六月一一日