作詞 大黒摩季 作曲 大黒摩季 編曲 Yohey
解説 摩季ネェの15thアルバム『PHOENIX』の7番目に収録されている。
一言で云って、憤りに溢れた歌である。そして憤る対象は、天災を続ける「地球」であり、不条理な世の在り様であり、無力な自分自身でもある。それだけを聴けば、やりきれなさに溢れた、正に「élégie」=悲歌な訳だが、何も出来なくてもひたすら「pray」=祈り続ける主人公が痛ましくも一図である。
冒頭の「黄土の激流 嘆きの濁流 なす術も ないままに・・・ 何もかも さらってく・・・」の「黄土」が有史以来大水害を繰り返し、数多の人命を奪ってきた中国の黄河を指すのか否かは分からないが、例え違っていても大差はないだろう。
別段中国という国を悪く云うつもりは無いが、黄河の氾濫が「罪もない生物たちを 謂われの無い犠牲を 過去も未来も 愛を奪い取る」を繰り返し来たのは事実で、その都度人々は多大な人命を奪われ、大自然に対する無力感に打ちのめされてきた。
確かに黄河を初めとする世界の大河の氾濫は、村落を破壊し、多くの人命を奪う一方で無慈悲なこの地球が肥沃な土壌を運び、新たな生命を育みはしてきたが、何の罪も無く生きてきた者がある日突然やってきた天災に命を奪われた際に大自然のサイクルや、大局的な農業論を説かれても悲惨な運命を受け入れられるとは思えない。
直後に歌われた「無慈悲なこの地球が 許せない」という主人公の想いはもっともである。
古来、人間は人智の及ばない大天災を神の怒りを初めとする大いなる存在によるものとして来たが、1755年のリスボン大地震にてキリスト教世界が「神罰」を唱えた際に、哲学者ヴォルテールは、「この度の震災で命を落とした多くの子供に何の罪があるのか?」と憤ったが、ダンエモンも全く同感で、神罰や仏罰と云うなら、「与える相手を選べ!」と云いたくなる。
話が逸れたが、人が命を落とすことへの不条理を感じることが多いのは天災に限らず、この歌でも「美麗しい人ほど 何故 先に逝くの? lalalalala lalalalala 天に昇って 自由になれたの?」とある様に、世の人々に愛され、尊崇され、多くの喜びを与えてくれた人ほど早く逝き、悪徳政治家・反社組織構成員・凶悪死刑囚が一向に死なないことに対して、「死神の人選、間違ってるだろう?!」と憤ることはダンエモンにも多い。
確かに冷静に振り返れば、好ましく思う人は70代で亡くなっても「早過ぎる!」と思うし、嫌な奴は60代で亡くなっても、「ふ〜ん…。」で終わったりするから、フィーリング的なもの、相対的なものがあるのも、理屈では充分に分かっている。
それでも、納得出来ないものを感じることの多い人は多いだろう。
そしてこの歌詞の主人公は愛する人と思しき「君」と死に別れていると思われる。「彼がまだ 眩しくて」とあることから、触れ合える関係になかったか、そんな関係にあっても短い時間で終わってしまったと思われる。
恐らく、主人公は「君」との接触に(背景はどうあれ)何か遠慮していたのだろう。「Moralなど踏み越えて もっともっと深い場所で 痛みも孤独も抱き留めたかった」とあることから、もしかしたら道ならぬ恋だったのかも知れない。直後に、「救えなかった自分が 許せない」とあることから幼い我が子を亡くした母の立場で歌った歌とも取れる。いずれにしても悲しい歌である。
とはいえ、「君」と死に別れたとするのは、一つの推論で、「もう一度 微笑って」や「君を 守って」や「君よ 頑張れ」の歌詞から、遠く手の届かない場所に云ったものの存命であるとも取れなくはない。
そう表現しているのは、「祈るしかできない」、「嘆くしかできない」という、摩季ソングには珍しい無力感が漂っているからである。確かに誰かを愛していても、その立場や状況で何も出来ないことはままある。
道場主は10代後半から20代前半に掛けて好きなる人は彼氏持ちばかりで(←別段彼氏持ちを狙った訳では無く、惚れた段階で相手に彼氏がいた)、相手を自分のものに出来ないとなると、「諦める」、「身を退く」といった消極的なことしか出来ない、具体的なことすれば相手に嫌な思いをさせるだけ、といった状況に幾度となく陥った。そうなると、悔やみごとにしかならない臭い言葉だが、「相手の幸せを祈る(=「pray」)しかない」という心境に至るしかなかった。
「élégie」というサブタイトル通り、歌詞・曲共に悲しい歌である。しかも相手の為に出来ることは「pray」と「sing」しかないのである。だからこそと云おうか、出来ることが限られていても相手の為にひたすらそれをづづ件とする一途さが魅力と云える一曲である。
「永遠に降り続く雨なんてない Pray for you I pray for you 君よ 頑張れ」と締められていることからも、具体的なことが何も出来なくても、主人公は決して諦めていないことをしっかり噛み締めたいものである。
摩季の間へ戻る 令和六(2024)年一〇月二三日 最終更新