遠すぎた六月

         作詞 麻生圭子 作曲 平野孝幸 編曲 戸塚修
解説 椎名恵さんのフォースアルバム『29〜Twenty nine ダブルコンチェルト』の5曲目に収録されているこの曲は同アルバム収録曲の中では随分淋しさ漂う曲である。
 背景にあるのは長い長い迷いの末に切り出して達成した別れだろう。いつも歌詞の背景含まれるのだが、別れの決意はだらだらとぬくもりも成長もない状態の針の筵の如き恋の苦しみと、始まりの時のトキメキが持つ未練を断ち切る辛さとを天秤にかけた末の一大決心でありながらやはり引きずるものがあるのが涙を誘う。
 この曲の場合は花嫁にとって憧れの対象である結婚の月、「六月」がネックになっている。タイトルにもある「遠すぎた六月」とは毎年巡ってくる度に主人公に期待を持たせては糠喜びに終わって結果としてすぎたものとして見送っては次を期待するしかなくなる、実体なき「六月」だったことが、「今年こそはと言いながら 今日の私がいる 近くに来ればいつだって 遠すぎた六月」の歌詞に端的に現れている。
 結局は毎回糠喜びに「六月」を終らせられた恋を主人公は信じられなくなったのだろう。「これを逃せばもう恋は きっとできないから さよならだけは恐かった」との不安に脅えながら「もう苦しまずにすむのね 淋しさと引き換えに」としている。なまじいい思い出が多かっただけにさぞかし辛い物があるのだろう。
 未練が決して小さいものではない事が「また未来は霧へと 隠れてしまったの あんなに愛してたのに」の歌詞に現れている。
 話は逸れるが、世の中には「結果が全て。結果がなければ過程など意味はない。」という「結果オーライ」人間がいる。勿論様々内とがあって使われる言葉なのでそういうセリフを口にするからと言ってそれだけの理由ではとやかく言わないが、正直ダンエモンはそういうものの考え方は嫌いである。がしかし、結果が出なくて一番悔しいのは当の本人であることも経験上自覚している。わかっているゆえに第三者からそういわれるのを余計に腹ただしく思うのかもしれない。同様に主人公も結婚と言う結果が出せなかったことタイトルに託して悔しがっている事だろう。
 それを踏まえて触れたいのが、主人公が「また未来は霧へと 隠れてしまったの」と言っていたのを「また未来は霧へと 隠してしまったわ」としているのが強がりであることは主人公自身が誰より理解してるであろう、ということである。だが主人公はまた理解している筈である。霧の中に隠された未来を再び日のあたる所に取り戻すのが主人公自身であることを。
 「もう帰らない June Bride」でも別の「June Bride」を手に入れ得ることに触れてこの解説を締めたい。


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