朝鮮八道 それぞれの激戦

 李氏朝鮮は八の「道」に別れていた。豊臣秀吉の目的は大明帝国であり、朝鮮王国は当初の目論見で進軍途上の文字通り「道」に過ぎなかった。
 だが、明を宗主国と仰いでいたために、秀吉の先導役要請を拒絶した朝鮮半島は戦場と化した。

 道で見れば戦場にならなかった道はない。
 とは言うものの、目的がである以上、必然、対馬−明を結ぶルート上の「道」であるかどうかで戦闘の勃発の頻度にも差が出た。
 また日本に近い南の道ほど秀吉の執着は強く、それに対抗して義兵も数多く立ち上がった。
 逆に北部では厳冬期の酷寒が日本軍の想像を絶し、明の援軍を得易いことから日本軍は戦闘には勝てても支配の確立に困難を極めた。
 この項では朝鮮八道それぞれについて、激戦を繰り広げた双方の将帥、戦略的地勢の意義、戦の流れ、政治的思惑を交えて解説を行いたい。
 北四道  咸鏡道
 平安道
 黄海道
 京畿道
 南四道  江原道
 忠清道
 全羅道
 慶尚道 



咸鏡道(ハギョンド:함경도)
朝鮮側守将武将:韓克誠(ハン・クソン、かん・こくそん)
義兵将・鄭文孚(チョン・ムンブ、てい・ぶんふ)
日本側攻将加藤清正、鍋島直茂
予定占拠者加藤清正
主要要塞安辺(アンピョン)、咸興(ハフン)
主戦場海汀倉(ヘジョンチャン)、安辺
 朝鮮半島の東北部に位置し、豆満江(とうまんこう)を国境に女真・兀良哈(オランケ)と接している。
 現在ではロシア・中国・吉林省と国境を接していて、吉林省には在中朝鮮民族も多い。

   国境を接する国々同様の厳寒の地で、米作に向かないのは勿論、地味は痩せ、大地の実りは乏しい土地である。

 戦初の統治が李朝に愛想を尽かしていたのに助けられて順調だった加藤清正が、民衆の支持をなくしたのは検地の強行にあるのもその表れか。
 咸鏡北道兵使・韓克誠率いるの騎兵は朝鮮でも勇猛で知られていたが、清正は鉄砲を駆使して海汀倉にこれを打ち破り、宣撫に来ていた臨海君(イヘグン)・順和君(スンファグン)は地方役人に捕えられて清正に引き渡される始末だった。

   開戦四ヶ月で加藤軍は咸鏡道を海岸沿いに縦断し、兀良哈に達したが、秀吉が目指した明への進路に該当しないため、清正は軍を安辺に引いてこれを前線基地とした。
 勿論これには咸鏡道の厳寒も考慮されてのことであった。  しかし九月には義兵に鄭文孚が立ち上がり、この義兵のために清正安辺で釘付けにされ、同時に酷寒に襲われた加藤勢は帰国時にはその兵数を役半数に減らしていた。
 尚、慶長の役では咸鏡道は全く戦場にならなかった。偏に厳寒と明に関連しない地政上の要因に助けられたといえる。



平安道(ピョンアンド:평안도)
朝鮮側守将武将:尹斗寿(ユン・ドウス、いん・とじゅ)
義兵将:李桂(イ・ケ、り・けい)
明将:李如松(リ・ルウスン、り・じょしょう)
日本側攻将小西行長、宗義智、黒田長政
予定占拠者小西行長
主要府鎮平壌・義州(ウィジュ)
主戦場平壌
 朝鮮半島の北西部に位置し、鴨緑江を国境に明と接している。必然、明の援軍はこの地を経由してやって来た。

 この地に率先して攻めこんだのは第一軍の小西行長宗義智の義理の親子コンビ。
 戦初に日本軍の猛進撃に朝鮮国王は早々に首都・漢城(ハンソン)を脱して明との国境に近い義州に逃れたため、これを追って平壌に迫った。
 平壌は言うまでもなく、現在の朝鮮民主主義人民共和国の首都であり、国王も尹斗寿をしてここを守備せしめんとしたが、日本軍の猛攻に尹斗寿は戦わずして兵を順和(ユンファ)に退いた。
 もっとも尹斗寿順和に退く際に一般市民を先に避難させた上で全軍を退いているので、尹斗寿を単純に臆病者とするのは早計だろう。

 行長義智は戦前から戦の無謀をよく心得ていたので深追いはせずに平壌に兵を留めて講和交渉に移った。
 が、その後半年を経て、厳寒と供に明の李如松率いる大軍と大砲の前にさしもの小西勢も平壌撤退を余儀なくされ、毛利吉成の援軍を得るも持ち堪えられず、黄海道白川(ペチョン)、京畿道開城(ケソン)へと厳寒と飢餓に苦しみつつ敗走した(このときの不手際で毛利吉成は後に秀吉によって改易にされた)。
 そしてこれを最後に平安道は戦場となることを免れたのであった。



黄海道(ホァンヘド:황해도)
朝鮮側守将義兵将:李廷馣(イ・ジョンアン、り・ていあん)
日本側攻将黒田長政、大友吉統
予定占拠者黒田長政
主要府鎮海州(ヘジュ)
主戦場白川(ペチョン)
 朝鮮半島の中西部に位置し、北を平安道、南を首都・漢城(ハンソン)のある京畿道と接している。
 戦初では平壌を目指す日本軍が通過し、八道国割で黄海道を担当することになった黒田長政が占領にかかった。
 だがここに延安(ヨンアン)の李廷香庵が義兵を起こし、歴戦の猛者である黒田勢もこれに苦戦する。そして小西行長が明の援軍に平壌を追われて黄海道に逃れてくると長政白川で小西勢と合流してこれを助けた。
 長政行長は協議の末、黄海道より首都・漢城及びその北の要衝・開城(ケソン)の守備を優先し、白川からも兵を引いた。
 黄海道は明軍と漢城をめぐる意地の張り合いに救われる形となった。



京畿道(キョンギド:경기도)
朝鮮側守将武将:権慄(くぉん・ゆる、ごん・りつ)
義兵将:洪季男(ホン・キョナ、こう・きだん)
明将:李如松(リ・ルウスウ、り・じょしょう)
日本側攻将宇喜多秀家・小早川隆景
予定占拠者宇喜多秀家
主要府鎮漢城(ハンソン)、碧蹄館(ペチェグァン)、幸州(ヘジュ)山城
主戦場碧蹄館、幸州山城
首都・漢城が位置するため、侵攻開始の第一目標とされたのは勿論、攻撃側にしても守備側にしても国の威信が関わってくるため、必然、その攻防は凄惨を極めた。
 戦争開始の二〇日を経ずして日本軍は首都・漢城に無血入城を果たした。国王が早々と北方に退いた為である。日本軍は開城(ケソン)での会議で、朝鮮第一の道であるこの京畿道は総大将を務めた宇喜多秀家が支配すると決めた。
 が、義兵の勃興と明軍の援軍到来を得て平壌が落とされると日本軍は黄海道を退いてまで京畿道の防衛に全力を尽くした。
 漢城の北一八キロの碧蹄館に明の李如松の援軍が攻め寄せると日本軍は宇喜多秀家小早川隆景がこれを迎撃した。殊に歴戦の知将・小早川隆景立花宗茂とともに地形を利用した挟撃、隘路での大軍封じこめで明軍を多いに打ち破った。
 しかしその直後、勢いに乗る日本軍は北東の幸州を攻めるが今度は名将・権慄が義軍・僧兵・婦女子まで総動員して日本軍を撃退。日本側は石田三成吉川広家達が負傷する有り様だった。
 一進一退の漢城攻防戦は講和の進行に従って文禄二(1593)年四月に日本軍が退いて終結した。
 慶長の役では明軍も早目に漢城に援軍を入れ、日本軍の同地への侵攻は南部を一時的に加藤清正軍が通過しただけに留まった。



江原道(カンウォンド:강원도)
朝鮮側守将
日本側攻将毛利吉成、島津義弘
予定占拠者毛利吉成
主要府鎮淮陽、襄陽、江陵
主戦場江陵
 朝鮮半島の中東部に位置し、明を結ぶルートからは外れる。  日本軍の侵攻が始まったのは首都・漢城(ハンソン)陥落後で、第四軍の毛利・島津勢が漢城より道北西部・淮陽から侵入し、海岸沿いに南下して慶尚道へと縦断した。
 江原道ではこれといった主要な戦いは見られず、通川江陵で義兵が起きた。
 この道を攻めた島津勢はその勇猛さは明軍にも「シーマンズ」と呼ばれ恐れられたというが、義兵勃発はその抵抗だろうか?
 注目すべき戦いが見られないことから薩摩守のこの道に関する研究は苦難を極めた(苦笑)。



忠清道(チュンチョンド:충청도)
朝鮮側守将武将:申砬(シン・リ、しん・りつ)
義兵将:趙憲(チョン・ホン、ちょう・けん)、霊圭(ヨン・キュ、れい・けい)
明将:解生
日本側攻将小西行長、福島正則、長宗我部元親
予定占拠者福島正則
主要府鎮公州
主戦場忠州(チュンジュ)、稷山(チサン)
首都・漢城のある京畿道の南に位置し、それなりの激戦が繰り広げられた。
 戦の開始半月後に第一軍の小西行長軍との戦いに猛将と歌われた申砬が戦死した。
 しかし直に南の全羅道の義兵勃興に刺激されて趙憲霊圭が義兵として立ち上がった。の両名は後に全羅道で戦死したが、彼等の決死の奮闘もあってその後も散発的に義兵が出て日本軍を悩ませた。
 慶長の役では何としても南朝鮮を戦果にせんと意地になる日本軍は加藤清正黒田長政毛利秀元といった猛将達を投入したが、朝鮮側も明将・解生の助けを得て稷山に黒田軍を破って対抗した。
 朝鮮南部は地理的要因もあって、明を目指す日本軍の進路上で泥沼化した戦闘が断続的に続いたが、忠清道も例外ではなく、大きな戦いこそ少なかったものの、長期戦に苦しんだことに変わりはなかった。



全羅道(チョンラド:전라도)
朝鮮側守将武将:李洸(イ・クァン、り・こう)、李舜臣(イ・スンシン、り・しゅんしん)
義兵将:高敬命(コ・ギョンミョン、こう・けいめい)、金千鎰(キ・チョンイ、きん・せんいつ)
明将:楊元
日本側攻将小早川隆景
予定占拠者小早川隆景
主要要塞全州(チョジュ)、光州(クァンジュ)、羅州(ラジュ)
主戦場錦山(クサン)、南原(ナウォン)
 朝鮮半島の南西部に位置し、対馬方面からやって来る日本の兵船を迎え撃つ水軍陣営を構える要衝の地で、義兵の勃興も多く、朝鮮民族が官民問わずこの道を死守したことが日本の進撃を鈍化させる大きな役割を果たした。
 戦初、日本軍は慶尚道から忠清道に進軍したこともあって、全羅道は主戦場とみなされなかった。しかしこの地からは義兵が数多く立ち上がり、日本軍の後方を脅かすようになった。
 義兵の士気は高く、官軍からは斬罪をもって禁じても逃亡兵が相次いだにもかかわらず、義兵は金千鎰が「去りたい奴は去れ。」と言っても軍が崩れることなく戦い続けた。
 殊に義兵として真っ先に老骨に鞭を売って立ち上がった高敬命の存在は大きく、敬命自身は李洸の敗北直後に立ち上がって僅かで敢え無く討死したが、かえってその死が義兵の士気を高め、忠清道から来た趙憲(チョン・ホン、ちょう・けん)、霊圭(ヨン・キュ、れい・けい)率いる義兵は錦山に奮戦し、死ぬまで戦った。
 日本側の名将・小早川隆景の力をもってしても錦山から全羅道内への侵入は叶わず、一方の朝鮮側でも高敬命趙憲霊圭といった多くの将が華々しい討死を遂げた。
 慶長の役では他の道と同様に明の援軍が早目に南下し、激戦の様相を深めたが、殊に順天全羅道最後の戦いの地となり、慶尚道釜山(プサン)から日本に撤退しようとする小西行長宗義智珍島でも大暴れした李舜臣の水軍が襲いかかり、少なからぬ打撃を与えた。
 ともあれ、戦争全体を通じて、朝鮮側がこの地を護り得たことが義兵と水軍に大きな力を与え、国土防衛の大いなる基となったことは否定のしようがない。



慶尚道(キョンサンド:경상도)
朝鮮側守将武将:李舜臣(イ・スンシン、り・しゅんしん)、鄭發(チョン・バ、てい・はつ)、李鎰(イ・イ、り・いつ) 、元均(ウォン・ギュン、げん・きん)、宋象賢(ソン・サンヒョン、そう・しょうけん)、金時敏(キ・シミン、きん・じびん)
義兵将:郭再佑(クァ・チェウ、かく・さいゆう)、成安(ソン・アン、せい・あん)、鄭仁弘(チョン・インホン、てい・じんこう)、金沔(キ・ミョン)
明将:麻貴(マク・ウイ、ま・き)
日本側攻将小西行長、加藤清正、藤堂高虎、加藤嘉明、島津義弘、脇坂安治、宇喜多秀家、細川忠興
予定占拠者毛利輝元
主要府鎮東莱(トンネ)、蔚山(ウサン)、尚州(サジュ)、晋州(チンジュ)
主戦場蔚山(ウサン)、晋州(チンジュ)、露梁、巨済島(コジェド)
 日本領対馬の対岸、という地理的必然もあって日本軍の上陸地となり、最初の開戦地となった上に数々の激戦が展開されたのがこの慶尚道であった。必然日本・朝鮮供に多くの将がここで戦い、命を落とした者も多い。
 釜山に上陸した日本軍の進撃を受けた鄭發が戦死、次いで東莱でも宋象賢が討死した。日本軍は優れた鉄砲で泰平になれて戦意の低い朝鮮官軍を次々に打ち破り、開戦から二週間を経ずして尚州李鎰も敗れ、朝鮮軍は半月足らずで慶尚道の突破を許してしまった。
 しかし時をほぼ同じくして李舜臣率いる水軍は藤堂高虎脇坂安治加藤嘉明といった日本水軍の猛者達を日本軍の不慣れな面の戦いに持ちこんで次々に撃破し、補給困難をもたらして戦の不利を取り返した。  また度重なる日本軍の蹂躙は義兵も数多く起こるもととなり、最強の義兵将・郭再佑を筆頭に鄭仁弘金沔等が日本軍を悩ませた。
 慶尚道が激戦の地となったのは日本と明の間で講和交渉が行われる際にここを押さえているかどうかがネックとなったために秀吉が意地になって奪取を厳命したこともその背景にあった(時代は異なるが、日露戦争でも樺太を占領していたことがポーツマス講和会議を日本有利に進めたという例がある)。
 殊に晋州は文禄元(1592)年一〇月に金時敏細川忠興を撃退するも、文禄二(1593)年六月に総大将・宇喜多秀家加藤清正小西行長といった先鋒諸将までもが加わった猛攻を受け、金千鎰も巨木・岩石・熱湯を駆使して応戦したが、ついに黒田長政配下の猛将・後藤又兵衛が城壁を破り、金千鎰が戦死しただけでなく、城兵は全滅し、日本軍も少なからぬ損害を被った。
 文禄の役から慶長の役の過渡期にあっても日本軍は多数慶尚道に留まった。全羅道に侵入できなかったから尚更である。
 慶長の役が始まると当初は讒言にあって失脚した李舜臣を欠く朝鮮水軍を加藤嘉明勢が大いに打ち破り、元均を討ち取ったが、舜臣はすぐに復帰し、再び水軍の優位は逆転した。
 陸上では休戦中に日本軍が守りを固めた蔚山を落とすことが戦の命運を左右すると見た明将・麻貴率いる援軍が酷寒と兵糧不足に悩む加藤清正を散々に苦しめるが、清正毛利秀元が救援に来るまで寡兵ながらもよく持ち堪え、城を守りきった。必然この戦いでも両軍に多くの犠牲が出た。
 慶長三(1598)年八月一八日に豊臣秀吉が薨去するに及んで慶長の役は終ったが、戦そのものは三ヶ月間継続された。殊にこの慶尚道では日本軍が撤退に際して釜山に集結して対馬に向かって退いたため、島津義弘泗川で陸上最後の、露梁で海上最後の戦いが行われ、島津勢の撤退を持ってすべての戦闘が終了した。尚、この露梁海戦で終始に渡って日本軍を苦しめ、救国最大の英雄とされた李舜臣は日本軍を打ち破るも、自身は壮絶な戦死を遂げ、大いにその名を挙げた。
 現在釜山には李舜臣の立像が日本を睨む形で立てられている(他にも各地に立像は立てられている)。



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最終更新 平成二七(2015)年七月三〇日