朝鮮出兵



 言わずと知れた豊臣秀吉による朝鮮半島への侵略戦争である。
 何の咎もない朝鮮半島に対して己が野望に従わない事を不服として攻め込んだだから、大義名分も糞もない。
 日韓・日朝の二〇〇〇年の交流史における数少ない不幸な出来事の一つである。

 薩摩守がこのようなサイトを作ったのは、両国にとって数々の不幸な歴史及びそれをネタに双方が罵り合う不幸な現状に心を痛めればこそである。
 かつての侵略を言い訳したり、当時の優位性を元にでかいツラしたがる一部の日本人も一部の日本人なら、数々の謝罪や経済援助を受けながら恩は無視してまだ搾り出そうとしたり、ネチネチと過去の罪をいまだにあげつらったり、時には政治的不満を逸らす為に反日論の基にしたり、拉致問題を責められた際の逆ギレ材料にする一部の朝鮮人・韓国人もまた同様である。
 勿論人間何をどう理解し、想像しようとその人間の自由である、その考えに基づく行為が人の生命・精神・身体・財産・名誉に危害を加えさえしなければ。
 ただそれが正しい知識や理解に基づかない偏見によるものであった果てに相手を憎むベクトルにしかなり得ないなら哀しむべき事である。そして理由はどうあれこれだけ国際化した現代社会において、国と国が争う事、いがみ合う事は死者を出さずとも数々の悲劇を生む。
 親日家の朝鮮人・韓国人、新朝・親韓家の日本人は勝敗に関係なく心を痛めることになる(これはどこの国とどこの国の関係にも言える)。
 韓国系日本人である道場主も勿論同様である。

 道場主は今日も拉致問題、教科書問題に心を痛めている。
 名誉毀損である事は百も承知で日本人の非を無視して、日本人が受けた外国からの害は大きく喧伝する某教科書作りの団体並びに日本の非や失政・侵略を一切認めず、反米・反露・反中・反朝・反韓の傲慢主張を繰り返す某漫画家を非難する。


 無謀なり、秀吉
 朝鮮八道 それぞれの激戦
 朝鮮の勇者達
 在朝日本諸将 意外な一面
 結論 不幸な歴史から何を学ぶか?
 
当時の朝鮮半島
 
参考年表【天正一七(1589)年〜慶長三(1598)年】
天正一七(1589)年 九月一日豊臣秀吉、北条氏を降伏させて京都に凱旋する(天下統一)。
一一月七日秀吉、聚楽第にて朝鮮使節一行に引見。
天正一九(1591)年 一月二二日権大納言従二位豊臣秀長甍ず。
四月一三日豊臣秀吉、朝鮮渡海の為の造船準備等を小早川隆景等に命じる。
六月是日秀吉、対馬の宗義智を朝鮮に遣わし、明国との和親を取り図るよう依頼する。
八月五日秀吉の子鶴松卒す。
九月一六日秀吉、明国出兵を決め、諸将にその準備を命ずる。
一〇月一〇日秀吉、九州の諸大名に肥前名護屋の築城を命じ、加藤清正に監督させる。
一二月二七日秀吉、関白を豊臣秀次に譲り、太閤となる。
天正二〇/文禄元(1592)年一月五日豊臣秀吉、朝鮮を経て、明国出兵せんとして、諸将に出兵を命じ、出征の掟を定める。
三月一日秀吉、眼病の為に京都の出発を三月一〇日に延期。
三月一〇日秀吉、出発を更に延期。
三月一三日秀吉、軍勢を九軍に編成する。
三月二六日秀吉、京を発し、名護屋に向かう。
四月一二日小西行長、宗義智の第一軍、釜山浦に上陸。
四月一三日小西行長等、釜山鎮城を落とす。
四月一五日李舜臣、釜山の慶尚右水使元均から日本水軍来襲の急報を受ける。
四月一七日加藤清正・鍋島直茂・相良頼房の第二軍、釜山浦に上陸。黒田長政・大友吉統の第三軍、毛利吉成等の第四軍、慶尚道金海に上陸。
四月一八日黒田長政等、慶尚道金海城を攻める。
四月一九日第二軍、彦陽を落とす。
四月二一日郭再佑、抗日義兵を組織。
四月二五日秀吉、名護屋入り。
四月二七日小西・宗勢、弾琴台にて申竝の率いる朝鮮軍を破る。加藤嘉明・脇坂安治・桑山重勝・藤堂高虎等、船団七百艘にて釜山浦に着岸(水軍はその後、西海岸に廻り、北進して加徳島近海で慶尚道右水使元均の敵船を潰走させる)。
五月三日小西行長等、中路より、加藤清正等、東路より、黒田長政等、西路より進撃し、京城を占領。
五月七日李舜臣の朝鮮水軍、藤堂高虎等の日本水軍を慶尚道玉浦・合浦で撃破。
五月八日朝鮮水軍、赤珍浦にて日本水軍を破る。
五月一四日小西・宗軍、加藤・立花軍、臨津江を隔てて朝鮮軍と対峙。
五月二八日日本軍、臨津江の渡河に成功。
五月二九日日本軍、開城を攻略。朝鮮水軍、泗川にて日本軍を撃破。
六月一日高敬命、全州にて義兵を決起。
六月三日秀吉、石田三成・大谷吉継等を朝鮮に派遣し、民政にあたらせる。
六月五日毛利吉成軍、江原道淮陽に侵入。李舜臣、唐項浦にて日本軍を破る。
六月七日李舜臣、巨済島粟浦にて日本軍を撃破。
六月一五日小西行長・宗義智・黒田長政、平壌に入る。
六月一九日明の祖承訓、軍勢を率いて鴨緑江を渡る。
七月三日忠清道の両班趙憲、公州にて義兵を組織。
七月七日脇坂安治の水軍も全羅道見乃梁(閑山島)にて破られる。
七月九日李舜臣、安骨浦にて九鬼嘉隆・加藤嘉明の日本水軍撃破。全羅道錦山に陣する小早川隆景を攻めた朝鮮軍壊滅し、高敬命戦死する。
七月一六日明の祖承訓平壌に迫る。
七月一八日加藤清正、海汀倉にて韓克誠の朝鮮軍を破る。
七月二二日秀吉の生母大政所甍ず。
七月二三日加藤清正、朝鮮王国王子臨海君・順和訓一行を拿捕。
七月二九日秀吉、生母の病を聞き、名護屋より帰り、この日大坂に着く。
八月六日秀吉、大徳寺にて大政所の葬儀を行なう。
八月七日朝鮮三奉行、黒田如水・小西行長・島津義弘・黒田長政・小早川隆景等、京城にて軍議を開く。
八月一八日忠清道義兵の趙憲・霊圭、錦山の立花宗茂・安国寺恵瓊を攻めて戦死する。
九月二日李舜臣の朝鮮水軍、日本軍の根拠地釜山浦を攻撃。
九月七日加藤清正・鍋島直茂軍咸興に着陣。
九月一五日義兵鄭文孚、鞠世弼の鏡城を奪取。
九月二〇日清正、朝鮮二王子を連れて安辺に着陣。
一〇月五日細川忠興・長谷川秀一・加藤光泰等、晋州牧使金時敏等が拠る晋州城を攻撃。
一〇月一〇日細川忠興等、晋州城の攻略に失敗し、慶尚道昌原に撤兵。
一〇月一七日朝鮮国王、義州龍湾館にて明の沈惟敬と接見。
一〇月是日秀吉、再び名護屋に下る。
一一月二六日沈惟敬と小西行長、平壌にて再会。
一二月一二日明の諸将と朝鮮側より、沈惟敬の日明講和案に批判の声起こる。
一二月一五日明の提督李如松、副総兵楊元・李如栢・張世爵等と兵馬を率いて鴨緑江を渡る。
文禄二(1593)年 一月五日正親町上皇崩御。李如松、平壌城外に迫る。
一月七日明・朝鮮軍、平壌攻撃開始。鳳山城在番大友吉統、平壌包囲の報に接し、逃走。
一月八日平壌城守将小西行長、城を脱出する。
一月一六日小西行長等の軍、京城に到着。
一月二一日小早川隆景、黒田長政等と共に開城を撤退し、京城に入る
一月二三日朝鮮三奉行、豊臣秀吉に戦況の悪化を報告。
一月二六日小早川隆景、立花広家等、碧蹄館に明軍を破る。
二月一二日宇喜多秀家等の日本軍、権慄率いる朝鮮軍を幸州山城に攻めるも敗北。
二月一五日加藤清正、安辺にて明の将馮仲纓と会見する。
三月八日明経略宋応昌、遊撃沈惟敬・周弘謨等を京城の小西行長の下に派遣する。
三月一五日小西行長、明人沈惟敬と会見し、講和を議す。この日、宇喜多秀家、石田三成・大谷吉継等と講和の条件を論議する。
四月一八日宋応昌、幕下の謝用梓・徐一貫を明使として日本に送る。
五月一五日石田三成・小西行長等、明使謝用梓・徐一貫と共に肥前名護屋に着く。
五月是日和議の進行により、一部の日本兵帰還する。加藤嘉明は加徳島に留まる。
六月二日小西行長、再び釜山浦に至り、朝鮮二王子の送還と晋州城攻略の命を諸将に伝える。
六月二二日日本軍、晋州城を攻撃。加藤清正、亀甲車を攻城に利用。
六月二八日秀吉、講和の条件七ヶ条を明使謝用梓・徐一貫に示す。
六月二九日明使謝用梓・徐一貫、帰国の途に着く。金千鎰・崔慶会等戦死、慶尚道晋州城陥落する。
八月某日李舜臣、忠清・全羅・慶尚三道水軍統制使に就任する。
八月三日秀吉の次男拾丸(秀頼)生まれる。母浅井氏(淀殿)。
八月一三日秀吉、在朝の諸将に帰還を命ずる。
八月二五日秀吉、名護屋より大坂に帰る。
八月二九日明の沈惟敬、日本講和使者内藤如安と共に北京に向かって京城を出発する。
文禄三(1594)年 一月二〇日小西行長と沈惟敬、秀吉の表文を偽作する。この日、沈惟敬、これを持って北京に向かう。
八月二八日朝鮮国王、加藤清正と小西行長の仲を裂こうと画策する。
一二月二〇日明王、内藤如安を引見し、秀吉の出兵を詰問し、秀吉を日本国王に封じ、李宗城を冊封日本正使とする。
文禄四(1595)年 七月八日豊臣秀吉、豊臣秀次を高野山に追放する。
七月一五日秀吉、福島正則を高野山に遣わし、秀次を切腹させる。
一一月八日秀吉、病む。
文禄五/慶長元(1596)年 四月二日明の冊封日本正使李宗城、釜山より逃亡する。
五月四日明王、揚邦享を冊封日本正使とし、沈惟敬を副使とする。
五月一四日加藤清正、豊臣秀吉の命により、朝鮮より帰還。伏見にて讒言により、蟄居。
閏七月四日朝鮮正使黄慎、副使朴弘長等、釜山を発し、日本に向かう。
閏七月一三日畿内大地震、伏見城壊れる。加藤清正、秀吉の下に馳せ参じ、蟄居を赦される。
九月一日秀吉、明使揚邦享・副使沈惟敬を大坂城に引見する。
九月二日秀吉、明の国書を相国寺の笑兌に読ませる。明の違約を怒り、朝鮮再出兵を決める。
慶長二(1597)年 一月二四日加藤清正、朝鮮慶尚道多大浦に着く。
二月二〇日豊臣秀吉、朝鮮出征の諸将の部署を定め、出征の条規を下す。
二月是日石星、投獄され、官職を剥奪される。
七月一五日藤堂高虎・脇坂安治・加藤嘉明等、朝鮮の水軍を巨済島に破る。朝鮮水軍、元均・李億祺将軍戦死。嘉明、高虎と功の自慢で仲たがいする。松浦鎮信、これを宥める。
七月二五日嘉明、巨済島沖にて敵船に遭遇し、単身踊りこんで数人を斬る。土方長兵衛、萩作右衛門、加藤小次郎等、それに続いて乗りこみ、敵船奪取に成功。
七月三〇日巨済島沖の戦い。嘉明、抜け駆けに腹を立て、敵船に押入らんとして海中に転落、苦戦の挙句、敵船を分捕る。この時、嘉明股に矢を受ける。秀吉、後にこれを賞して鉄砲五〇丁を贈る。
七月是日沈惟敬、捕縛され、後に処刑される。
八月二日李舜臣、三道水軍統制使に再任される。
八月一四日加藤清正等、慶尚道黄石山城を落とし、全羅道全州に侵入する。嘉明、島津義弘も随行。
八月一五日宇喜多秀家等、全羅道南原城を落とす。
九月八日黒田長政、忠清道稷山にて明軍と激突。苦戦して南下する。
九月一五日李舜臣、全羅道鳴梁にて日本水軍を撃破。
一〇月是日清正、慶尚道蔚山に築城する。
一一月下旬軍務経理楊鎬・提督麻貴を総指揮官とした明・朝鮮軍、蔚山城に向かう。
一二月一二日明・朝鮮軍、普請中の蔚山城を囲み、水源を断つ。
一二月二六日毛利秀元、黒田長政等、蔚山城を救援すべく、西生浦に終結。
一二月二七日島津義弘、普請が完了した泗川新城に入場する。
慶長三(1598)年 一月一日加藤清正、慶尚道蔚山に苦戦する。
一月四日毛利秀元・加藤嘉明等、蔚山の明・朝鮮軍の背後を突き、これを撃退する。
五月三日秀吉、嘉明の巨済島での手柄と順天からの退陣に連署しなかったことを誉め、一〇万石に加増する。
八月一八日太政大臣従一位豊臣秀吉甍ず(享年六三)。子秀頼継ぐ。
八月二五日徳川家康・前田利家、秀吉の喪を秘して、徳永寿昌・宮本豊盛を朝鮮に遣わし、諸将の帰還を命じる。
一〇月一日明副総兵薫一元の率いる明・朝鮮軍、慶尚道泗川城を攻めるも、島津軍に敗北する。
一〇月二日劉廷、全羅道今順天城を攻撃するも、小西行長の前に敗れる。
一一月一〇日島津義弘・宗義智・立花統虎等、各々、昌善島・巨済島に至る。
一一月一七日島津義弘等、艦船五〇〇隻を以って順天の小西行長を救援すべく南海島に至る。
一一月一八日明の水軍、日本軍の帰還を阻止せんとする。朝鮮水軍の将李舜臣戦死。
一一月二六日日本軍の撤退完了。



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最終更新 平成二七(2015)年七月二日