本能寺の変



 戦国から江戸時代への過渡期安土桃山時代。その中核となる出来事で有り、余りにも有名な歴史上の一大事件である。
 天正一〇(1582)年六月二日未明、数十名で京都本能寺に宿泊した右大臣・織田上総介信長は重臣の一人惟任日向守光秀(一般に「明智光秀」と呼ばれるが、最終的にはこの名前だった。結城秀康が最後は「松平秀康」だったが殆どそう呼ばれないのと同様)率いる一万三〇〇〇の軍勢に襲撃され炎の中で自刃、遺体を残すことなく燃え尽きた。
 時を同じくして信長の嫡男・弾正忠信忠もニ条城に襲撃を受け、京都所司代村井貞勝と共に奮戦するも力及ばず、妙覚寺に信長の五男・三七郎勝長とともに自刃した。唯一信長の舎弟長益(後に剃髪して有楽斎)だけが嘲笑を浴びつつ逃げ延びた。時に信長四九歳、信忠二六歳、勝長一六歳、長益三七歳。
 言うまでもなく、この本能寺の変はその後多くの人間の人生に多大な影響を与えた。
 織田家は滅びこそしなかったものの、信長の築いた栄耀栄華を思えば没落したに等しい。光秀に合力した者達は滅びたり、雌伏を強いられたりした。豊臣家も徳川家も信長が生き続ければ如何なる運命を辿っていたか全く予想がつかない。北条家や上杉家も信長に降伏したか、秀吉に降伏したかでその後の運命に少なからぬ相違があったと思われる。


 このコーナーでは「本能寺に黒幕は誰か?」とか「信長が生きていればどうなったか?」という作家好みの分野には触れない。既に多くの作家や歴史家が題材としたテーマである。
 取り上げるのは本能寺の変に前後してその当時生きた人々がどう感じたり、どう変化したか薩摩守の独断と偏見によるランキング形式で列挙してみたのがこのサイトである。


信長死す!その時感じたのは…?
 織田信長が多くの人々の恨みつらみを買っていたのは今更言うに及ばずである。平和な現代でさえ地位や名誉や富を得るとその過程及び妬みで恨みを買い、公明正大に生きていても誤解や相手の人格上の問題で全くの逆恨みをされることすらある。道場主なんて恋した相手に告白しただけで……あわわっっ!(←「……。」by道場主)…。
 コホン、ともあれ自らの手を血で汚さずにはいられない戦国時代にあって、信長ほど個性や動きが激しければ、必然的に彼を憎む者は多くなった。
 その一方で敵味方問わず彼を尊敬する者も多かった。勿論恐れる者はもっと多かった。信長には様々の思いを抱く者が多く、思いの違いはあれどそれらは極めて大きいものだった。

 そんな信長が死んだ。

 余りにも突然に、余りにも呆気なく…
。万人が一様に驚いた。実行犯の明智勢とそれを裏で糸引いた者を除いて(いればの話だが)。
 まずは本能寺の変の勃発と信長の死に驚きつつ人々の抱いた想いに基いてランキングを付けてみた。


ざま見ろ信長
 織田信長の死を喜んだ者は多かっただろう。
 信長と交戦中だった大名は勿論、彼に恨みを持つ者も。戦国大名である以上、信長に限らずある人物の死は色々な意味で喜ばれる可能性がある。
 些か的外れな例えだが、ある国主の死はその国主の悲劇であるが、直後にその後継者への国主就任の祝辞が待っているのである。それほど政治や権力の絡む世界では誰かの不幸が誰かの幸福と密接な関係を持ち易い。

 ここで取り上げるのは信長に恨みを持つ人々である。
 現代では嫌いな奴が死んだぐらいでは良識ある人は「気の毒にな…。」ぐらいは考えるが、仇となったら話は別である。
 仇の対象は肉親及び自分の身体・生命・財産・社会的地位・名誉と様々だが、室町幕府を滅ぼし、あらゆる権威を軽んじ、浅井、朝倉、斎藤、武田…と多くの大名家を滅ぼした信長が死んだとき、それらの恨みを抱く人々はどう喜んだだろうか?
順位対象解説
一位足利義昭  何と言っても武士のボスである征夷大将軍の地位を追われている。周知の通りその地位に付けたのは信長のおかげで、その時は義昭も涙を流して喜び、僅か三歳年上なだけの信長に対して、「御父」と呼び、管領や副将軍の地位でもって彼の恩に報いようとした。

 しかしその後の信長の義昭に対する態度は守護大名が将軍に対して取るそれでは決してない。また義昭が将軍の地位に就くことになった発端は松永久秀による足利義輝弑逆である。義昭は松永が義輝に一番近い血縁である自分を消しにくるのを察知して越前に逃れたのが事の始まりだから松永は思いっきり敵である。しかし信長は降伏してきた松永を前にして、「兄の仇を討たせてくれ。」という義昭の哀訴を退けた。
 いくら恩義があっても、それが自分を利用する為でしかなかった、と察知すれば腹を立てて当たり前である。

 結局命こそ奪われなかったものの、義昭はその地位と京の地を追われ、室町幕府最後の将軍の烙印を押された。屈辱である。しかし執念の人・義昭は失地回復を諦めることなく、毛利輝元に身を寄せた。

 能力はなくとも義昭には血筋と権威があった(根性もあったと薩摩守は見ている)。
 実力本位の下剋上の世では直接の武力に抗し得ないときも多いが、利用価値はあるのでそれを利用しない手はない。
 勿論足利家に生まれた成長過程や僧籍にあった時、将軍就任時のコネクションというものはあるだろう。本能寺の変の実行犯明智光秀を裏で糸引いていたのを足利義昭とする説は昔から根強い。
 都合のいい時だけ自分を利用し、腹では馬鹿にし、その態度を徐々に明らかにされ、更にはその地位を追われ、流浪の身とされた−その相手が自分と同様に頼みとした部下に倒されたとしたら……溜飲が下がる気持ちは分かる気がする。
二位真田昌幸  真田昌幸にとって信長は一言で言って「主家の仇」である。主家とは言うまでもなく武田家で、滅ぼされたのは信長が本能寺に倒れた僅か三ヶ月前のことだった。

 主家だけではない。昌幸は二人の兄である長兄・信綱と次兄・昌輝を七年前の長篠の戦いで失っており、昌幸が同盟締結に奔走した比叡山や長島一向宗を滅ぼしたのも信長である。

 しかも信長は勝頼の首を足蹴にし、武田家の菩提寺の恵林寺を焼き討ちにし、武田家の残党の多くを騙まし討ちにしている。穴山梅雪や木曾義仲の様に武田家滅亡以前に信長に寝返った者達はともかく、最後まで武田家に忠節を尽くした者は信長に対する恨みは骨髄まで染みていたことだろう。

 実際本能寺の変の直後、甲斐を支配していた川尻秀隆は武田残党の一揆の前に命を落とした(川尻の自業自得もあるが)。

 豊臣秀吉をして「表裏比興の者」と言わしめ、度々徳川家康・秀忠親子に煮え湯を呑ませた真田昌幸は感情に流されるような男ではないが、かと言って感情に乏しい男だったわけでもない。眉一つ動かさず、冷静に対処しつつも怨み重なる信長の死には心の中で大きな快哉を叫んでいたのではあるまいか。
三位近衛前久(このえさ・きひさ)  後奈良天皇の猶子(相続権を持たないことを前提とした養子)にもなったことのある人物で、五摂家の一つである近衛家に生まれた。
 ある意味、「公家版足利義昭」であった。
 政争に破れて京都を追放されるも信長に拾われ、信長のために公家の立場を利用して朝廷の権威で信長と敵対する勢力との調停を取り成したりしたが、信長の天下統一が近付くに連れて(つまり義昭同様その必要性がなくなるに連れて)蔑ろにされる様になった。

 近衛は本能寺の変の黒幕ではないかと見られる事もある人物である。つまりはその動機に値するものを持つ→信長が死ぬ事を望む人物なのである。本能寺の変後も光秀との付き合いから関与を疑われ、潔白をアピールする為に、信長への弔意を示して剃髪したほどであった。

 近衛がそう思われるほど信長を恨むようになった原因に比較的有名な話として甲斐征伐の従軍が挙げられる。
 武田家に随身する恵林寺との折衝のためでもあったが、その時のやり取りから信長の不興を買い、撤収時「勝手に帰れ。」と言われに中山道に置き去りにされたりなどと面目を丸潰しにされた。

 最終的に将軍家はおろか天皇を初めとする朝廷にさえ権威を感じない信長は近衛にとって敵でしかなかった。だが信長の力に抗する手段は近衛にも朝廷にもない。下手をすれば命さえ危ない。そこまで恨み、恐れた信長が飼い犬に手を噛まれる形で死んでくれた−手を下したのは自分とも親しかった光秀−万歳三唱したい気分ではなかっただろうか?
四位今川氏真  怨みも何も今川氏真にとって信長は父・義元の仇である。普通に考えて、まともな感情があれば「親の仇」を恨み、憎んでいない筈が無い。
 そしてその義元の死をきっかけとして氏真は命こそ失わなかったものの、大名としての家格を完膚なきまでに失っていたのである。

 「氏真は信長達と戦う道を選ばなかったのだから自業自得。」と見る向きもあるだろう。その論自体は間違っていない。
 だが氏真は政治家としてはそこそこの善政を敷いており、勢力回復にも多少の尽力はしている。最終的に没落の原因は本人に帰するとはいえ、きっかけとなった男の対する怨みが簡単に消えるとは思えないし、正面切って逆らっていないからと言って怨んでいない理由にはならないだろう。

 氏真はその親の仇の前で得意の蹴鞠の披露を命じられ、生き恥を晒された。氏真の武将としての気概の無さは気概の無さとして、いくら降将が相手でも、そんな屈辱的な命を下す信長にも人としての礼儀は無い。
 仮に氏真が怨みを忘れて平凡な日々を送っていたとして、親の仇が親と同様「まさか」と思うような突然の呆気ない死を遂げたと聞いた時、氏真の胸にはどんな想いが去来しただろうか?
 「因果応報」とは少し異なるが、それと似たものを感じて「ざまあ見ろ。」とは考えないだろうか?
五位正親町天皇  第一〇六代目の天皇である正親町天皇は誤解を恐れずに書けば信長との関係は「後白河法皇と源頼朝」や「後醍醐天皇と足利尊氏」との関係にも例えられる。つまり、違いに都合のいい時は利用しあったのである。

 従来ささやかれた二人の対立はその実態が少々異なるものではないか?とも言われ、正親町天皇も信長も違いの権威と力を腹に一物秘めつつ付き合ったと見られる。性格はともかく、正親町天皇が上記の二人の天皇並のやり手であった可能性は高い。

 だが晩年に信長の持った力は正親町帝の御せる範囲を遥かに超えていた。征夷大将軍も摂政関白も太政大臣の地位も朝廷側から信長に「如何様にも任ずる」とさせられながら信長は辞退する余裕があった(最後の官職・右大臣もあっさり捨てている)。それゆえに正親町天皇には信長暗殺黒幕の疑惑がある。近衛前久同様に権威を犯すものを消せ、との動機があるのだ。

 もっとも、五位に甘んじている様に「ざま見ろ」度はさほど高くはない。武力が必要なこの時代、困窮して即位式さえ行えない財政状況を信長に救われてもおり、ある程度の持ちつ持たれつは理解していた様に思われる。
 だが律令制上、天皇は日本で一番偉いのである、その一番偉い筈の存在を力で上回り、その力を背景に権威を重んじない存在の消滅には快哉したと思われる。



ホッとした…
 織田信長は後一歩の所で天下を取れた男である。そりゃ勿論本能寺が無かった所でその三日後にいきなり隕石に当たって即死する…なんてこともあったかもしれないが、そこまで言い出してはキリが無い。
 現実として信長の築いた業績を基礎として豊臣秀吉、徳川家康が続いたのは周知の通りである。信長には天下を取る力はあった。そしてそれはその前に立ちはだかる勢力を滅ぼす力があったことでもある。
 信長の死を前にして命拾いをしたもの達の声はどんなものだろうか?
順位対象解説
一位長宗我部元親  四国を支配した大名長宗我部元親は本能寺の変に際して織田軍の侵略を受けていた。その大将は織田信孝(信長三男)と丹羽五郎左長秀−猛将タイプではないものの堅実な戦略を得意とするため、一戦での逆転勝利はまず狙えない相手であった。

 信長はこのとき四国以外にも北陸(上杉景勝)・関東(北条氏政)・中国地方(毛利輝元)で戦を展開していてその隙を明智光秀に突かれたわけだが、当然四国以外の各方面の大名も信長の死には「ホッとした」わけで、実質この四者は同位なのだが、この四者の中で一番やばかったのが長宗我部と見て一位とした。

 論拠としては長宗我部に対する抵抗勢力(阿波三好氏など)や北条・伊達・島津より先に膝を屈していること、信孝と長秀が苦も無く秀吉軍に合流し得たことが挙げられる。
二位北条氏政  初代早雲以来何と言っても北条は守りに強かった。武田信玄・上杉謙信と云った戦国の二大巨頭も小田原城は落とせなかったのだから。

 恐らくは織田軍の攻め手の大将・滝川一益も恐れてはおらず、実際に一益は本能寺の変に際しての引き上げ時に北条勢の追撃に大敗して清洲会議(信長の跡目相続と遺領分配の会議)に遅れ、一益は織田家での発言力を大きく失った。順位的には三位か四位になっていてもおかしくはないと思われる。
 そんな北条が「ホッとした」の二位となってしまったのは上杉と毛利が場合によっては天下をも狙い得る器であったのに対し、彼等に匹敵する強さを誇りながら北条氏政には天下に大きくのし上がろうとの気概が余り感じられないからである。
 戦争が中断したとなれば「ホッとした」の気持ちの方が大きかったのではあるまいか?
三位上杉景勝  上杉景勝の領する越後を攻めたのは織田家一の猛将として名高い柴田勝家で、そしてそれを補佐していたのは前田利家・佐々成政とこれまた猛将達であった。
 そんな猛将達が信長の死に際して引き上げたと知れば上杉勢はさぞかし「ホッとした」だろう。

 但し上杉勢は織田勢を手強しとは見ても恐れていたか?と言うとチョット疑問である。先代の謙信は織田勢に負けたことが無い。信長も勝家も謙信には惨敗して敗走した。

 景勝もまた秀吉に膝を屈したとはいえ、秀吉に五大老・一二〇万石という「飴」と越後没収・会津転封という「鞭」を駆使して懐柔と勢力削減に苦慮し、家康も関ヶ原と前後して前田家並に手強しと見ていた人物である。敗れたりとはいえ、景勝は家康に堂々と相対した。

 恐らく柴田勢だけの侵略なら景勝は恐れはしなかっただろう。だが最終的に信長との全面対決を避けることができたのは「ホッとした」要素ではあるだろう。膝を屈するにしても秀吉や家康のようなわけにはいかなかっただろうから。
四位高野山  比叡山を焼き討ちするという誰もできなかった怪挙(←「足利義教が先にやった。」という見方もあるが、この時は寺の方で自ら火を放った)を為し、長島一向宗を根絶やしにし、政治的駆け引きとはいえ本願寺を石山から退去させた信長にとって次なる宗教勢力は高野山だった。

 実際天正七(1579)年の段階で、信長は「武田家を滅ぼした次は高野山。」と決められていたらしい。
 土地の堅牢さや結束の強さ、雑賀衆・根来衆を擁する高野山はそう簡単に落ちるところではないが、戦の経験は皆無であり、相手は「魔王」信長である。実際の戦闘がなかったのでこの順位に留めた。

 戦闘が起きず、信仰する真言宗の名に「戦史」という名の瑕がつかなかったことに道場主もまた「ホッとして」いる(苦笑)。
五位毛利輝元  織田軍一の切れ者・羽柴秀吉と戦っていた毛利輝元は信長の死によって救われた面があるのは間違いない。何と言っても備中高松城の城兵が助かっている(城主・清水宗治という尊い犠牲はあったが)。
 だが毛利が五位にまで落ちているのは信長の死を知って、「ホッとした」より「しまった!」の想いが強かったからである。

 当初和睦の条件を「五ヶ国の割譲と清水宗治の切腹」としていた秀吉が「宗治の切腹のみ」と大幅に条件を緩め、安国寺恵瓊の仲立ちで和睦は成立した。しかしながらその二時間後、秀吉の妥協が信長の死によるもので、追撃防止の為であることが発覚した。
 惟任(明智)光秀から毛利方に放った「信長父子を討ったこと」、「秀吉勢を挟撃できること」を知らせる密使が秀吉に捕まっていなければ、羽柴勢を殲滅し得たのである。
 毛利家のタカ派・吉川元春等は和睦の反故と追撃を主張したが、ハト派の安国寺が止め、輝元と小早川隆景が和睦の履行を決定した。

 勿論秀吉より先に信長の死を知っていればより優位な展開ができたので、「ホッとした」よりは「しまった」の思いの方が強かっただろう。だが同時に光秀が信長を裏切っていなければただでさえ手強い羽柴勢に、光秀が、更に時間をおけば信長本隊が加勢していた事も知ったわけである。やはりかなり「ホッとした」ことだろう。



今がチャンス!
 誰かの危機が別の誰かの好機であることは先にも触れた。信長ほど行動力があり、力もあればそれに影響される存在もまた多い。
 勿論彼と敵対する者にとって、その死は好機だった。また結果論で論ずるなら最も得をしたのは秀吉だろう。
 ここでは「信長死す。」の報告を即座に好機として捉え、行動できた者をランキングした。
順位対象解説
一位黒田官兵衛 本能寺の変を知り、愕然として泣き崩れる秀吉の横合いから「君の運の開き給もう時ぞ」と言ったように、誰よりも感情に左右されることなく、自らの立身出世(秀吉が出世すればその旗下たる彼もまた出世するという理屈)の意欲を見せたことは余りにも有名。
 彼にとっては信長も秀吉の利用手段に過ぎなかった。官兵衛が凄いのは彼自身は非常に喜怒哀楽の激しい人間でありながら、決してそれに左右されなかったと言うことだろう。それゆえにどんな危機も利用し、逃した好機に執着する様も見せなかった。
 自らの死期を悟るとわざと家臣に口喧しく当たって、自分の死後、息子・長政に家臣が進んで従う様に取り計らった様に、自分の死さえ利用した。薩摩守は絶対こういう男を敵に回したくない、と常々思う。

 彼が計算抜きで感情を露わにしたのは竹中半兵衛の訃報に接した時ぐらいである。
 味方になった筈の荒木村重が信長を裏切ったため、説得の為に単身有岡城に乗り込んだ官兵衛は囚われのた末に一年間牢内に監禁された。帰って来ない官兵衛を「裏切者」と判断した信長は彼の息子・松寿丸(後の長政)の殺害を秀吉に命じたが竹中半兵衛がこれを庇った。
 救出された後に官兵衛は息子の命が危なかったことと、半兵衛がそれを助けてくれたことを知り、同時にその半兵衛がもうこの世にいなかったことを知ると息子の命を救われた有り難さと、恩返しも出来ずに往かれてしまった申し訳なさが激情となって半狂乱になって泣き叫んだという。
 官兵衛は決して無感情人間ではなかった。そしてそうでありながら感情に流されないところにこの男の恐ろしさがあった。

 結果論からいうと官兵衛が信長の死を利用できる−信長の仇を討った者がその後釜となれる−意を露わにしたのはプラスも有ったが、マイナスも大きかった。
 信長への恩義もあってか秀吉はこの一言のために官兵衛を終生信じず、天下統一後に官兵衛には一二万石しか与えなかった。
 周囲の者にも、「俺が死んだ後天下を奪う者がいるとすればそれは家康か官兵衛だ。」とも言っていた(実際に、官兵衛自身関ヶ原が終るまで天下を狙っていた)。
 結果として軽率によるマイナスもあったが、様々な視点からして信長の死を好機と捉え得た者として官兵衛の優位は動かないと薩摩守は見る。
二位北条氏政 滝川一益に大打撃を与えた結果が好ポイント。信長が本能寺に倒れていなければ多くの大名が滅ぼされていたと見る人が多いのは周知の通り。
 信長に滅ぼされずに済んだり、秀吉に敵対して散ったり、逆に秀吉について得したり、と色々だが、即決の行動に移れた者は少なく、上杉景勝も長宗我部元親も毛利輝元もその時の判断では信長の死を活かせた、活かそうとしたとは言い難い。
 秀吉に最後に滅ぼされたためにマイナスイメージの強い北条だが、滝川勢を蹴散らし(←一益は決して弱くない)、家康と組んで関東制覇の盤石化を図ったり、と北条北条なりに信長の死を利用して着々と勢力を増していたのである。さすがに天下を取った秀吉に対しては勝手が違ったが。
三位安国寺恵瓊  安国寺恵瓊は元々は安芸武田氏の生き残りで、れっきとした武士の生まれである。中国地方の戦乱の中で一族の生き残りを図って僧籍に入っていたが、毛利方の陣僧として秀吉も一目を置いていた。

 安国寺がランクインしたのはその先見性による所が大きい。彼が毛利の使者として信長に会った折に「高転びに」と信長の横死を予見していたことは有名だが、同時に彼は秀吉も買っていた。
 それゆえに彼は信長の死を利用し得た。
 秀吉との講和にいち早く応じた彼は本能寺の変を知って「羽柴軍を追撃すべし!」と激昂する吉川元春を小早川隆景と共に宥め、以後毛利は秀吉と誼を通じ、輝元と隆景は豊臣政権下で五大老に列せられ、安国寺も伊予に六万石を賜った。一人元春のみ最後まで秀吉を嫌い抜いたが、秀吉は元春をも気に入っていた。

 親秀吉方針をどう見るかは人それぞれだが、安国寺が信長と秀吉の行く末を洞察し、件の事件を最大限利用した結果、豊臣政権下で毛利一族の勢力を巨大化せしめたことは間違いない
 ただ、それほど先見性に優れた男が、関ケ原では吉川広家や小早川秀秋の内通を予見できず、一兵も動かせないまま刑場の露と消えた呆気なさが腑に落ちない。城持ちとなって大名に返り咲いて有頂天になっていたのだろうか?
四位落武者狩りの連中  農民をなめてはいけない。戦争が始まれば家を焼かれ、田畑を蹂躙され、流れ矢に逃げ惑う百姓も、戦が終われば報復と実利に燃える恐るべき落武者狩りの狩人と化した。

 大河ドラマや時代劇を見ると、農民は戦の素人で収奪される為だけの存在の様に見えることが多いが、そもそも武士自体が「武装農民」から生まれたものが多く、戦国期の農民の大半が「半農半兵」で、武器を扱える者も少なくなかった。

 戦国時代の農民とはそんな存在だったから、戦に敗れ、疲れ果てた状態で敵兵の追撃を逃れながら逃げ惑う落武者は戦場となった土地周辺の土民にとって、武器や衣服を身包み剥いで富に繋げる「獲物」であり、家財や家族を奪った「憎き仇」でもあった。勿論運良く名のある武者を討ちとって敵対する勢力にその首級を捧げればご褒美にも預かれる…………様々な意味で「格好の標的」だったのである。
 つまりは、落武者狩りは戦に敗れ疲れ切った敗残兵少数を相手に、土地鑑のある土民が物欲と報復に燃えて大多数で依って多寡って襲いかかる、という敗残兵には誠に恐ろしいシロモノだった。

 現在でも何か重大時に赴く前に「褌は洗ってきたか?」ということがあるのは、戦に敗れれば落武者狩りにあって、身包み剥がれ、褌一丁の死体となることも多かったことに由来している。
 もうこれ以上の説明は不要だろう。本能寺の変後の落武者狩りに遭って穴山梅雪が命を落とし、家康も一時は切腹を覚悟をしたのは有名だ。更に本能寺の変の主人公たる明智光秀自身が落武者狩りの前に小栗栖の竹薮に屍を晒した。
 戦国時代の農民は現代の我々が思う以上にタフで強かだったのである。
五位伊賀忍者  本能寺の変を知った徳川家康が一時は死を覚悟するも側近達の説得に応じて伊賀越えで明智勢や落武者狩りを振り切って三河に辿り着いたのは有名である。そしてそのとき家康主従の護衛と先導を務めたのが伊賀忍者であった。

 そしてこのときの功績は家康に後々も高く評価された。東京都千代田区の半蔵門は伊賀忍者の頭領・服部半蔵の名にちなんでいるのも有名である。
 本来なら一族並びに忍者の地位をも高次元に持ち上げた伊賀忍者の事件の利用振りはもっと高ランクを与えられてもおかしくはなかった。そんな彼等が五位に甘んじたのは伊賀忍者全体で見た時の「迷い」があったからである。

 余り有名ではないが、信長は利用するだけ利用しつつも油断のならない忍者が嫌いだった。次男・信雄が功名心にはやって伊賀の里を攻め、大敗した際も信雄を叱りつつも、自らも伊賀を攻め、狙撃され、報復(?)に数多くの忍者を惨殺した。当然伊賀忍者は信長を深く恨んだ。
 伊賀忍者の大半が初めは、怨敵信長を討った惟任光秀を支持し、盟友家康の首を手土産にしようとする者が出たのも無理からぬことだった。

 忍者に「卑怯」の二文字は存在しない。どんな逆境も利用し、どんな相手であろうと組むことも裏切ることも厭わない。それゆえに多くの意見を持ってしまう。いずれにせよ信長と家康の狭間で重大な決断を為した伊賀忍者は、「家康合力」が当初の総意であれば間違いなく一位にランクインしただろう。



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平成二七(2015)年七月四日 最終更新