本能寺の変



本能寺から出た結果を降り返って
 本能寺の変は間違いなく日本の歴史を動かした一大事件である。
 そして本能寺で戦い、命を落とした織田信長・信忠、主殺しの大罪人として討たれた惟任光秀だけではなく、変の後に生きた人々も、ある者は富貴の身に浴し、ある者は見る影もない没落を辿った。
 事件は事件として勿論重大だが、それをきっかけとした後々の展開もまた歴史を語る上において目の離せないものがある。
 この頁では「本能寺の変」の影響を受けた人々が時間をおいて抱いた感情に立ってランキングを行いたい。


昔の栄誉今何処…
 盛者必衰、栄える者もいつかは必ず滅びる−そんな言葉は歴史を通じて幾度となく繰り返された。殊に戦国時代は時代の様相柄多発した。
 人間万事塞翁が馬、世の中何が幸いし、何が災いするかなかなか難しいものがあるが、本能寺の変は正しく多くの人々の栄枯盛衰を左右した。
 ここでは本能寺の変から数ヶ月乃至数年の時を置いたとして、変の前の地位や富を失った者達にスポットを当てた。
順位対象解説
一位織田秀信  本能寺の変が起きたとき、後の織田秀信こと三法師は三歳だった。当然彼個人が発揮し得る力など皆無だった。秀信の祖父は信長、父は信忠で、秀信は信長の嫡孫として光秀討滅後の清洲会議にて、羽柴秀吉、織田信雄、丹羽長秀の後援を得て(彼の意志とは関わりなく)信長及び信忠の正当な後継ぎとされた。

 ここで会議の決定を遵守し、毛利家の様に二人の叔父(信雄と信孝)や家臣団が幼主・秀信を盛り立てて信長の遺志を継いで織田政権を樹立していれば秀信が握り得た権力・武力・財力は強大なものとなっていた。

 後世に生まれて既に歴史の結果を知っている我々は秀信を英雄と見ることはないが、足利義満、徳川家光の様に邪まな側近ではなく、先代からの忠義の臣に支えられた御蔭で成人後に独裁的権力者になり得たものも史上には少なくないのである。
 織田一族並びに織田家中が総出で秀信を盛り上げていれば、否、羽柴秀吉が心の底から随身していれば、英雄・織田秀信は史上に充分存在し得たのである。
 織田秀信が清洲会議の決定において重ね見られた将来像は雄大かつ華麗なものだったろう。また織田家中の多くの者達は信長の築いた栄耀栄華に座す秀信の姿を思い描いて忠勤に励まんとしただろう。

 後年物心つく頃に美濃城主という一大名の地位で、関ヶ原の戦いの降将の立場で、高野山に剃髪した世捨て人の身で自分がなり得たかもしれない天下人の地位に就いた人々を見続けた織田秀信の想いは如何なるものだっただろうか?
 幼くして頼りになる祖父と父を同時に失い、老獪な大人達に翻弄され続け、高野山に夭折した織田秀信の一生だったが、それでも関ヶ原に敗れた彼を死から救ったのは「信長の孫」としての立場だった。
 自害しようとした秀信を止めたのは福島正則である。正則は栄耀栄華を極めても信長への敬意を生涯持ち続けた秀吉の信長への想いを重んじていたのであった。
二位織田信雄  本来なら本能寺の変を最大限利用できる筈の男だった。その余りに大きな変遷を語る為に少々織田信雄の半生にお付き合い願いたい。

 信長次男・織田信雄は本当は三男だった。生母の身分の問題から二〇日早く生まれた本当の次男・信孝を差し置いて次男とされた(必然、信雄と信孝は不仲となった)。
 長じて信雄は北畠家乗っ取りの為に北畠具教(きたばたけとものり)の養子となり、ほぼ時を同じくして信孝も神戸氏の養子となった。
 だがここで信雄は信長の心証を損ねる失態を犯してしまう。伊賀攻めに失敗したのである。
 一方で信孝は柴田勝家と仲が良く、後継ぎは長兄・信忠と決まっていたものの、信長の覚えもめでたかった。明日の命の保証のない戦国の世、信雄も信孝も信忠次第では織田家後継ぎの座は決して夢物語と決められるものではなかった。そしてそんな状況に置かれては信雄と信孝の仲は良くなる筈がなく、益々悪くなっていった。

 期せずして本能寺の変が勃発し、信長と信忠は共に命を落とした。そして信孝は丹羽長秀とともに羽柴軍に合流し、父の仇討ちに貢献した。もはや信雄に日が当たることは有り得ないかに思われた。
 だが、ある野心の芽生えが信雄に味方した。勿論野心の持ち主は羽柴秀吉である。
 清洲会議で秀吉と共に三法師を正式な信長・信忠の後継ぎに配した信雄は柴田勝家と組んだ信孝をも滅ぼした。そして秀吉の野心を察知するや今度は亡父の盟友徳川家康と結んで秀吉との対抗手段とした。

 バカ息子の印象の強い信雄だが、ここまでのセンスにはなかなかのものがある。だが結局色々な意味で秀吉を敵に回したことが信長の跡取りとしての地位もそれ以外の物も失うこととなった。
 秀吉の策に嵌められた信雄は頼りになるはずの三人の家老を斬ってしまい、小牧・長久手の戦い後も家康に相談せずに独断で秀吉と講和した(もちろん、家康手強しと見た秀吉がそのように手を打ったのである)。

 その後北条征伐後に家康の関東移封に伴って、家康の旧領三河・遠江・駿河・信濃・甲斐の五ヶ国が秀吉から信雄に与えられる事になったが、父・信長の旧領・尾張清洲城にこだわった信雄はその命を拒否してかえって改易の憂き目にあった。

 後に家康の世になって小大名として取りたてられ、最終的には天童織田藩の礎を築いてその生涯を終えた織田信雄だったが、本能寺の変の直後、小牧・長久手の戦い・天下統一直後の転封命令を鑑みれば、対応次第では「天下の覇者」はさすがに無理でも、「信長の真の後継者」や「豊臣・徳川政権下での大大名」は夢ではなかっただけに昔の栄華を惜しむ気持ちは信雄本人だけではなく、その配下にも強いものがあっただろう。
 名城・安土城を焼いてしまう独断をいい方には活かせられなかったのだろうか?
三位丹羽長秀  本能寺の変をきっかけに天下を取ったのは豊臣秀吉である。ただでさえ農民の出に過ぎなかった小男が城持ち大名に成ったことを苦々しく思うものは多かったが、そんな男に嫉妬することもなく、信長の偉業の後継に協力したのが丹羽長秀だった。

 本能寺の変が勃発した時、長秀は織田信孝とともに対四国戦線にあったが、変を知ると信孝とともに羽柴秀吉軍に合流し、山崎の戦にて惟任光秀軍の壊滅に協力した。
 光秀討滅直後の清洲会議でも信長の跡目相続においても長秀は秀吉に味方し、柴田勝家の推す、三男信孝相続を退け、信忠嫡男・信忠の嫡男・三法師を跡取りとしただけでなく、翌年の賤ヶ岳の戦いでも秀吉に味方し、羽柴改め豊臣秀吉の天下を不動のものにする役割の一端を担った。

 徹底した秀吉への協力振りである。
 前田利家の例を見れば一〇〇万石クラスの大大名も決して夢ではなかった筈である。しかし後の時代に丹羽家の名は見られない。

 一言で言って長秀は秀吉に裏切られたのである。
 別の言い方をすれば、彼は最後まで「織田家の家臣」だったのである。
 関白の官位を得て、織田家をも一大名として遇するようになった秀吉に膝を屈することを潔しとしなかった。
 実質的には秀吉が主家であるはずの織田家の人間・織田信孝を切腹させるに及ぶと彼と袂を分かち、領国の越前に引き篭もったまま天正一三(1585)年に没し、後を継いだ長重は老獪な秀吉に抗せず、領土と家臣を失った(長重自身は寛永一四(1637)年まで生きた)。

 長秀の死は秀吉にしてやられたことを恥じての切腹とも言われており、長秀は秀吉へのあてつけに自らの腹から取り出した胆石を秀吉に送りつけて仰天させている。
 長秀はあくまで織田家の家臣だった。時の人・秀吉におもねることができれば前田家並の家格の確立も決して夢ではなかった。長秀の生き様を賛とするか否とするかは個々人次第だが、織田家中にあって「米の五郎左」−米のようになくてはならない男・丹羽五郎左長秀と言われた男が織田家繁栄の礎となる、と見込んで合力した秀吉に裏切られた衝撃は大きなものがあっただろう。
 その衝撃と事実に対処することを考えた時、そこには常人では計り知れないものがあることを忘れてはならない、と薩摩守は考える。
四位滝川一益  織田一族並びに織田家中は本能寺を経て天国と地獄に別れた者が少なくない。別の言い方をすれば、良くも悪くも本能寺以前のままでいられたものは皆無と言っていいだろう。

 中でも滝川一益はやることなすこと悉く裏目に出て、石高や地位を別にしてもそれまで築き上げてきたものを一気に失う羽目になったと見ることができる。
 伊賀忍者の棟梁である服部半蔵が徳川政権の成立に伴って立身出世を遂げ、「半蔵門」の名を今日に残すに至ったことを考えれば、同じ「忍び」という異能の持ち主としてあまりに対称的であり、一益が覇者としての織田家没落と共に失ったものは余りにも大きいえよう。
 本能寺の変勃発時に上野国にて北条軍と対峙していた一益は変事を配下はおろか、上野の国人(土豪・地侍)にまで明かして撤退にかかった。自身、国人の出で、相手の立場の良くわかる一益は信頼を第一とした。
 そのため上野の国人達には好かれた一益だったが、結果的にこれがために北条勢に変が筒抜けとなり、一益は北条勢の追撃に大敗し、清洲会議に間に合わず、織田家中での発言権を失い、後に味方した柴田勝家も滅ぼされ、剃髪した一益は二年後に生涯を終えた。  忍びが国持ち大名になり得た事を考えると一益は失ったものの大きさが改めてうかがえる。
五位佐々成政  佐々成政は織田信長の親衛隊として、前田利家が赤母衣衆を率いていたのに対し、黒母衣衆を率いて信長とともに戦場を駆け回った猛者であり、利家や森蘭丸同様、信長の衆道(男色)の相手でもあった。

 本能寺の変で柴田勝家と共に北陸攻めに加わっていた成政は清洲会議後も一貫して柴田勝家に組し、勝家滅亡後に秀吉に随身した利家とは対照的に信雄・家康と組んであくまで秀吉に対抗せんとして、富山からアルプス越えで家康に合力しようとしたが、信雄が勝手に和睦して家康が大義名分を失った為に成政の苦労は徒労に終った。

 その選択のまずさは「誤り」とまでは言わずともタイミングの悪さは否めず、滝川一益と同様の物がある。そして賤ヶ岳の戦いまでは利家と似た境遇(利家は秀吉とも仲が良く、成政は仲が悪かったので、一概に比較してはならないが)であったことも考えると、本能寺の変に端を発した没落は決して小さくない。

 一益に比べて下位だったのは、成政が恥を偲んで秀吉に降伏し、肥後を拝領した後日譚による。しかし成政は国人勢力の強い肥後を秀吉の意に逆らって苛政を敷いたために一揆を誘発し、その責めを負って自害を命じられた。ここで肥後を見事に治めていれば更なる道が開けていただけに成政は「本能寺の変」で失った者を他のランカー達よりは小さいとした。
 しかし、泣く事はないぞ、成政!あんたの子孫はこのコーナーに出ている誰の子孫よりもテロの危機に晒されている日本の危機管理のスペシャリストとして、その名を轟かせているのだから!(笑)。


得したなあ…
 織田信長の死は多くの人々に様々な選択を迫り、その多くは即決を要するものだった。
 極論を言えば「明日をも知れぬ身」にされた者達が続出した。それでなくても「明日の見えない戦国の世」である。
 本能寺の変の勃発に、ある者はその時を生き延びることで精一杯、ある者は奮闘空しく落命、ある者はその時の地位を死守せんとし、その結果、権力者の顔ぶれも、その大小も、勢力地図も大幅に様変わりした。
 本能寺の変を経ること八年、北条氏の滅亡を以って一世紀以上続いた戦国時代は関白・豊臣秀吉の足下に全ての大名がひれ伏した事で一応の終息を見た。この項ではその天下統一の時に本能寺を振り返った面々の「得したなあ…。」の声に注目した。
順位対象解説
一位豊臣秀吉  何と言っても「名」こそ上に天皇を抱くものの、「実」において権力・武力・財力において日本に並ぶ者なき座に就いた秀吉が本能寺の変を端に最も得をした人物である。

 本能寺の変の勃発時こそは、信長を失った悲嘆・惟任光秀への報恨の念が第一だった秀吉だったが、その後の歩みは参謀・黒田如水が言った「君の運の開き給う」た「時」に従ったものだった。
 信長が生き長らえた場合でも秀吉は信長政権の「五大老」と成り得たことは想像に難くないが、信長の延命は彼の嫡男・信忠の延命も意味する。恐らく織田政権は信長・信忠の二代で盤石化し、秀吉はその奪取を図る者から織田家を守る側の人間として生涯を終えたと思われる。

 勿論上記は、本来は歴史に「禁物」の「if」だが、関白となって、天下を統一した我が身を振り返ったとき、信長への思慕とは別に、本能寺を最大限利用し得たことに端を発した我が身に気付いたのではないかと思われる。始まりにその意識がなかっただけに。
二位徳川家康  「織田が突き 羽柴が捏ねし 天下餅 座りしままに 食うは徳川」とは三人の英傑によって為された天下統一を風刺して詠まれた歌である。
 言うまでもなく、最後に天下を取ったのは徳川家である。だがこれまた信長−秀吉−家康のプロセスを無視しては成り立たない。

 信長との同盟のために涙を呑んで嫡男・信康に切腹を命じ、その信長が横死するや殉死、次いで仇討ちを覚悟するも、結局渋々秀吉に膝を屈して力を蓄えた事が最後の覇者としての結果をもたらした。時代に翻弄されつつも我慢に我慢を重ねて待った結果、ホトトギスが鳴いたのである。

 秀吉の天下統一の段階ではまだまだ家康の腹の内では次なる戦いへの手筈を整えていたわけだが、運命の不思議さを感じずに入られなかった家康だっただろう。そしてその機縁を重んじたからこそポスト秀吉の座を逃さなかったのである。 
三位賤ヶ岳七将  羽柴秀吉対柴田勝家の「賤ヶ岳の戦い」で勲功を上げた秀吉旗下の七人の武将のことで、その面子は五〇〇〇石を得た福島正則に、三〇〇〇石を得た加藤清正加藤嘉明平野長康糟屋武則脇坂安治片桐且元のことである。

 勿論この戦いは信長が存命なら起こりようは無く、この戦い無くば、この戦いをきっかけに得た彼らの後々の大身もその実在は疑わしかった。
 親分が出世すれば子分も出世するという理屈。勿論秀吉も七将もその時はその時を生き延びたり、葉を競う為に必死だったろうが、後々振り返れば足軽大将の遠縁や知人や流れ者に過ぎなかった彼らが人によっては何十万石を有する大大名となっていたのである。

 勿論本能寺だけで成り立ったものではないが、これがきっかけだったことはおそらく本人達も否定しないだろう。
四位前田利家  前田利家は信長の親衛隊たる赤母衣衆の筆頭として、信長の衆道(男色)の相手であり、柴田勝家の良き弟分であり、羽柴秀吉とは良き親友であった。
 利家は信長の勘気を蒙った事もあれば、秀吉と勝家の仲裁を行ったこともあり、結果として豊臣政権下で五大老では家康に次ぐ実力者、官位は大納言、身代は加賀一〇〇万石を得て、その生涯を終え、子孫も幕末までその大身を保つのに成功した。

 利家も子孫もその苦労たるや並大抵のものではなく、その道は紆余曲折の多いものだった。そしてその始祖である利家が最後に従ったのは秀吉だった。
 信長や勝家のことを思えば複雑なものがあったとは思うが、自らの死後、秀頼を守ることとお家を守ることの双方に充分心を砕いていたほどだから利家に後悔は無かっただろう。
 そしてそれゆえに「秀吉選択」という正解を選んだきっかけが本能寺にあることを利家も充分承知していただろう。
五位安国寺恵瓊  本来なら亡国の世捨て人だった男である。それが毛利家の陣僧、秀吉の相談役、伊予六万石の領主にまで成り上がったのである。

 恵瓊の出自は安芸武田氏。周防の大内氏に滅ぼされた武田氏の生き残りである恵瓊は名前の通り、安国寺に出家することで生き永らえるのに成功した。
 当時の僧侶は現代と異なり、世捨て人でもあり、治外法権人であり、中立の存在でもあった。それゆえに武器を持って対立しあう武士同士の戦いの調停役ともなり得、戦没者供養の名目で自らの目的に利用できる「陣僧」が陣中に存在することとなったのである。
 そんな陣僧の一人に過ぎなかった恵瓊が大名にまで登りつめられたのは中国征伐に来た秀吉と知遇を得れたことに始まる。

 恵瓊が本来敵である秀吉と知遇を得れたのは取りも直さず、本能寺の変の為に秀吉側に交渉を持つ必然性が出来たことと、信長の横死を予言していた恵瓊(これは有名)が秀吉と手を組む路線を選択したからに他ならない。
 秀吉存命中に限るならこの選択は大成功で、毛利輝元と小早川隆景は叔父と甥で五大老に列せられ、毛利氏は一二〇万石の大大名の地位を獲得した。陣僧でありながら恵瓊が六万石を得れたのは本能寺を最大限に利用できた余生の賜物である。

 本来なら本能寺を最大限に利用した人物として恵瓊は一位になっていてもおかしくなかった。それが五位に甘んじているのは彼自身がその成果を保てずに関ヶ原に敗れて、刑場の露と消えた失策が大きな減点対象となった為である。上位の人物たちは概ね自らの本能寺による「戦果」を保つなり、拡大したまま鬼籍に入っているのだから。
 一大名となったことで信長の横死を予見した眼力を失っていたのだろうか?


天罰である
 「天罰」−それは神仏が背徳者や不道徳者や腐れ外道に与える罰とみなされる者で、とかく悪行や残虐非道な行いで評判の悪い人物がろくでもない死に方をした際に囁かれる。
 実際の所はそう思いたいのだろう。勿論神仏の権威を鼻で笑い、寺まで焼いた信長のこと、彼が部下に裏切られて死ぬ、という暴君に相応しい死を遂げたことに溜飲を下げ、それをより確かなものにする為に「起こるべくして起きたこと」=「天罰」と考えるのは宗教関係者には無理からぬことである。
 そこで、ここでは些か簡略ではあるが、信長の人生と世に及ぼした影響をおさらいする意味で、宗教関係がどのように信長の死を捕らえるかと共にその喜びの声(笑)に注目したい。
順位対象解説
一位浄土真宗 何と言っても織田信長をもっとも恨んでいる宗教の筆頭である。
 宗教関係各位にあって最も信長の死を望み、最もその死を喜び、その死を「仏罰」と喧伝したことは想像に難くない。
 それでなくてもこの当時、「一向宗」の名の方が通りのいい浄土真宗は徳川家康が戦った三河一向一揆に見られるように「進むは極楽、退くは無間地獄」と唱えて戦っていたのである。
 これほど戦意の高かった宗派である。そして法敵の死は必然的に「仏罰」とされていたのである。
二位天台宗 比叡山焼き討ちの信長に対する恨みは長島での一向宗に対する虐殺へのそれに勝るとも劣らぬものがあった。
 鎮護国家の霊場である比叡山を焼いた悪行には信長のその後の悪しき運命が天台宗サイドから「仏罰」の認印を押されるのはこの時をもって決まったようなものであった。
 しかも、信長を討った惟任光秀は当初反対したとはいえ、信長の命で焼き討ちを行い、その坂本の地に居城を得た、いわば信徒の犠牲で出世した男である。
 信長が光秀に討たれ、その光秀も三日天下で敢え無く落命……天台宗から見れば恨みある怨敵同士で殺しあって、双方ともくたばってくれたのである。
 信長だけでなく、光秀の横死もひっくるめて、宗徒の誰しもが「仏罰」と思ったことであろう。
三位真言宗 前頁で紹介したように高野山真言宗もまた信長による攻撃の危機にあった。
 ところがその直前に信長の方で横死してくれたのである。真言宗にしてみれば、弘法大師様による開山以来誰一人刃を向けようとしなかった聖域に刃を向けんとした愚者第一号が馬鹿な死に方をしてくれたのである。
 ある意味、浄土真宗や天台宗以上に信長への「仏罰」を信じたことだろう。もっとも、真言宗徒達の心情を考えた際に、そこには信長に対する「仏罰」と共にそれ以上に御仏の「御加護」を実感していたことも考えられるので、三位に留めた。
四位国家神道  直接信長に恨みは無いと思うが、桶狭間の勝利の前に戦勝を祈願した熱田神宮への感謝が見られないことと、天皇家を蔑ろにした態度に、これらの神官達も「神罰」を唱えたと思われる。
五位安国寺恵瓊  前項にあるように御家滅亡で落命していてもおかしくなかったのが、僧籍に入ることで命を永らえたの安国寺恵瓊は幼少の頃を仏教の中に過ごしたのである。
 彼が信長の栄達と横死を予言していたことは有名だが、そこに僧侶ゆえの縁起説=因果応報=必然としての仏罰を見ていた・・・・・・と、少々穿った物のも見方のような気がしないでもないが、薩摩守に思うところ遭って、特別にエントリーした。


 
対応を誤った!
 本能寺の変は何と言っても天下に片手が届いていた織田信長が横死した事件である。
 歴史的にもこれほど大きな潮流にあっては当事者は信長父子も明智勢も無事ではいられなかった。
 そこで今度は本能寺の結果、「得をした者」の反対である「損をした者」を、生死ではなく、変勃発時の判断を後から振り返ったとしてランキングして見た。
順位対象解説
一位織田信雄 最終結果としては中大名として家名存続に成功した数少ない織田一族の一人がこの信雄である。
 しかし本当は信長三男でありながら「次男」になるほど生まれも有利だった彼は兄・信忠横死の後の跡取り最有力候補にありながら、(人望が無かったので)秀吉や勝家の支持を得れず、策を弄さざるをなくなり、しかもその大半は裏目に出たのである。

 まず変の直後に弟(←くどいが本当は兄貴)にして最大の政敵である信孝に「父の敵討ち」を秀吉に従う形とはいえ、なされてしまったことが痛かった。
 後に秀吉に接近したのは全くの愚行ではないものの、彼の命で弟の信孝を切腹させたり、秀吉と対立すると安土城を焼いたり、秀吉との内通を疑って三人の家老を斬ったり、家康と組むも勝手に秀吉と和睦したり、と真に節操がなく、信長似の大器は丸で感じられない。
 後にも北条討伐後の家康旧領(三河・遠江・駿河・信濃・甲斐)への転封命令を父の遺領・尾張にこだわって拒否して、一時改易されたり、とドジが目立つ。

 しかし結局は、(表面上とはいえ)家康とは上手く付き合い、その時その時の力ある人間は的確に見抜き、姪の淀殿に頼られながら豊臣滅亡に巻き込まれることなく天童織田藩の確立に成功しているのだから全くの間抜けでもない。
 限られた才覚でもフル活用すれば大大名の地位ぐらいは残せただけに本能寺後数年の信雄の判断の甘さは余計に目立つ。父の死とあまりの境遇の変化についていけなかったのだろうか?凡人には無理も無いことではあるが・・・。
二位滝川一益  清洲会議に間に合わず、織田家中での発言権を失い、没落したことは何度も書いた。偏に敵方に事態を漏らした事に端を発する。
 勿論これは過失で漏らしたのではなく、一益一益なりに考えがあり、「信」を重んずるところに定評のあった彼独特の処世術でもあったのだが、後々に失ったものの大きさと、残った物の皆無ぶりを考えると、結果論ながら「対応の誤り」の痛感を禁じ得ない。
三位吉川元春  彼の場合も結果論。対羽柴秀吉戦線において吉川元春はタカ派の急先鋒だった。熱き武人の典型である彼は、自身は秀吉に気に入られながら生涯成り上がり者の秀吉嫌いから脱却できず、当然本能寺の変の勃発を知った際にも和睦を反故にしての追撃を主張したが、弟・小早川隆景と安国寺恵瓊の説得もあり、元々信義を重んじる主義の彼は追撃を断念した。

 だが後々、秀吉への臣従の中で毛利家は九州討伐で痛手を蒙り、そのさなか元春自身は病死し、彼の三男・広家と安国寺恵瓊の不仲が関ヶ原後の毛利家の減退を招いた。
 草葉の陰で元春の心の中に「あの時追撃していれば…。」との想いがなかったとは言い切れまい。
四位穴山梅雪  何と言っても命と名誉の両方を失ったのが本当に痛い。

 武田信玄の甥(母が信玄の姉)で、信玄の次女・見性院を妻とし、武田家とは切っても切れない関係にありながら、勝頼を見限って織田・徳川に従い、武田本家を滅亡に導いた梅雪は武田ファンから蛇蝎の如く忌み嫌われている。
 勿論、梅雪にも梅雪の「御家の血を絶やさない」との言い分があっての降伏だが、自身は本能寺の変直後の脱出行で家康と別ルートを辿って、落ち武者狩りに遭って斬り死にし、嫡男は疱瘡(天然痘)で若死にし、家康からあてがわれた養子(五男・信吉)達も次々夭折した為、結果として恥を偲んだ降伏の成果も絶やし、「裏切者」との悪名だけを残してしまった。
 「あの時家康殿と行動を共にしていれば…。」との後悔は大きかったと思う。

 ※穴山梅雪の横死には家康の陰謀説もあるが、薩摩守はこれを支持しない。当時の家康にそんな余裕があったとは思えない。
五位黒田官兵衛  一言で言って「口は災いの元」だった。
 大きな流れで見れば黒田官兵衛の人生は決して失敗したものではなく、彼が息を引き取るとき、御家は嫡男で、当主となっていた長政の手で五〇万石の大大名にまで成長していた。戦国の生き残り(それも豊臣恩顧系)としては大成功と云っていいだろう。
 しかし官兵衛は信長の死を知ったときの悲しむ秀吉に「君の運の開き給ふ時ぞ」と言った為に、人の死さえも眉一つ動かさず冷徹に利用する油断すべからざる人物として生涯秀吉に警戒され、その警戒は家康にも受け継がれてしまった。

 秀吉は「俺の死後、天下を奪う奴が居るとすれば家康か官兵衛」と常々口にし、同じく警戒した家康には秀頼の行く末を託したのに、官兵衛にはそうせず、一二万石の二流大名に留めた。
 また朝鮮出兵中の機内大地震で伏見城倒壊の折に秀吉は、彼の身を心配して謹慎中でありながら駆けつけた加藤清正には感激してその謹慎を解いたが、同様に駆けつけた官兵衛に対しては「儂が死ななくて残念だったな。」と皮肉った。
 結局黒田家の大躍進は秀吉の死を待たなければならなかった。本能寺直後の例の一言は策士・黒田官兵衛の一生の不覚だったと思われる。
 とはいえ、官兵衛の人生は成功者の人生といっていいので、五位に留めた。


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平成二七(2015)年七月四日 最終更新