平成一七(2005)年六月二日、本能寺の変から四二三年の時を経て薩摩守は初めて本能寺を訪れました(※現在の本能寺は当時から移転しています)。
少年の頃、寺を焼き打ちにした様な男・織田信長が燃え落ちる寺の中に死したことに、因果応報を感じるとともに、何故に寺に宿泊していたのか疑問でした。
知識を集め、考察を重ねた今となっては然程不思議なことではないのですが、それでも本能寺を訪れ、法華宗の寺であること(←安土宗論を始め、信長は法華宗とは良好な関係が多い)、本能寺が鉄砲伝来の地・種子島の島主家と縁があったことを知り、自らの勉強不足と「どんなに知識を持っていても、現地を訪れるに若くは無し。」との認識を深めたのでありました。
左の画像は本能寺の寺門の前に立つ薩摩守。
最後に
結局の所、本能寺の変とは何なのでしょうか?
我ながら最後の最後に変な質問だとは思いますが、日本史の行方を大きく変えた事件はあまりに多くの要因が複雑に絡み合い、それがこの事件の真相究明を妨げているとの感が拭えません。
そしてありとあらゆる可能性が考慮されるように、余りにもチョットした油断を突く形で始まったが故に、この事件に学ぶ教訓は多々あるような気がしてなりません。
人の恨みを買わない事、常に危険に備える意識、思わぬ出来事への冷静な対応・・・・・・出来るなら不要であって欲しい物ではありますが、それだけにその重要性を痛感する今日この頃です。
平成一六(2004)年九月一二日 道場主
平成二七(2015)年七月四日 道場主