これは光栄の「爆笑三国志」のパクリです。

菜根版名誉挽回してみませんか


第七頁 江戸激論偏
吉良義央(きらよしなか)………講談の犠牲者

【寛永一八(1641)年九月二日〜元禄一五(1702)年一二月一五日】
 三〇〇年を経た今尚、『忠臣蔵』及び赤穂浪士の人気は絶大だ。彼等に主君・浅野長矩の仇と目された吉良上野介義央は講談は下より、俗説にも完全な悪玉である。
 松の廊下で浅野が刃傷に及んだ原因は今をもって明らかではないが、一般には勅使饗応使としての上役の彼が浅野を田舎侍と侮って陰険ないじめをしたイメージがある。
 浪士達の報復に備えて米沢藩(←息子・綱憲が養子として藩主となっていた)に護衛を依頼したり、屋敷に逃走用の隠し道を随所に用意し、最後には厠に隠れたものの逃げ切れず、討ち取られた様も武士としては見られたものではない。
 以後吉良の城下の民衆までもが「吉良者」と呼ばれ、蔑みの対象となった責任も彼のものだろうか?
弁護一 地元じゃ名君
 江戸幕府の幕政において勅使饗応使をまとめる高家筆頭、それが吉良上野介義央の身分であり役職であった。

 吉良家は、元を辿れば足利将軍家に繋がる源氏の末裔で、「吉良」の名は三河吉良ノ庄にちなんでいて、徳川家康の初恋の人・亀姫が嫁いで吉良御前と名乗った豪族の姓でもある。それゆえに吉良家は石高こそ大きくなかったものの由緒ある家柄だった。勿論徳側政権下では譜代大名に属した。

 石田三成の項でも触れたが、現代の政治家と違って大名は地元の支持より将軍や幕閣の寵愛の方がよっぽど重要だった。
 公称三〇万石が実収五〇万石で、その余剰分を家臣・領民に宛がった上杉鷹山などは本当に名君で、逆に一五万石しかない大名が幕府には二〇万石と称していい顔をして領民から搾取した例の方が遥かに多いのだ。
 勿論やり過ぎれば一揆を招いたり、公儀隠密に目をつけられて御家取り潰しの口実にされかねないので、その辺りの匙加減がストッパーになるのだが…。
 そんな時代にあって、吉良義央は銅像が残るほど領民に慕われていたことに注目して欲しい。

 温厚で気取らず、気さくな人柄−それが吉良義央らしい。領内を良く見回り、その際に騎乗した馬は赤馬と呼ばれる野良作業用の馬で、義央と供に銅像にされる義央の象徴でもある。
 農民達に
 「江戸千代田での大役を無事果たせるのはそなたらが汗を流して働いてくれているから。不平不満あらば何なりと申すがよい。」
 と声をかけ、「黄金堤」(別名一夜堤)の名で知られる堤防は現存し、他にも道路や河川の補修、特に塩田開発は有名である。
 以上からも、彼の内政に非の打ち所はないだろう。


弁護二 即日切腹!逆らい得ぬ将軍の権威
 時に名君とされ、時に暴君とされる時の将軍・徳川綱吉。
 なかなかをもってその実像は掴み難いが、一つだけはっきりと言えることがある。それは誰も彼に逆らえなかったということである。
 悪名高い「生類憐れみの令」を正面切って非難し、あてつけに犬の皮一〇〇枚を送った水戸光圀でさえ、目の上の瘤となるのが精一杯で、結局は綱吉の為に隠居に追い込まれた。

 そんな絶対権力者の綱吉が松の廊下の刃傷沙汰に激怒した。
 俗に『忠臣蔵』で語られてきた吉良義央の浅野内匠守に対する仕打ちが事実でないことは後述するが、江戸城内で刃傷に及んだ浅野を切腹とし、斬り掛られながらも刀の鯉口を切らなかった吉良はお咎めなしとなった。
 このときの吉良上野介に対する綱吉の裁きが誤ったものではないことは多くの人々が認める所である。しかし一抹の疑問が残った。浅野への即日切腹の沙汰である。

 現代の長過ぎる刑事裁判と比べるのは論外としても、このときの綱吉の早過ぎる裁きには多くの人間が(大半は密かに)疑問を感じた。
 同じ切腹の沙汰が下るにしても、卑しくも大名の身である浅野内匠頭に対し、数日の猶予さえ与えない、即日という余りの早さは疑問を残し、その疑問は「謎があるに違いない」との思い込みと化した。

 一般に綱吉が即日切腹の沙汰を下したのは、勅使を迎えての大事な時・大事な場で武士の総大将たる綱吉の面目を丸潰しにしかねない浅野の愚行に激怒し、将軍としての断固とした素早い処置を朝廷に示す必要があった為とされている。
 異論は無い。
 大切なのは将軍の絶大な権威の元に下された判決はその絶対性故に「強引な処置が疑念を残した。」と云う事実と、「誰もがその絶大な権威に逆らい得なかった」ために、「攻撃可能な相手により強い矛先が向けられることになった。」という事実である。

 誰も征夷大将軍には逆らえなかった。最も綱吉を手こずらせた人物(=徳川光圀)も事件の前年に世を去っていた。
 「『即日切腹』の御沙汰に納得出来ない」と云う気持ちは、その怒りを吉良殿に何の御咎めも無いのはおかしい」の方向に増幅を伴って向けられた。

 吉良義央の嫌われ様が極端に大きくなった理由はここにも窺えるだろう。
 そしてそれは彼を悪者とした講談の世界でより一層増大されたのである。更に講談のみならず、吉良を悪者として喧伝した黒幕の存在が推測される。それは柳沢吉保を筆頭とする幕閣である。
 公正な筈の綱吉の裁きはその即日性から「不公平」との声が上がった。
 綱吉を悪者にするわけには行かない幕閣は吉良を悪者としたとの推測である。
 実際赤穂浪士の討ち入り前に吉良義央は隠居を理由に江戸城から離れた本所に屋敷を移され、浪士の討ち入り時には見回りの役人が周囲に見えず,あたかも「吉良を襲って下さい。」と言わんばかりの状況になっていたらしい。
 吉良が悪者となれば赤穂浪士は同情され、綱吉への風当たりは弱まる。
 自身への風当たりを避ける為に悪者を捏造するのは切羽詰った権力者がよくやる手口であることは古今東西に見られ受ける話である。そう、戦争を起こして共通の敵を作ることで自身への反逆を押さえる独裁者と同様に……。


弁護三 彼が何を悪いコトしたって言うの?
 既にこのサイトで触れるまでもないが、吉良義央が浅野内匠頭に勅使饗応の上役として数々のいじめを行ったと言われる「遺恨」は講談『忠臣蔵』内での虚構であることは有名である。

 第一、内匠頭に勅使饗応使としての過失があれば、それは吉良の責任となるのである。
 いきなり斬りつけられたような状況でさえ刀を抜かず、「喧嘩両成敗」の罰則を避けるぐらい用心深い吉良が自らの立場を危うくしてまで内匠頭をいじめるのは無理がある、と云うものである。
 実際浅野が吉良に斬りつけたのは幼少の頃より評判も悪く、「(つかえ)」という精神病による乱心行為説が濃厚である。
 本家広島藩の支藩とはいえ、赤穂五万石の藩主として多くの家臣・領民の運命を握る責任重き立場の浅野が、「殿中で刀を鯉口三寸でも抜けば切腹」である事を、常識ある人間なら理解していない筈がなかった。
 まして史実では「この間の遺恨…。」という有名な台詞は存在しない。
 吉良義央は全く非が無いのに突然の狂乱行為で負傷し、『即日切腹』の為に多大な怨みまで買った一方的な被害者と言っても決して過言ではないのである。


弁護四 四十七士の美化され過ぎたがゆえの不幸。
 事の是非は別として、大石内蔵助を初めとする四十七士は江戸の町民から拍手喝采で迎えられ、諸大名も同情の念を寄せ、良くも悪くも即決の人である徳川綱吉でさえその処分に頭を悩ませた。それほど四十七士の人気は高かった。
 後々に数多くの映画・ドラマ・芝居・小説のネタにされ、討ち入りが一二月一四日に行われたことから、年末の風物詩化している事からもその人気が現代でも衰えを見せないのは明らかだろう。
 昨今に至ってようやく討ち入りの非とする面にも人々の目は向けられているが、絶大な人気を博した赤穂浪士は彼等の思惑に関係なく、赤穂浪士と反対の立場に立った者達の評判を著しく、不当に貶めた
 赤穂浪士でも討ち入りに参加しなかった者、討ち入りに反対した者も「忠ならず」とされ、大石と同格の城代家老・大野黒兵衛は今尚悪家老の典型みたいに描かれる、悲惨である。
 とばっちりは何故か大野家の庭にあった柳の木に及び、泉岳寺に「不忠の柳」として今もこの世に生きている。柳の木に何の罪があるというのだろうか?

 また討ち入りに抗し切れなかったことで、「武士にあるまじき失態」として吉良義周(きらよしちか。義央の孫)は蟄居謹慎(三年後にニ一歳で病没)、吉良家は改易、三河吉良出身者は赤穂浪士の敵の土地の出身として「吉良者」と呼ばれ、時に差別の対象とすらなった。
 四十七士に少しでも異なる立場、逆の立場に立っただけでこの仕打ちである。ましてや目の敵・張本人とされた吉良義央が嫌われ度を過大に膨張されたのも無理は無かった
 これに同情を向ける必然は自明の理と思われる。
結論 何だかんだいって吉良義央は昨今に至ってかなり見直されて来ていると思います。
 古来より三河吉良の人達は義央への尊敬の念を脈々と伝え、その努力が花開こうとしています。吉良の同情すべき点、非が浅野内匠守にあったこと、最高権力者の裁定を貶めない為の人柱…これらは前述しているのでもはや充分かと思います。
 ここで道場主が訴えたいのはこの吉良義央に限らず、人間の悪い面を悪し様に言うだけでなく、隠れた或いは隠されてしまった美点に目を向ける行為がどんどん広まればと思っています。人の悪い点しか見ないなんて寂しいじゃないですか、人間として余りにも心が貧しくて……



田沼意次(たぬまおきつぐ)………余りに運がなさ過ぎた
【享保四(1719)年七月二七日〜天明八(1788)年六月二四日】
 賄賂―金権腐敗政治の代名詞としての田沼意次をイメージする人も多いのではないかと思う。
 九代将軍・家重の側用人出身という出自も悪印象の一因となっている。柳沢吉保(五代・綱吉の側用人)、間部詮房(まなべあきふさ。六代・家宣の側用人)の例に見られるようにとかく側用人は「権力者におもねる」、「虎の威を借る狐」のイメージが強い。
 上は時の御三家当主から幕閣、下は一般ピープルまで彼を嫌っていたことに間違いはない。彼の嫡男・田沼意知(たぬまおきとも)が佐野善左右衛門に殿中で斬られる事件が起き、意知が落命すると佐野は切腹させられたものの、赤穂浪士並の人気を博した。
 だが彼が何をしようとしていたか、そしてそれが成功していればどうなったかに注目され出したのは近年に至ってのことである。
弁護一 賄賂を受け取っていたのは彼だけじゃない。
 こう書くと、
 「お前なんであんなことしたんや」
 「山田君がやってたからです。」
 「ほな、山田が死んだらお前も死ぬんか?」
 的な反論
が帰ってきそうである(苦笑)が、田沼意次の贈収賄が歴史上の多くの賄賂を受け取った政治家に比べても大袈裟に言われているのは事実である。

 そして加えて言うなら薩摩守は賄賂は贈賄側の方が罪が重いと見ている。
 贈賄側は、事の発端となる存在であり、田沼を妬む一方で、彼を積極的に利用しようとした存在が多いことが彼の出世街道と環境の変遷を見ると良くわかる。
 利用された収賄側である田沼も良くないが、出自の低い彼を表向き非難し、裏では媚びて利用した連中に彼を悪く言う資格があるのだろうか?
 これは賄賂問題を巡ってどの世界のいつの時代にも言えることであろう。

 事実五二歳で意次が老中となると、名門大名家が数多く田沼家と縁組を結ぼうとした。これも最近までは
「身分の低い出自を埋める為に田沼の方から積極的に行った。」
 とされていた。
 意次の贈賄を弁護する気は更々ないが意次が賄賂の代表選手みたいに槍玉に挙げたり、意次のせいで賄賂がひどくなったりした様にあげつらう「濡れ衣」には異を唱えたい。


弁護二 政治的目の付け所は間違っていなかった
 田沼政治の基本方針を論述すればそれは重農主義から重商主義への変換である。
 有名所では株仲間(座)の強化による商業課税印旛沼開拓蝦夷地開拓による産業振興である。
 田沼意次が活躍したのは第一〇代徳川家治の時代だが、彼が小姓の身分で修行を積んでいた時に第八代吉宗は定免法を定めていた。
 これは豊作不作に関わらず、過去数年の米の出来高を基準に一定の年貢を取り立てるとしたもので、吉宗は従来の重農経済政策が有効に機能しないことを察していた。また米価は一定ではなく、「米将軍」と呼ばれた吉宗が米価の変動に神経を使っていたのは有名である。
 そしてその経緯を、第九代家重の小姓から出世した意次は良く見ていたのだろう。
 農作物ではなく、金銭による経済立て直しを図ったわけである。後の時代からなら何とでも言えるかもしれないが、江戸幕府崩壊に伴って税制が米から金に替えられたことや現在の工業国である日本、さらに江戸時代中盤から士農工商の最下位に置かれている筈の商人が実際は一番力を持っていたことを考えると意次重商主義経済政策は時代を先取りした、否、先取し過ぎた政策だったといえるだろう

 意次の政治は人事面にも注目すべきものがあった。
 彼の出世は悪く言えば権力者による依怙贔屓によるものである。三〇〇俵取りの旗本の家に生まれた意次茶の湯将棋六芸に優れ、言語不明瞭な家重に(月の三分のには江戸城内に泊まりこんで)献身的に尽くした。
 言語不明瞭な家重の言葉をただ一人理解した大岡忠光(有名な大岡忠相の甥)は側用人として家重に可愛がられたが、意次はそれに次いだといっていい。

 家重は死の一年前に家治に将軍の座を譲るが、それに際して意次を重用するように告げた。家柄からすれば彼の老中入りは異例だった。吉宗さえお気に入りの大岡越前を老中には出来なかったのだから。
 それを反映してか意次の行った人事も良くも悪くも身分に捕われなかった。四男の養子先である遠州沼津藩主水野忠友を老中入りさせる、といった良くない面(これも失脚に際しての槍玉の材料とされた)もあったが、一方で自らの出自より低い百俵・二〇〇俵取りの微禄の出の者でも勘定奉行を始めとする要職につけている。
 例え身分が低かろうと有能と見ればその意見に積極的に耳を傾けた田沼意次が平賀源内と実懇であったことは余り知られていない(道場主もこのサイトの為に調査を開始するまで知らなかった)。
 賄賂を受け取りまくって金銭欲の権化の様に見られている意次が源内に研究費を出してやったことすらあるのだ(しかも個人的に!)。
 是も非もある意次の人事だが、少なくともは自分自身が家柄に捕われず、能力重視で要職につけられたことを良く理解し、それを受け継いでいた面があったことだけは間違いはない


弁護三 凄まじいまでの運の悪さ
 「運も実力の内」、「結果オーライ」というものの考え方は薩摩守は大嫌いである。  だが残念ながらそういう目で見られてしまうのは世の常である。
 何せ近世以前では朱子学の影響で天災さえも「為政者に徳がないから」と見られてしまっていたのだから。

 徳川綱吉の時代にも富士山が噴火しているが、これも評判悪い彼の貨幣改鋳(元禄金銀)に対し人々は「悪い政治に富士のお山がお怒り」と(陰で)噂した。
 そして田沼意次も少なからず人知の及ばぬ不運に泣いた。
 彼の印旛沼開発も天災の為に頓挫した。
 また性急に過ぎた改革が守旧派の反発を買ったのは田沼の手腕・人望にも責任はあるが、彼の長男・意知が暗殺された直後に偶然にも米価が下がったため、天罰の如く世間に受け止められてしまった
 そして彼へのとどめとなったのが将軍徳川家治が病に倒れたことである。
 古来成り上がり者ほど多くの妬みを買い、後ろ盾を失った際の末路は惨めなものが多い
 詳細は後述するが、意次は病に倒れた将軍に面会が叶わぬまま老中職を解かれ、その後じわじわと権力を剥奪され、最後には江戸城からも追放された。
 すべてを失った意次が失意の内に世を去るまでその後二年とかからなかった。
 「天候」・「主君の寿命」・「世間の同情」…いずれか一つでも意次に味方すれば後々の歴史もまた違ったものになったであろうことは想像に難くない。


弁護四 卑劣なり、松平定信
 「田沼意次の天敵は?」と問われれば、歴史学者じゃなくてもそこそこの歴史好きなら皆一様に松平定信(徳川吉宗の三男田安宗武の子)を挙げるだろう。
 だが、田沼を金権賄賂政治の権化の如く悪し様に痛罵した彼は白河藩主時代に田沼に賄賂を送っている。にも関わらず意次落ち目と見るや定信の意次に対する仕打ちは陰惨を極めた。

 そもそも定信はコテコテの朱子学徒であった。
 朱子学の信奉者は孝行と儀礼に厳格なのはいいのだが、往々にして行き過ぎて、祖法の変革を頑なに拒んだり、身分制度にも捕われやすくなって成り上がり者を認めない傾向がある。そんな定信にとって改革派にして成り上がり者の意次存在自体が忌むべき者であった。

 定信は開府以来の重農政策を重んじ、意次重商政策を「身分低い商人に依存する政策」として非難した。また意次を始めとする身分の低い出の者が要職につくことに眉を顰めた。

 将軍家治が病に倒れると定信はクーデター(?)を決行した。
 御側衆と謀って登城した意次に「上意」と偽って意次を家治に会わせなかった。意次が将軍に会えぬまま老中職を解任されるのはその二日後だが、御三家と謀って「上意」と偽った可能性が高い。
 家斉が一一代将軍に就任すると定信は将軍に働きかけて意次二万石の減封上屋敷・大坂蔵屋敷の没収登城禁止、と執拗な仕打ちを重ねた。
 そして重商政策から元の重農政策に方向転換し、意次が取り立てた者達も残らず解任し、田沼政治の全否定を行った。

 これに対して田沼が家斉に処分の不当と復権を嘆願した上申書を出せば、閉門所領没収という重い処分で報復した。
 ここに意次の政治生命は完全に断たれた。
 賄賂や縁故で不当な優遇を行ったとされる田沼意次だが、その権力でこれほどまでに個人を攻撃した話は聞いていない。
 以上の経緯を見れば、後から権力を握った松平定信が意次を実像以上に悪いイメージを後世に残すよう取り計らっていたとしても何の不思議もない。
 方手落ちになっては行けないので触れておきたいのだが、松平定信は祖父吉宗を手本とし、賄賂や不正のない清廉潔白の政治を目指していた。
 彼はその行き過ぎた潔癖さゆえに人望をなくし、政権の座を追われ、世間には
 「白河(←定信は元白河藩主)の 清き流れに 魚住まず 濁れる田沼 今は恋しき」
 という狂歌さえ流れた。良くも悪くも彼は清廉過ぎたのだ。また白河藩主としての彼は天明の飢饉の際には評判の悪い米の買占めを敢えて断行して藩内から一人の餓死者も出さなかったという輝かしい実績があることにも触れておきたい。
結論 いつの世にも急な変革を行おうとする者、軽輩の身から一代にして立身出世を遂げた者が妬まれることに変わりはありません。また敗者が勝者によって悪し様に歪められた姿で歴史に残されることも同様です。
 田沼意次の場合、彼を失脚させ、その後に政権を握った者が彼とは正反対の価値観を持つ松平定信であったことも災いしました。
 彼の悪しき面を指したものが間違いであるとは言いませんが、保守勢力によっていい面が伏せられ、悪い面がクローズアップされた上での人物像であることだけは認識しなくてはいけないと薩摩守は感じています。


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最終更新 平成二六(2014)年六月九日