豊臣秀頼(とよとみひでより)………優秀ゆえに滅びたのだ
【文禄二(1693)年八月三日〜慶長二〇(1615)年五月八日】 |
一代で農民から関白となり、日本を統一した豊臣秀吉の子に生まれながら、その次代にあって御家を滅ぼしたマザコンのお坊ちゃま…………一般に抱かれている彼のイメージはそんなところだろうか(最近改まりつつはあるが・・・)。
御家を滅ぼしたことが多大なマイナスイメージを背負い込むことは何度となく書いたが、そのときに当主でありながらリーダーシップを発揮しなかった(と見られる)者は殊更悪し様に言われる。確かに母・淀殿に逆らえなかったことや父・秀吉恩顧の大名達が味方しなかったことや戦場に出なかったことは武将として、漢(おとこ)としてお世辞にも一人前とは言い難い。
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弁護一 溺愛されて育ってここまでくりゃ立派。
周知の通り豊臣秀頼は秀吉が晩年に得た子である。
長年実子に恵まれなかった秀吉は数多くの養子を迎え、彼等を溺愛していた。ようやくにして授かった実子・鶴松が僅か三歳にして夭折した時の嘆き振りは見ている方が辛くなるほどで、無謀な朝鮮出兵はその悲しみを紛らわすのが一因となって決断されたとも言われている程だ。
ところが年齢的にも、「もはや実子には恵まれない…。」と諦め、関白職を甥の豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に譲っていた秀吉に思いもかけず次男が誕生した。言うまでもなく秀頼である。
秀吉は狂喜し、「お拾い」と命名した。これは「捨て子は育つ」の格言(実際の捨て子とは異なり、捨てる振りをしてすぐに拾い上げることで、要は厳しい環境に置かれた者は強く逞しくなる、と言う理屈)に従って「棄て」と名付けた鶴松が夭折したことから、「棄て」の次の段階「拾い」を名乗りとしたのである。
相変わらず前置きが長くて申し訳ないが只でさえ子煩悩な秀吉が如何に秀頼を溺愛する素地があったかが御理解頂けると思う。
周知の通り、そして当然如く秀頼は父母より溺愛されて育った。
秀吉存命中は片時も離される事はなく、常に大勢の小姓や侍女がそれに従った。秀吉が死に臨んで諸大名に、くどいぐらいに、みっともないぐらいに秀頼の後事を託したことは有名だが、病を得る前の秀吉は「死の間際の人間は精神状態が普通ではないからその言を真剣に聞いてはならない。」と言っていたのだからこれは歴史の大いなる皮肉であろう。そしてそんな持論を無視するほど秀頼を愛し、その行く末を案じていたのであった。
ここから先は詳細を後の弁護に託すことになるが、まずは秀頼が通常なら、幼児のまま人格及び能力の育ちがストップしかねない環境にいたことを御理解頂きたい。何せ初めて牛を見たのが一五歳のときだというのだから…。
弁護二 家康が恐れた将来性。
「いっそバカ殿様の方が救われる。」と云う例は今川氏真などを見ると判り易いのではないだろうか?
慶長一七(1612)年に一九歳の青年となった豊臣秀頼と二条城で会見した徳川家康は祖父浅井長政の血を受け継いだかのような偉丈夫振りと父豊臣秀吉の胆力を受け継いだかの様な堂々たる佇まいにその将来性を恐れた。
この会見、政治の上では既に事実上秀頼の上位に立っていた家康が秀頼の挨拶を受け、見た目にも豊臣が徳川に膝を屈したことを世間に示すものだった。
当然豊臣方も淀殿を筆頭に猛反対の声があり、すんなり会見が実現した訳ではない。
実際にこの七年前に徳川秀忠の将軍就任にあたって、祝賀の挨拶に参上せよとの命令を受けたときは豊臣方は断固拒否して成立しないと同時に徳川の下風に立つまじとの意を内外に示した。
だがこの会見に際しては、加藤清正(かとうきよまさ)・浅野幸長(あさのよしなが)・福島正則(ふくしままさのり)が「力の逆転した現実」と「豊臣家の将来」と「身を呈しての秀頼の警護」を淀殿に訴えて会見が実現した。
会見の直前、福島が急な腹痛で列席できず、加藤と浅野が秀頼の護衛をしたが、これには秀頼一行に万一の事態があったときには福島が一戦を交える為だったとの説がある程の念の入れ様だった。
豊臣家にとってそこまで事態が切迫していた会見に家康御満悦の筈が、実際に会ってみると「何とかしなくては…。」になったのである。この会見と家康の恐れの為に、過去幾つの小説で会見翌年に急死した加藤清正と浅野幸長が暗殺されたことにされたことやら…。
この会見から大坂の陣で豊臣家を滅ぼす為に戦に漕ぎ付けた徳川のやり方は、はっきり言ってあざと過ぎる。
家康に秀頼を滅ぼす気はなかったとする説や小説も多いが、薩摩守は少なくともこの会見に前後して家康は秀頼を滅ぼすか、最低でも万石未満の大名ならざる身分に落とすことを謀るようになったと見ている。
家康が開戦にこぎつけたやり方はここでは触れないが、そこまでして秀頼を潰すことに家康が邁進する程の将来性が秀頼にあったことを御理解頂きたい。
弁護三 環境が悪過ぎた。
どうもこのサイトは個人の弁護に執着する余り情状酌量を求めて本人より周囲に責任を求めるような論述をしてしまっているが、環境にすべての責任を帰するのは、歴史を見る上でも、現実の犯罪問題を考察する上でも好ましいことでないのは承知している。
だが、その上で豊臣秀頼の環境に目を向けたい。それほど幼少より彼を取り巻いた環境は特殊なのだと考える故に。
まず最高権力者にして諦め切っていたわが子に再び巡り会えて狂喜する秀吉の子に生まれたのである。思い切り甘やかされて育ったのは前述通りである。「温室育ちの薔薇」という表現があるが、それを通り越して「試験管育ちの薔薇」にさえ見える。
そして注目すべきは成人する間もなく彼を見舞った環境の変遷である。
秀吉没後二年にして関ヶ原の戦いで六五万石の一大名の石高にされ、三年後には徳川家康が征夷大将軍となり、秀吉恩顧の大名も家康に従い出す。
関ヶ原の戦いでは西軍の正式な総大将は毛利輝元(もうりてるもと)で、輝元は大坂城にて秀頼を「錦の御旗」として家康に対抗せんとしていたのだが、西軍大敗後、一族の一員で、家康に味方した吉川広家(きっかわひろいえ)の説得を受けて大坂城を退去した。
その後、家康は「秀頼様と淀殿に何の責任も無し。」として危害は加えずとも、「論功行賞」を元に東軍に味方した大名を大幅加増した為に、秀頼は一大名に等しい力に落としこまれた訳だが、ある書籍(名前を思い出せなくて恐縮だが)で、この時の秀頼を指して、
「それにしても豊臣秀頼は愚かであった。」
と表記した物が在ったのだが、「当時八歳の子供にどないせーちゅうんじゃ、この筆者は!?
オンドレが八歳の時に政治が取れてたんならエラソーに文句言えや!」という怒りを覚えた記憶がある。
ともあれ、豊臣家は家康にその御家力を大幅に落とされた訳だが、そう思いきや家康は秀吉との生前の約束を守り、孫娘(秀忠の長女)・千姫を秀頼に嫁せた。
それゆえ淀殿も徳川家の人間による将軍職就任は一代限りと踏んだが、その二年後には秀忠に将軍の座は譲られ、徳川家の将軍位世襲が天下に示された。
その間に関白も元の五摂家に戻され、秀頼の関白就任にも翳りが出た。
とはいえその一方で秀頼は朝廷での官位が上がり、最終的には右大臣となるが、これは織田信長の最終官位であり、豊臣方の懐柔の役を担う一方でプライドを捨て切れない元ともなった。
余りにも甘過ぎる飴と、余りに痛過ぎる鞭…勿論すべては家康・秀忠が振るったものであった。
成人してからならともかく、幼少からの度重なる環境と身分の変遷にどれだけの人物が的確な対応が出来るだろうか?
「太閤後継ぎの生母」にして「織田信長の姪」のプライドに囚われたとき、淀殿でさえ判断を誤ったのである。
弁護四 ちゃんと政治家としての才はあったのだ。
甘やかされて育ち、勢力を殺がれたとはいえ六五万石は一大名としては立派な大大名である。
徳川親藩でさえ、
結城秀康(家康次男)・松平忠直(秀康の子)の越前北ノ庄………六七万石
松平忠吉(家康四男)・徳川義直(家康九男)の尾張名古屋………五七万石
武田信吉(家康五男)・徳川頼房(家康一一男)の常陸水戸………ニ八万石(光圀の代に三五万石)
松平忠輝(家康六男)の越後高田………四五万石
徳川頼宣(家康一〇男)の紀伊和歌山………五五万石
だが、に比べても遜色ない。
必然、六五万石の大身にはそれに伴う責任も大きなものとなった。
つまり家康は秀頼に失政があれば藩政不行届きで取り潰したり、更なる減封を強行することも出来たのである。
しかし後に方向寺鐘銘事件(「国家安康 君臣豊楽」の銘)や夏の陣への言い掛かりの為に伊勢か大和に移れとの命を出しているが、つまりはそんな言い掛かりで開戦にこじ付けなければならなかった程、秀頼の内政には隙がなかったとも言えるのである。
道場主が浪人生の時に読売新聞で見た記事に秀頼に関するものがあった。
うろ覚えで申し訳ないが、それは秀頼が摂津の領主としてある村と別の村の河川の水を巡る土地騒動を見事に裁いて治めたことを証明する資料が見つかったとのものだった。
勿論片桐且元・大野治長達が補佐した可能性も高いが、最終的には秀頼の責任において採決は下されたのである。
道場主の記憶に間違いがなければ、その裁定に双方が納得して引き下がったとのことである。
豊臣家滅亡後に、江戸幕府は豊国神社を破却し、燃え残った大坂城石垣の上に盛り土をして城郭を再建してまで豊臣家の威光を人々の眼前から消そうとした。つまり秀頼の偉業は悉く消された可能性もあり、先の記事は氷山の一角(←良くないことに使う表現ではあるのだが)である可能性が高い。
最後に付け加えるなら、秀頼には上記の賢政の証こそあれ、悪政・失政の話は一言も聞いたことがないことが挙げられる。 |
結論 家柄と才能に相関関係はありません。そして関白や征夷大将軍は勿論一大名や旗本にも身分に応じた責任があり、それは万民に対して負わなければならないものです。ただそれでも泰平の世であり、補佐するブレーン達が優れていれば政治とは何とかなるものです。徳川家綱・家重等が好例でしょう。
豊臣秀頼は「天下人秀吉の子」という色眼鏡で見られ、激動する天下動乱の渦中に翻弄され続け、優秀なるがゆえに家康から執拗な無理難題を突き付けられ、滅亡に追い込まれました。
豊臣家滅亡のほぼ一年後に家康が薨去したタイミングからも、もう少し秀頼が長生きしていれば、というのは歴史ファンの夢想を駆りたてる永遠の話題であり、またそれだけの魅力と将来性を秀頼は湛えていたと言って良いでしょう。 |