認めたくない英雄達

 歴史とは一般に勝者によって作られてきた。それによって真実が歪められた事も少なくない(根拠のないあからさまな嘘はさすがに少ないが)。必然、勝利を手にしたものは長所が誇張され、短所は軽微に伝わり勝ちとなる。
 勿論方法や過程はどうあれ、大きな事を為した者や、高い地位を獲得した者は歴史に名を残す権利がある。が、薩摩守としては人格的に好まざる人物までもが名声の前にその人間的欠陥を薄れさせているのが気に食わない!
 そこでこのページでは一般にその時代の偉人として代表に上げられる人物の名声に隠れて軽く扱われている彼らの欠点を告発したい!!



第壱頁 中大兄皇子・聖武天皇・源義家・後白河法皇
第弐頁 源頼朝 足利義満 織田信長
第参頁 伊藤博文



中大兄皇子【推古天皇三四(626)〜天智天皇一〇(671)年一二月三日】

結局大事なのは我が身なのね…。
前書き いわゆる「大化の改新」の英雄である。蘇我氏の手に奪われた政権を皇室に取り戻し、律令制への礎を築いた大和朝廷中興の英雄なわけだが、確かに豪族から皇室の手に政権を取り戻した功績は疑いがない。
 しかし、いざ彼が政権を握った後、その政権をめぐる動きには???と思ってしまうことが目白押しなのである。
略歴 田村皇子(舒明天皇)と宝皇女(皇極・斉明天皇)の間に生まれる(推古天皇三四(626)年)。
 中臣鎌足と面識を得て、蘇我氏打倒を誓う。蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)等と協力し、蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺し、蘇我氏打倒の兵を挙げる。父の蘇我蝦夷(そがのえみし)はこれに観念して自害、蘇我氏を滅ぼし、皇室の手に政権を取り戻す。いわゆる大化の改新を成し遂げる(大化元(645)年)。
 その直後に母の皇極天皇が孝徳天皇に譲位し、太子となる。その後古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)が謀反を企むとの情報から兵を送って古人大兄を殺す。

 白雉五(654)年に孝徳天皇が崩じ、母が再び即位(斉明天皇)。孝徳天皇存命中に既に皇太子となっていて、この頃には既に政権を掌握したと見られる。
 斉明天皇四(658)年、孝徳天皇の遺児・有間皇子(ありまのおうじ)に謀反の心ありとの報を受け、これを殺した。

 直後、朝鮮半島で同盟国の百済(くだら)が唐・新羅(しらぎ)連合軍に攻められるに及んで、出兵を準備するが、九州の地にて斉明天皇が崩じ(斉明天皇七(661)年)、即位をせぬまま執政する、所謂「称制」を行って、兵を朝鮮半島に送ったが惨敗(天智天皇二(663)年:白村江の戦い)、翌天智天皇三(664)年には唐・新羅に備えて防人(さきもり)を九州北部の各地に置いた。

 天智天皇七(668)年に即位(天智天皇)。大化の改新の功臣・藤原鎌足と弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)をブレーンに政治を進めた。
 天智天皇一〇(671)年、死に際し、大海人皇子に後事を託そうとするが、皇子はこれを拒み、奈良の吉野に出家する。没後は息子・大友皇子が即位するが、壬申の乱を経て、大海人皇子が弘文天皇を倒して即位する(天武天皇)。

告発その一 猜疑心強過ぎ…

 ざざっと、中大兄に殺された人達を列挙すると、蘇我入鹿(斬殺)、蘇我蝦夷(正確には自害)、古人大兄皇子(誅殺)、有間皇子(誅殺)、蘇我石川麻呂(誅殺、正確には自害)…。当事者が五人だが、当然、配下や妻子が巻き添えを食った可能性は高い。
 しかも、食うか食われるかの間となった蘇我父子はやむを得ないにしても、二人の皇子は訴えがあっただけで、ロクな釈明もなく死を強制している。
 特に有間皇子の場合、父である孝徳天皇の不遇に蘇我赤兄(そがのあかえ)が謀反を教唆し、それが中大兄の手先なのだから、罪をわざわざ犯させて逮捕したに等しい。つまりは謀ったのである。
 そして蘇我石川麻呂は入鹿暗殺の協力者、仲間でありながら「謀反の嫌疑有り」として逮捕を命じた。何を言っても無駄だと思ったのか、石川麻呂は仏前に無実を告げて自害した。

 以上の人々で頭から中大兄に敵意・害意・逆意を持っていたと思われるのは蘇我父子を除けば他の面々は疑わしい。
 当時蘇我氏が大きな力を持っていただけでなく、皇室内部でも近親婚が珍しくなく、その対人関係血縁関係は複雑で、皇位継承権の序列も現代の我々にはわかりにくいものがある。勿論豪族や外戚は己が権力を握る為、少しでも自分と縁の深いものを皇位につけようと画策する。いわば兄弟や従兄弟でも心許せず、ライバル視してしまうのは良くわかる。
 これらの誅殺を中大兄一人のせいにするのは少々可哀想かもしれない。前述した様に、中大兄以外の皇位継承者を邪魔と見る者―藤原鎌足の暗躍するところ大なのであるから。とはいうものの、最終的な決断を下すのは中大兄である。彼に猜疑心がなければ前述の五人の内一人か二人は助かったのではないだろうか?それに伴って血を流さずに済んだ人達も増えた筈である。

 そして彼は今際の際にもその猜疑心を覗かせている。
 彼の最後の猜疑の対象は弟の大海人皇子である。息子である大友皇子の皇位継承を確かなものにするためには大海人は邪魔な存在だった。
 この兄弟不和を止めたのは意外にも鎌足である。己が権力の為とはいえ、鎌足の中大兄に対する忠義は本物である。こじ付けで実の弟を誅殺すれば中大兄の大きな不名誉となることを理解していたのか、鎌足は兄弟の和を取り持った。

 しかしその鎌足の死後、中大兄の猜疑を止めるものはなく、死期の迫った中大兄は最後の猜疑心を見せた。
 枕元に大海人を呼んだ中大兄は大海人に皇位を継いでくれるよう要請したのである。
 勿論真意ではない。
 大海人が承諾すれば伏せていた兵に彼を殺させるつもりでいたのである。兄の意図を悟ってか、大海人は大友皇子の皇位継承を勧め、自身は病弱を理由に中大兄の存命中に出家して吉野に移った。
 後々の歴史を見れば保身の面からも政争勝利の面からも、大海人の選択は正しかったのは周知の通りである。自らの猜疑心が自らの身ではなく、子孫を絶やすことになったと知ったら中大兄は何を思ったであろうか?
(注:天智天皇には暗殺説もあります)


その二 この兄にして…

 蘇我氏を滅ぼし、太子でありながら実権力を掌握し、政敵は次々と倒した中大兄の性格は勝気である。そしてその性格は妹や弟にも同じ血として親から受け継がれていた様である。ここで挙げたいのは中大兄の妹と弟、そして娘である。
 まず妹は間人皇女(はしひとのひめみこ)で、孝徳天皇の妃だったのだが、薩摩守の見る限り全然夫に尽くしていない
 中大兄に実権を握られ、不遇な帝・孝徳天皇が中大兄と難波から遷都するかでもめ、断固遷都に反対したところ、「勝手になさいませ。」と言って、中大兄は孝徳天皇を難波に置き去りにして遷都を強行した。
 このとき、間人皇女は「一緒に残ってくれるか?」という帝に対して、あっさりと中大兄に追随して難波を去った。政治的弱者であった孝徳天皇に対して愛情を抱いていなかったのか、権力第一の兄に逆らえなかったのかは不明だが、政治的に間人皇女に夫の元を去らねばならない必然性はうかがえない。勝気な中大兄のに似た彼女が弱者となった夫・孝徳天皇を見限ったと考えるのは穿った物の見方だろうか?

 弟は言うまでもなく大海人皇子こと天武天皇(実は兄弟ではなく、中大兄より年上であるとの見解もある)である。先に彼が身の危険を察知し、一時、僧として身を隠し、最後には皇位を手に入れたことは触れた。
 こう書くと用心深く、機を見るに敏な性格の様に見えるが、彼は大友皇子への愛から、片腕でもあった弟である自分をないがしろにするようになった兄に対して、演舞にかこつけて槍を突きつけてまでいるのだ。
 さすがにこの暴挙に中大兄は彼を斬ろうとしたが、このときは藤原鎌足の仲裁で事無きを得た。このエピソードからも大海人がお世辞にも大人しい性格とは言えないことがうかがえる。大海人皇子に関しては有名過ぎる人物なので紹介はこんなもんにしておこう。

 最後は娘である。その娘・鵜野讃良(うののさらら)は中大兄の娘にして、大海人皇子の妃(つまり叔父に嫁いだ)で、草壁皇子の母であり、軽皇子(かるのおうじ、後の文武天皇)の祖母として史上三人目の女帝となった持統天皇である。彼女の勝気な性格は叔母の間人皇女と好対照である。間人が夫を見限ったのに対し、彼女は吉野に隠遁した大海人に追随した(良妻だな)。

 そして壬申の乱後、多数の妃の中でも大きな力を持つ。夫に尽くした貢献度によるものだろうか?それ自体は不遇の夫に尽くした彼女の貢献度からも納得のいくものであるが、それをかさに来て母の愛情だけで後継問題をごり押ししたのはいただけない。

 大海人は自分の後継に人望のある大津皇子を考えるが、鵜野讃良の懇願で彼女の産んだ草壁皇子を後継とする(大津皇子は後に謀反の嫌疑をかけられ処刑される)。陰謀を祟られたのか草壁皇子は皇位継承を前に急死する(←祟るなら鵜野讃良に祟るのが筋だろう?)。彼女の悲しみはさぞ大きかったろうが、いつまでも落ち込んでいるか弱い女性ではない。
 草壁の子である軽皇子を皇位継承者とし、彼が成人するまでは自らが女帝として君臨し、皇子が成長すると譲位し、上皇となった。
 薩摩守の研究不足で持統天皇の人格にはまだまだ断言できる事柄は少ないのだが、自分の考えをどこまでも通す信念は認めないわけにはいかず、その行動力は父である中大兄の姿を彷彿とさせる。
 ただここで薩摩守が述べたいのは、我の強い血筋が権力や皇位に執着した争いを続ければそこには少なからず流血が伴う。
 多くの血を流さない為には蘇我氏を滅ぼした段階で中大兄の血筋が一線から身を退くのが望ましかった気がするが、その謙虚さを権力の絶頂・功労の筆頭に求めるのは確かに無理がある。無実の罪に泣いた者達の霊に憐れみを覚えるのみである。


その三 人民はイイ面の皮

 言うまでもなく、戦争には犠牲が伴う。中大兄の活躍中にあったのは大化の改新を初めとする権力闘争だけではない。人民の辛酸から見た時に見逃せないのが、白村江の戦いである。
 この戦い自体は暴政とは言えない。同盟国・百済の危機のため戦うのは外交上ごく自然な行動だし、しかも当時日本には百済の王子・扶余豊璋(ふよほうしょう)が亡命していた。大義名分は充分である。
 が、問題は戦後である。周知の通り、遠征は大惨敗に終わった。百済は滅亡を免れず、日本は百済を滅ぼした唐・新羅による報復の脅威にさらされたのである。
 当時、アジアの、否、世界の一等国と言っていい唐を敵に回したことはとんでもない脅威である。当然善後策としてかなり力を入れた国防に務めなければならなくなった。
 太宰府や水城(みずき)はこの時築かれたのだが、問題は防人(さきもり)である。
 北九州沿岸警備のために駆り出された彼等の悲劇は有名である。遠く故郷を離れ、旅費も自前で過酷な任務の後に帰れなくなった者や野垂れ死にした者も少なくはない。
 そこで疑問が湧くのが、何故に近くの九州の人達でなく、遠く東国の人達を徴用したかである。
 それは当時の朝廷が九州の人達を「隼人」という異民族と見做し、心を許していなかったからである。
 その事情を踏まえた上で薩摩守が言いたいのは、自国の内部も固まっていないのに他国のいざこざに首を突っ込んでじゃねぇ!!と言うことである。
 戦争で死んだ兵士は勿論、その後の善後策のために人生を狂わさせられた民衆のことを考えるとどうも中大兄は名君とは言い難いのである。
 結局その後の唐は新羅を征服するには至らなかった。新羅の存在が防波堤となり、遣唐使達の活躍もあって、日本が唐に侵攻される事はなかったわけだが、無茶な兵力増強より、唐との和睦の方が先ではなかったのではなかろうか?

 その他にも遷都や斉明天皇(実際には中大兄)の命による度重なる工事等を考えると中大兄は人民にとっていい天皇だったのだろうか?
 同じ大工事を命じた人物でも三年間の免税を行った仁徳天皇を見習って欲しかったものである。
弁護 流れた血の数や人民の負担からかなり中大兄皇子を酷評した。勿論これは彼のために泣いたであろう人達の観点から語ったものである。
 全てを彼の責任にするのはさすがに不当だと思うし、中大兄ならずとも当時の状況で権力の座に就いた者は多かれ少なかれ、その手を血に染める必要があったのではないだろうか?(まあ泥は藤原鎌足がかなり被ってくれているのだが)
 ある意味責任は皇室がそこまで乱れる元となった蘇我氏の専横、つまりはそれほどの乱れを許した先達者達にもあるとも言える。
 何分薩摩守の飛鳥時代に対する知識や研究は戦国時代のそれに比べて質量ともに大幅に不足がある。論述すること自体おこがましいと言えなくもない。
 元々本作は個人に対して批判的な立場で書いている。
 中大兄皇子の名誉の為に、薩摩守の研究不足と、行動の始まりが臣下に奪われそうになった政権を皇室に取り戻し、その地盤を磐石にせんとした行為が根底にあることを述べてこの人物評を締めくくりたい。



聖武天皇【大宝元(701)年〜天平勝宝元(756)年五月二日】

敬虔な仏教徒なのだが…。
前書き 聖武天皇=東大寺建立とセットで語られるぐらい、奈良時代、引いては天平文化を代表する天皇(て言うか奈良時代短過ぎ…)である。
 光明皇后共々仏教に帰依する気持ちは篤く、御仏の慈悲に根差した政治を行った好感の持てる人物である。
しかし時代が悪かったとはいえ、藤原一族に上手く操られた面があったとはいえ、この人物の在世には人々の不安が絶えず、それは後々の時代にも尾を引いた。

 薩摩守自身としては決して嫌いな人物ではない(むしろ好きである)のだが、名声にばかり眼を向け、その人物の欠点を見ないのは却ってその人物を正当な眼で見ていないと言う意味において礼を失している気がしてならない。
更に如何に好人物と言えどもその為した犠牲に目を瞑るのは良くない。功は功、罪は罪、としてこのページの主旨にのっとって聖武天皇の名君ならざる、認めたくない一面を列挙したい。
略歴 聖武天皇は幼名・首皇子(おびとのおうじ)、父は文武天皇、母は藤原不比等(鎌足の子)の娘・宮子である。当時は夫が何人もいる妻の家を訪れる夫婦関係なので、子供は妻の家で育てられる。
 勿論首皇子は不比等の屋敷で育てられ、妃に不比等の娘・光明子(宮子とは異腹)を迎え、藤原氏は外戚として大きな力を持つ。

 養老八(724)年(この年「神亀」と改元)、伯母の元正天皇より譲位を受けて即位した聖武天皇は仏教の慈悲を盛り込んだ政治を行い。殊に貧民を助けんとして、光明皇后の懇願で設立された施薬院(薬の無料配布所)・悲田院(いわゆるお救い小屋)は日本史上を通じて最も慈悲深い施政の一つである。

 しかし世の中は聖武天皇の努力も空しく、飢饉や風水害や貴族の権力争いが絶えない。その最たるものが神亀六(729)年(この年「天平」と改元)の長屋王(天武天皇の孫。高市皇子の子)の変と天平九(737)年の天然痘の流行、天平一二(740)年の藤原広嗣(ひろつぐ、不比等の三男宇合(うまかい)の子)の乱であった。

 戦乱を避け、政治に倦み疲れ、恭仁京(くにきょう)・紫香楽京(しがらききょう)と遷都を続けた聖武天皇は国家鎮守を仏法に縋らんとし、全国に国分寺・国分尼寺を造らせるが、その進行ははかばかしくなく、ついに彼は信仰の中心となる大仏の建立を決意する。

 当初紫香楽京に造られようとした大仏だったが、相次ぐ不審火の前に大仏建立は中断され、五年ぶりに平城京に還都し、そこで改めて建立されることとなった。
 光明皇后・阿倍内親王と共に自ら袖に土を盛って運んだ聖武天皇は人心を惑わす者として弾圧していた行基(ぎょうき)と、仏像作りの名人にして渡来人の国中君麻呂(くになかのきみまろ)に大仏建立を命じた。

 その後、聖武天皇の阿倍内親王へ譲位(天平二一(749)年(この年、「天平感宝」・「天平勝宝」と二度改元)。ちなみに女性で皇太子になったのはこの阿倍内親王が最初で最後、男で上皇となったのはこの聖武上皇が最初だったりする。
 行基の死(同年)を経て、三年後の天平勝宝四(752)年に大仏は完成し、開眼供養が行われた。
 その後、聖武上皇は鑑真を平城京に招くなど、仏教に帰依した心の政治を行い、天平勝宝八(756)年に崩じた。遺品が納められているのが有名な正倉院である。
告発その一 愛は盲目…

 基本的に心優しい男である。災害・疫病・戦乱で命を落とした人々に心からの哀悼の意を持っていたと思われるし、藤原氏の専横を許したのも身内を大切する心からきたと取れなくもない。
 しかし!過ぎたるは猶及ばざるが如しである!!その愛情ゆえにこの天皇はとんでもないことを二つもやっている。

 一つは長屋王の処罰である。
 光明子との間に生まれた子・基皇子(もといのみこ)を一歳足らずで失った聖武天皇夫妻は悲嘆に暮れた。同時に藤原氏の血を引く皇子を失った藤原四兄弟(武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合麻呂(まろ))は他の后に皇子が生まれたことから力を落とし、勢力挽回のために光明子を皇后の地位につけようとした。
 皇后は女帝になることも可能であるからだ。しかし皇位にも就きかねない皇后に臣下出身の妃はなれない。当然そんな掟破りには反対者が出るのは目に見えている。その急先鋒は普段から藤原氏の専横を苦々しく思っていた長屋王である。
 そこで藤原四兄弟は二人の証人をでっち上げて長屋王基皇子を呪詛したと讒言させた(怨霊信仰が幅をきかせた古代日本、高貴な人への調伏・呪詛は立派な犯罪なのだ)。皇子の死の悲しみに正気を失っていた聖武天皇は讒言者の言葉を間に受け、(当たり前だが)身に覚えがないと否定する長屋王及びその一族に死を命じた。邪魔者を除いた藤原四兄弟は終に光明子を皇后の地位に就けることに成功した。

 これではっきりしただろう。我が子の死を悲しむのは当然としても、その感情に溺れて全くのでっち上げを真に受けて無実の長屋王を殺した聖武天皇は名君と言えるだろうか?
 しかもその後従来の慣習を破って光明子を皇后にしている。これも愛情から来た行為だろうし、慣習を破ることが必ずしも悪いとは言い切れないが、もしそれがために万世一系が崩壊していたとしら聖武天皇は先祖である歴代天皇に対してどう詫びるつもりだったのだろうか?
 長所は短所と言うが、彼の愛情はまさにその言葉が当てはまる。

その二 気紛れ過ぎ…

 優しい心を持ちながら朝廷の内外に様々な災難が打ち続き、心休まる間も持てなかった聖武天皇の境遇には同情する。努力する人でもある。しかし結構気分屋なのである。
 戦乱や疫病を避けて行幸したのは良いが、平城京に戻るのを嫌がって恭仁京を建て、その後紫香楽京に遷都する、……一体工事や費用を含め国民にどれだけの負担がかかったことだろうか?その一の「愛は盲目…」も感情の暴走によるものと言えるだろう。

その三 国家財政が…
 国内の安定を願って行った大仏建立が結果として重税となって国民に大きな負担を為したことは有名である。
 が、聖武天皇の施政による住民への重税としての負担は恭仁京・紫香楽京・平城京への三回の遷都による民衆への負担も見逃せないだろう。
 行動力のある為政者はその行動力ゆえに多額の費用を費やすのは世の常であるが、聖武天皇には民衆に対する慈愛の心が確かにうかがえながら、自らの行動によって国民に与えた不安を気遣っていた様子はうかがえない。
弁護 ぼろくそ書いてしまったが、薩摩守は聖武天皇自身は仏教に帰依する気持ちも篤く(後世「皇帝菩薩」と称されたぐらいである)、常に自己を振りかえり、弱者への労わりの気持ちを持つ人物であったことに微塵の疑いも抱いてはいない(時折防人を停止して民の負担を軽減させたりもしていた)。
 世が定まらなかったことも、(当時は為政者に徳がないため起こったとされる)天災は現代でもどうしようもないし、感情による暴走も彼の背後にあった藤原氏の罪と見る方が正しいと思う。

 無実の罪で死を命じた長屋王の一件もその後はロクな取調べもせずに藤原氏の言うがままに殺したことを悔いていたと伝えられている。
 どう悪く見ても決して無慈悲な人間ではない。これだけは断言できる(ちなみに藤原氏の手先となって長屋王を讒訴した漆部造君足(ぬりべのみやつこきみたり)はすぐに病死し、中臣宮処連東人(なかとみのみやこのむらじあずまひと)は十年後に長屋王の旧臣に殺された)。

 最後に、国民に大きな負担をかけた大仏建立だったが、一つだけその後の日本経済に良い効果を生んでいる。
 それは大仏に塗る為の黄金のことで、それまで日本にはないと思われていた。
 しかし陸奥の国から発見され、それが後の日本各地で金山開発が進む魁となったのである(今では信じられないが、江戸初期まで佐渡金山を始めとして日本は世界屈指の産金国となっていた)。大仏建立に端を発していることを考えれば聖武天皇の事業もあながち無駄ではなかったということだろう。

源義家【長暦三(1039)年〜嘉承元(1106)年七月四日】

みちのく混迷の元凶
前書き 清和源氏の名を武家の名門として高めた武将である。父・頼義(よりよし)と共に前九年の役を、弟の新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)と共に後三年の役で奥州を制し、武士として初の昇殿(院に上がること)を許され、武士の社会的地位を上げる先駆けとなった彼は通称である「八幡太郎(はちまんたろう)」の名で源氏の氏神・軍神とも崇められている。

 確かに武将としての彼の活躍には目を見張るものがあり、歴代源氏棟梁の中でも第一人者と言っていいが、彼に続く、彼の嫡男義親(よしちか)を始め、孫の義朝(よしとも)・為朝(ためとも)、曾孫の義平(よしひら)等、一歩間違えれば暴れん坊と大差ない連中も多く、父親としての彼には疑問符が付くし、奥州討伐にしても、朝廷から勝手に「蝦夷(えみし:当時の北方異民族を広く指す言葉)」とされた側にすれば「討伐」は立派な「侵略」である。
 武功に隠れた彼の認め難い面を追及する。
略歴 長暦三(1039)年に清和天皇の玄孫・源頼義を父に平直方の娘を母に誕生した源義家は石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と号す。

 永承六(1051)年に起きた前九年の役に父に従って参戦。安倍頼時(あべよりとき)・貞任(さだとう)父子と戦う。天喜五(1057)年一一月に黄海の戦で大敗し、父の頼義以下、主従七騎が敵二〇〇騎に包囲された際は、抜群の騎射によって、危地を脱したという。
 天喜六(1058)年に厨川(くりやがわ)の柵に安倍貞任を討って乱を平定し、その功により従五位下出羽守となった。

 その後も東北に美濃にと転戦し、永保三(1083)年に後三年の役を迎えた。つまり陸奥守就任と同時に先の前九年の役で俘囚(ふしゅう、蝦夷と同様、北方異民族に対する蔑称)でありながら源氏に味方した清原氏の内紛に介入した。
 清原家の長男・真衡(さねひら)と次男の清衡(きよひら)・三男の家衡(いえひら)との領地争いを鎮め、真衝が急病死したため、清原家の領土を清衡と家衡に分け与えた。
 が、その分配を不服とした家衡が清衡を襲撃し、彼の妻子を殺したことから清衡に味方して軍を発し、弟の親羅三郎義光とともに家衡を討った(この後清衡は姓を彼の実父=藤原経清の姓に戻し、奥州藤原氏の祖となる)。

 その後、奥州での戦を私闘と見なされて恩賞が出なかった(あながち間違いじゃないような…)ことや摂関家と仲違いした事から朝廷とは不仲となるが、義家は身銭を切って部下に恩賞を与えたことでその支持を盤石なものとした。
 承徳二(1098)年に白川法皇から武士として初めて昇殿を許され、源氏の名を一躍確かなものとした。しかし康和三(1101)年には次男・義親(頼朝の曾祖父)の暴動、嘉承元(1106)年には弟義光と三男義国(よしくに)の争いが起こるなどの一族の不祥事が相次ぐ中、同年没っした。
告発その一 「追討」?いえいえ「侵略」です

 源義家に限らず、大和朝廷の東北進出自体が侵略である。
 現在日本国に住む国民は北は北海道から南は沖縄まで「日本人」と一括りにされているが、歴史を紐解けば北からウィルタニヴフアイヌ俘囚蝦夷東人(あずまひと)、和人隼人(はやと)、琉球人(りゅうきゅうじん)、と誠に雑多で、少なくとも「日本人」が単一民族というのは大嘘である。
 そして和人以外の民族が日本人になっているのは侵略され、服従させられた歴史に始まる。

 だからといって現在の日本国政府にどうこうしろ、と薩摩守は言わないが、侵略された側の歴史を見過ごしてはいけないと思う。
 そして源頼義・義家の二代に渡る東北での戦歴は俘囚とされた安倍氏・清原氏が最終的に滅ぼされ、源氏や奥州藤原氏の傘下に入りったことを考えれば結果として二つの戦役は源氏による東北蹂躙である。

 勿論この一連の歴史の流れで義家一人を槍玉に挙げるのは不当である。当時の大和朝廷の臣民は「侵略」とは露ほども思っていなかっただろう。
 だが、問題は方法にある。坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は蝦夷の勇将・阿弖流為(あてるい)と和睦の場を持ったし(心ならずも反故にしたが…)、蝦夷側も自らの大和朝廷に対して攻めかかることはなかったが、源氏はひどかった!

 女子供(非戦闘員)を手にかけるわ、家や田畑を焼くわ、と暴徒と変わりなかった。
 戦場での兵士の悪鬼ぶりは戦国時代や対外戦争では珍しくないが、もしこの時代の源氏に端を発していることを考えれば彼等の責任は重く、その戦場での暴虐は俘囚達を異民族と見做していたから出来たことで、彼等のやっていたことが「反乱鎮圧」ではなく侵略であることが言える。しかも彼等は大和朝廷の家来ではないのだから、「鎮圧」される筋合いなどないとさえ言える。

 更に政治的視点からも後三年の役は源氏と清原氏の私闘とされたのだから大義名分さえない(白河法皇が源氏の勢力拡大を快く思わなかったために私闘扱いにしたせいもあるが)。中央政府の立場から描かれた戦史だから「前九年の役・後三年の役」などと言われているが、政治的にも道義的にも大義ある戦いではなかったことは伝えられなくてはならないと思う。


 その二 言い掛かりだぁっ!!

 二つの戦役が侵略であることの最大の論拠は俘囚達が望まなかった戦いを源氏側が無理矢理起こしたことに尽きる。
 元々安倍氏は大和朝廷の支配の受入を拒否しただけで、自分達から大和朝廷に仇為そうとする気は更々なかった。それが証拠に朝廷から鎮守府将軍として源頼義が討伐に来るや安倍頼良は恭順の意を示し、朝廷も大赦の折に彼の罪(何の罪だ?)を許した。
 頼良は大赦を謝し、源頼義に対して「同じ(読みの)名前は恐れ多い。」として名前を「頼時」と改めまでした。ところが源氏軍が引き上げる前日の深夜に安久刀河で人馬殺傷事件が起き、源頼義は頼時の長男・貞任が犯人として頼時に貞任の引渡しを求めた。

 頼時は息子が和睦を壊すような暴挙をする愚者だとは毛頭思わず、貞任もまた容疑を否認した。学者ではない薩摩守には断言するには研究不足な面もあるが、大赦を受け、奥六郡の領土まで安堵され、討伐軍としてやってきた源氏が退き上げようとしている最中にそれを御破算にするメリットが安倍氏側にあるとは到底思えない。
 ここはやはり多くの史家が言及するように奥六郡に勢力を求める源氏が安倍氏を攻める言い分とする為の自作自演と考えられる。

 その根拠の一つとして挙げられるのが、藤原経清(ふじわらのつねきよ)の安倍父子への助勢である。
 経清は俘囚ではないものの頼時の娘婿である。現代人の感覚では舅に味方することに何の疑問もないところだが、男尊女卑の当時、妻の実家よりは自らの氏の方を重んじる方が通例であり、そういう観点から見ると、義父とはいえ、「反乱者」と見做され、「蛮族」と見做された人物に味方するのは大変な決断であり、勿論頼時・貞任親子は歓喜した。
 経清が愛妻家だったのでは?と考えられなくもないが、「安倍氏がひどい無実の罪に苦しめられていたから見るに見かねて味方したのではないか?」と薩摩守は見ている。
 経清が貞任と運命をともにしたのに対し、同じ俘囚でも安倍氏と争った部族も存在し、頼時はその俘囚同士の戦いの中で受けた傷が元で病死した。そして前九年の役の源氏勝利に大きく貢献した清原武則も俘囚である。

 蛇足とは思うが、言い掛かりで前九年の役を起こした疑いが濃厚な源氏のやり方を見ると、後三年の役で清原真衡(清原武則の子・武貞の長男)の急死は「暗殺か?」と疑ってしまうし、家衡(武貞と頼時娘の間の子で武貞三男)が義家の調停を不服として反乱を起こして滅ぼされた後、義家・清衡(藤原経清と安倍頼時娘の子、経清刑死後に頼時娘が武貞と再婚したため清原家の次男となる)が藤原姓を戻したことも「俘囚から領土を奪おうとした源氏の謀略」との影を見てしまう。
 また、直接関係ないが奥州の覇者である藤原氏を滅ぼしたのも源氏である(勿論頼朝の事)。


その三 軍事は満点、教育は赤点

 源義家が武将として、源氏の軍神に相応しい名将であった事に疑いの余地はない。前九年の役では安倍貞任の前に父頼良と共にたったの七騎にまで追い詰められる大敗をしたこともあったが、逆にそれだけの大劣勢を跳ね返したのは見事である。また後三年の役では有名な「雁の列の乱れを見て伏兵を知る」は孫子の兵法に則った采配である。

 そして彼のリーダーシップには目を見張るものがあった。「剛臆の座」(ごうおくのざ)がそれである。
 これは戦のあった日に勇敢に戦ったものは「剛の座」に座らせて将兵の尊敬の対象とし、逆に卑怯な振る舞いや臆病な行動を取ったものは「臆の座」に座らせて軽蔑の対象とした。
 これにより将兵は「剛の座」で尊敬されよう、「臆の座」で恥をかくまい、と奮起し、清原家衡を討ち取った。

 ところがこれほど家臣の統率に優れていた男が、我が子の教育はなっていなかった様である。

 義家が超一流の武将として、昇殿を許された武将として東国を中心に多くの武士の尊敬を集めるに及んで彼の子供達は傲慢になっていった。
 前述した様に次男の義親(よしちか)が出雲で暴動を起こし(後に平正盛に討たれる)、その五年後には弟の義光と三男の義国の争いが起こり、源氏の名を貶め、ライバルである平家が台頭することになった。
 晩年義家は貴族達の数々の陰謀に遭うが、その原因は彼の出世が妬まれた事にあるとはいえ、陰謀を容易なものとしたことは息子達の不祥事と無関係ではない。学校の生活指導の先生の息子に札付きの不良学生がいるようなものともいえる。

 息子には恵まれなかったが、弟には恵まれた。新羅三郎義光は後三年の役が勃発したとき、朝廷から援軍許可が出なかったために官職を辞してまで兄を助けている
 この点からも義家が目上として目下に嫌われる存在だった訳ではないといえるので、尚更その教育指導には疑問が残るのである。そしてその教育の甘さは義親、為朝、義平と続き、頼朝兄弟の不和(義経だけではない)は源氏を滅亡へと導くのである。
弁護 侵略者・教育者として源義家の名将にあるまじき点を告発した。しかし彼が軍を率いる者として、また武士の社会地位を高めたものとしての功績は見逃せない。

 そもそも平安時代は「平安」とは名ばかりで、政争や反乱の絶えない時代だった。真言宗や天台宗といった仏教の新流派ができたのもそれと無縁ではない(世の乱れの不安の中に人は心の安らぎを宗教に求めるのは今も昔も変わらない)。
 そんな時代だからこそ武士の活躍が求められた。しかし世の乱れを招くような連中(主に藤原氏)が自分達の非に気付く訳もなく、自分達の悪政が世の乱れを招いて、その乱れの制圧に武士を求めながら彼等を見下すのだから貴族の世がガタガタになったのは当然だった。

 そんな渦中に源氏の棟梁として武士を率い、都合のいいときだけ利用された義家の苦労は察するに余りある。だから彼は部下の指導に細心したのだろう。
 前述したが、後三年の役後、朝廷は清原家衡の追討を源氏と清原氏の私闘として、恩賞を出さなかった。その時義家は身銭を切ってまで自分の為に命懸けで戦った将兵に報いたのである。
 彼の人心掌握術が優れていたともいえるし、武士の不遇から人の上に立つ者に必要な心構えを持っていたともいえるし、その両方ともいえる。
 いずれにせよ彼が伊達に源氏の軍神とされている訳ではないことがよく分るというものである。

後白河法皇【大治二(1127)年九月一一日〜建久三(1192)年三月一三日】

煽りのために何人死んだことか…。
前書き 平安末期の貴族から武士の世への過渡期に生まれ、院政と親政が対立する世に時に親政、時に院政の立場で源氏と平家を裏から糸引き、自らの権威・権力を高めんとした男―それが後白河法皇である。

 平家物語では源氏と平家を、頼朝と義仲を、頼朝と義経を巧みに争わせて武士の力を弱めて、王権を強化しようとする策士としての実像と余り変わらない(笑)後白河法皇が描かれている。
 確かに皇室の立場に立てば権威を利用されるだけになってしまった、武士の傀儡となりつつある朝廷に必死に昔日の勢力を取り戻そうとした人物であり、それがために策士となることに何の非もない。むしろ奪われようとした権力を守ろうとしたものとして彼は功労者ですらある。彼が生きている内は鎌倉幕府も成立しなかったのだから

 しかし目的の為手段を選ばずとは言え、大義名分を司る立場の者として、彼は「誰に味方するか?」と言う問題に対して余りにも節操が無さ過ぎた
 そして権力の為、大義あるものがコロコロ変わったと言うことはその変化の数だけ政争があり、同じ数だけの戦があり、その度に多くの血が流れた訳である。

 一人の人間として、権力への執着を捨て、世の中の平安を第一に考えて特定の存在に一貫して味方し、大義を与えていれば下々の者も迷うことはなく、無駄な血が流れずに済んだような気がしてならない。
略歴 大治二(1127)年九月一一日に鳥羽天皇の第四皇子として生まれる。幼名は雅仁(まさひと)。
 彼の前には兄が崇徳天皇、弟が近衛天皇として即位した。兄はともかく、弟に皇位を先んじられたのは、雅仁の母より、近衛天皇の母の方が身分が高かったためで、本来なら雅仁は院政以前に皇位とも無縁の筈だった。
 しかし、院政の時代と武士の台頭の世に生まれたことから彼は次第に政争を余儀なくされた。

 父の鳥羽上皇は院政の創始者にして祖父である白河法皇のために長年実権を握れなかったばかりか息子(実は白河法皇が鳥羽天皇の中宮に手を付けて生ませた隠し子、との噂があり、鳥羽自身は「叔父御」と呼んでいた)・崇徳天皇への譲位を強いられたという過去があった。
 その反動からか、白河法皇が崩ずるや崇徳天皇を強引に退位させ、僅か二歳の第九皇子を即位させた(近衛天皇である)。
 父に疎まれた崇徳上皇はそれでも次の天皇は自分の息子・重仁親王だと信じて疑わなかったが、久寿二(1155)年に近衛天皇が崩ずると鳥羽法皇は第四皇子である雅仁を即位させた。これが後白河天皇の誕生である。

 保元元(1156)年に鳥羽法皇が崩じ、後白河天皇は長年父に疎まれて政権から遠ざけられた身を帰り咲かそうとする兄・崇徳上皇と戦うことになり、戦は摂関家や源氏・平家も敵味方に分けて巻き込んだ。
 天皇方には藤原頼忠、源義朝(頼朝父)、平清盛が味方し、上皇方には藤原頼長、源為義(義朝父)・為朝(為義八男)、平忠正(清盛叔父)が味方した。保元の乱である。

 戦は周知の通り天皇方が勝利し、崇徳上皇は讃岐に、為朝は伊豆大島に流罪。藤原頼長は戦死。為義と忠正をそれぞれ身内(義朝と清盛)に斬らせたのだから、直に命じた信西ほどではないにしてもそれを承認した後白河天皇の酷薄さは気合いが入っている。

 かくして政治に親政を取り戻した後白河天皇だったが、在位すること僅か三年で子の二条天皇に譲位するや自分も院政を開始した。
 そして保元の乱以来の後白河上皇と平清盛の接近を面白く思わない源義朝は藤原信頼と組んで挙兵、忽ち彼は二条天皇ともども捕われて軟禁される。平治の乱の勃発である。
 しかし熊野参詣から取って返した清盛は一計を案じ、義朝方の武将二人を寝返らせ、後白河上皇は天皇と共に女装して源氏陣営を抜けることに成功。
 程なく平治の乱最後にして最大の会戦が行われるが、これは上皇・天皇を味方につけて錦の御旗を得ていた平家が勝利し、義朝は逃走中に尾張で殺され、長男義平は単身京に戻って清盛暗殺を謀るが捕えられて斬首、三男頼朝は美濃で捕えられて蛭ヶ子島に流罪、元服前の範頼・義経は寺に入れられた。

 源平の対立が一段落するとしばらくは清盛との二人三脚でしばしの平和がもたらされるが、後白河法皇(←嘉応元(1169)年に出家)は後白河法皇で次第に奢る平家を疎ましく、平家は平家で後白河法皇が目の上の瘤になった。
 そして治承元(1177)年に平家打倒の陰謀が摘発された鹿ケ谷事件が起きると謀議に加わった西光法師は斬られ、藤原成親は備前へ流罪(後処刑)、俊寛僧都は鬼界が島(最悪の流刑地)へ流された。
 法皇は「無関係」とされつつもその権限は平家の睨まれるところとなり、尚も盛子(清盛の娘)の荘園や重盛(清盛嫡男)の越前国を彼等の死後に没収したことから治承三(1179)年に清盛は業を煮やしてついに後白河法皇は鳥羽殿に幽閉され、院政は中断した。

 一時敗北した後白河法皇だが、奢れる平家は人心を失っており、第二皇子以仁王(もちひとおう)が治承四(1180)年に平家追討の令旨を全国の源氏に発し、源平の戦いが再燃するや彼の暗躍が復活した。
 源義仲(木曾義仲)が上洛して平家を追い出すと、後白河法皇は義仲を征夷大将軍に任じたが、心では貴族達ととも義仲を見下し、地方出身で都の儀礼に不慣れな義仲が都人の人気を失うと今度は源頼朝に義仲追討を、源範頼・義経兄弟が義仲を討ち取ると治承五(1181)年閏二月四日に棟梁の清盛を失って落ち目となっている平家の追討を命じた(←命じてばっかりやな)。
 そして元暦二(1185)年四月二五日、壇ノ浦の戦いで義経が平家を滅ぼすと彼を検非違使(けびいし。簡単に言えば警察長官)に任じた。これが兄頼朝との不和を生むや頼朝追討の院宣を出した。
 しかしこの兄弟喧嘩を裏で糸引く陰謀をうまくいかず、逆に頼朝追討の院宣を出した弱みから上洛した北条時政の強要により全国に守護・地頭を置くことを認めざるを得なくなり、これが後々の武家支配の元になった。

 義経が奥州平泉の藤原秀衡(ひでひら)の元にいることが判明すると頼朝から義経を引き渡すように院宣を出すことを求められ、秀衡が没すると泰衡(やすひら)に同じ院宣を出し、義経が泰衡に討たれると頼朝は藤原泰衡追討の院宣を求めたが後白河法皇は出し渋る(何とかしてくれ、この二人…)。
 しかし頼朝は院宣を待たずに兵を起こし、奥州藤原氏を滅ぼした(文治五(1188)年)。

 この後上洛した頼朝を後白河法皇は右近衛大将に任じた。頼朝は征夷大将軍の位を求めるが法皇は聞かず、頼朝も(当て付けに)僅か一ヶ月で辞職して鎌倉に帰った(←子供か)。
 だが源平の争いを裏で糸引き、武士の台頭を押さえてきた後白河法皇も寿命には勝てず、建久三(1192)年三月一三日に享年六六歳で崩じた。そしてその直後に源頼朝の征夷大将軍就任が成立したのであった。
告発その一 節操なさ過ぎ

 一体誰の味方なの?と言いたくなるぐらい彼の立場はコロコロ変わった。勿論彼は天皇であり上皇であり法皇なのだから、原則として彼が味方する存在が大義を得る訳で、味方するもへったくれも本来彼にはない。
 が、武士と持ちつ持たれつの関係を築いている状況にあって治安の為に武力を必要とするなら、「君と臣」とはいえ、ルールなりモラルなりエチケットなりが求められる筈である。

 しかし彼は清盛に始まり、藤原成親・源義仲・源頼朝・源義経・源頼朝…と誠に節操がない。
 源平の対立を利用して双方の力を相殺させる為に離合を繰返すのはわからないでもないが、それは取りも直さず自らが支援する勢力に絶対の力を持たせることも出来ず、そしてそれを制御する力も無かったことを天下に示していることに等しい。
 陰謀を必要としたのは止むを得ない。しかし最初から最後までその体制を変えられなかったこと、そしてその為に多くの人々が大義名分に振り回されて集合離散の世を作った責任を一顧だにしていない態度が問題であることを見逃してはならない。


その二 何回戦を起こすの?
 自分を冷遇する鳥羽法皇を恨みつつも崇徳上皇は自ら父に逆らって戦を興すようなことはしなかった。がしかし後白河天皇の場合は兄との確執からいきなり戦に及んだ(保元の乱)。そして僅か三年で譲位したことと、保元の乱の禍根を残していたことから平治の乱が起こった。

 はっきり言ってこの二つの戦は後白河天皇がしっかりしていれば(例えば崇徳上皇を立てて実権だけはしっかり握るとか、源平公平に扱って名誉だけ与えて力は地方の乱に備えさせる様にするとかしていれば)起きずに済んだ戦であり、そうなっていればその後の陰謀さえ必要なく、文字通り平安時代が続いたことになる。

 だが結局彼は権力を我が手に握らずにはおれない人間で、その権力を守るために戦を繰返した。失われた兵士の命は浮かばれまい。

その三 あの頼朝に言われるとは…

 「日本国第一の大天狗」とは源頼朝が後白河法皇を指していった言葉である。
 確かに天皇(または上皇・法皇)として、大義ある立場を武器に源氏と平家、頼朝と義経の対立を煽って裏で糸引いた老獪な謀略家振りは「古狸」と言われた徳川家康に勝るとも劣らぬものがあり、その老獪な謀略家ぶりを伝説の怪物・天狗になぞらえたわけだが、薩摩守は個人的に頼朝が大っ嫌いで、あの頼朝に化け物呼ばわりされるとは相当なものであると考えてしまう(もっとも、頼朝は自分の狡猾さや冷血ぶりを思いっきり棚に上げるだろうが…)。まあ、どっちにしても「天狗に失礼な話だ。」と言いたい(笑)。

 だが、理由もなしに「大天狗」などと言うあだ名など生まれない(しかも「日本一」との接頭語付き)。後白河法皇の策謀家振りは本気で嫌な物があった
 武士はどれほど勢力を持っても朝廷の臣である。大義名分もなしに事は起こせないし、起こせばただの暴れん坊、チンピラ、ゴロツキと変わらない、とのレッテルを貼られる。
 だから頼朝は義経の追討や奥州攻めにくどいほど院宣を求めた。
 そしてそれを百も承知であの手この手を尽くした後白河法皇の他人評を見ると、平清盛が死の間際に自分の死後葬式はせず、頼朝の首を墓前に備えるように言い残したのと同時に、くれぐれも法皇に油断することのないようにと遺言していることに頷けるものを感じる。

 源義経も最終的には天狗の権威よりも我が父と仰ぐ藤原秀衡を頼った。そしてその奥州を征伐するのに後白河法皇が院宣を出し渋っている間に頼朝の臣・大庭景義(おおばかげよし)が「戦は院ではなく将軍の命によって行われるもの。」の一言で法皇の許しがないまま奥州征伐は断行された
 注意しなければならないのは頼朝が勅許を必要とせずとも行動しただけでなく、まだ将軍でもないにもかかわらず景義が彼を将軍と呼んでいたことにある。
 それほど武士の力が増していただけでなく、後白河法皇は人間としても頼りとされてなかった事に彼の認められない面がある。
弁護 一言で言えば生れ落ちた時代が悪過ぎた。どこの世界に兄と戦うことを心から望む人間がいるだろうか?
 平安末期は貴族から武士への政権移譲期でもある。藤原氏の悪政の前に世の中は武士の力なくしては収まらないほど反乱暴動が相次ぎ、山賊・海賊・盗賊が横行した。そのような中で必要とされ手柄を立て続ける武士の存在感が強まり、政治の世界にまで入りこんだのは歴史的必然である。
 故に万が一の武士の謀反に備えて彼は常に強い者に大義を与えてその権威に下に取り込む必要があった。それが時に平清盛であり、時に源義仲であり、時に源義経であり、最後に源頼朝であった。

 もし彼等が後白河法皇の側にある時に、自らが天皇になろうとしてその刃を向けていれば、神武天皇以来たった一つの家系で二一世紀まで脈々と続いた万世一系を途絶えさせたこととなり、鎌倉幕府から現立憲君主体制まで皇室を立ててきた日本の歴史に重大な影響を与えるところだった。
 血筋だけでいえば、源氏も平家もれっきとした天皇の子孫なので自らが天皇に成り代わろうとしても何の不思議もなかったのである(実際、平将門は「新皇」を名乗った)。
 幸いにして武士達は朝敵の汚名を恐れたのか、純粋に武士による政権を目指した為か、皇室に刃を向けることはなかった(軟禁したり、拉致したり、皇子が謀反人として討たれる例はあったが)。
 偏に後白河法皇が「利用価値あり」と見られ、武士の求めるものを絶妙のタイミングで与えたからこそ天皇家を守り通せた、という見方を出来なくはない。

 弁護の一つとして最後に人間としての後白河法皇の功績を挙げたい。それは東大寺の大仏再建である。平重衡(しげひら。清盛五男)によって兵火にかかった大仏を再建したのは後白河法皇である(企画したと云う意味でね)。
 聖武天皇が人々の平安を願った建立した大仏の焼失を悲しみ(自らも法皇―仏教徒―だったしね)、その心を消すまいとして再建に踏み切ったわけである。
 勿論彼一人の力によるわけではなく、技術や費用では宋帰りの僧・重源(ちょうげん)の尽力による所が大きかった。だが率先して立ち、開眼供養の筆を取った法皇の存在を無視してはならない。
 志を継ぐ行為の尊さとともに。そこには聖武天皇の熱い想いを尊重する後白河法皇の人格があるのは間違いないのだから。
 尚、この熱い想いに敬意を表したのか、雨の中行われた開眼供養には政敵である筈の頼朝も列席していたことを付け加えておこう。



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平成二六(2014)年五月二〇日現在 最終更新