認めたくない英雄達

源頼朝【久安三(1147)四月八日〜建久一〇(1199)年一月一三日】

これぞ猜疑心の男である!!
前書き 薩摩守が最も英雄と認めたくない男の登場である。何が気に入らないかって?一言で言ってこの猜疑心の塊の男が天下を取った上に、後世の数多くの武士の尊敬の対象になっていたと言うのが感情的に我慢ならないのである!

 この男が何故に多くの武士の尊敬を集めたか?幕府と言う武家政権システムの創設者である、と言う事実に他ならない。
 必然、足利も徳川もそれ以外の源氏の流れを受け継ぐ(と称する)連中も自分達の政権の正統性を鎌倉幕府に置いた為に、源頼朝始祖として崇拝したのである。
 徳川家康が自分の十男、十一男にそれぞれ「宣」、「房」と「」の字を付けて名付けたのも源氏の長者として、「尊敬する」源頼朝の名から取ったとの事である。

 だが、果たして、源頼朝は武家政権の創始者として以外に、人として尊敬に値する人物なのか?
略歴 源義朝の三男として久安三(1147)年四月八日に誕生(←何とお釈迦様と同日!)。初陣である平治の乱に敗れ、平家方に捕われた後に平清盛の義母・池乃禅尼の助命により一命を救われ、蛭ヶ子島(伊豆)に流刑となる(平治元(1159)年)。

 流刑地で地元の有力者・北条時政の娘・政子を娶る。
 流刑から二〇年、叔父・源行家(ゆきいえ)から渡された以仁王(もちひとおう。後白河法皇の次男)の平氏追討の令旨を受けて挙兵、伊豆の代官・山木兼隆を倒すが、続く石橋山の戦いに大敗。安房に逃れて再起を図り、富士川の戦いに勝利する(と言うか平氏軍が勝手にびびって逃げた)。直後に弟の源義経と再会(殆ど初対面に等しかったが)し、後白河法皇からの源義仲の追討令を範頼(もう一人の弟)、義経に命じた。

 弟達の活躍で文治元(1185)年四月二五日、平家一門は壇ノ浦に滅びた。
 が、第一の功労者・義経が後白河法皇より勝手に官位を貰ったことを咎めた事により、兄弟仲は決裂。奥州の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼った義経に対し、秀衡死後に泰衡(やすひら)を脅して殺させた。その後奥州藤原氏をも滅ぼして天下を統一(研究元(1190)年)。
 征夷大将軍の位を求めて上京したが、後白河法皇に認められず、右近衛大将に任ぜられた(あてつけで一ヶ月後に辞職)。建久三(1192)年に後白河法皇が崩ずるに及んで征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉に幕府を開いた
 正治元(1199)年一月一三日、落馬が原因で死去(異説多数あり)。
告発その一 猜疑心で何人殺すんじゃい!

 前述した様にこの男に対する嫌悪感は「猜疑心」の一言に尽きる。
 源氏の棟梁として、流人として常に監視下に置かれた青春期や、源氏内部にあっても義仲との対立や、天下の大天狗・後白河法皇の策謀家振りと対峙したことを考えるとある程度の用心深さは大将として必要不可欠なものだが、こいつの言動を見れば「根本的に人間が信じられないのでは?」と思ってしまう。

 まず弟の義経との確執は有名で、人によっては勝手に法皇から官位を受け、法皇に操られた義経の政治的判断の甘さにも問題あり、とする人もいるが、頼朝は平家滅亡以前から義経の軍才を恐れて警戒していた。
 宇治川の戦いから一の谷の戦いの直前まで源氏軍の大将は源範頼だった。これだけなら「範頼の方が兄だから妥当。」で終わるが、義仲を追討した褒美に頼朝は範頼を三河の国司としたが、義経には功に見合う手柄を寄越さなかった。
 直後に勝手に検非違使(けびいし。警察官的な仕事をする役職で本来は律令に制定されていない令外官)の位に付いたことを理由に義経を従軍部将から解任さえしている。
 確かに義経にも問題はあるが、範頼の国司任官に対して義経に官位がない事に対する正当な理由も、それに代わる説得も義経に対して為していないのも問題と言えよう。
 元々頼朝が猜疑心から彼を冷遇したことを、後白河法皇に「使える…」と思わせ、源氏内部抗争を企む法皇の謀略を呼んだ訳であり、卑しくも武家の棟梁を自認する立場にある頼朝には政治的謀略に疎くて利用される義経を教導する義務があった筈である。
 それもせずに功労者の義経を冷遇し、人の大きな功を無視し、小さな咎を責めている様では義経が彼から離れたのも無理はない。

 もっとも、兄弟の仲であるからして、頼朝に義経を許す気持ちが全くなかったわけではない。しかし彼は実弟の情に訴える弁明(腰越状)よりも、重臣・畠山重忠の「源氏の氏神の教えに従って、他人の讒言よりも弟を信頼し、側に置くのが不安なら西の守りも命じればいい。」という正論よりも、側近・梶原景時の「義経殿が鎌倉に入れば殿はどのような目に遭うか…。」の台詞を重んじて義経を鎌倉に入れず、弁明も聞かなかった。
 もはや頼朝の中で正論や情よりも猜疑心の方が大きかったのは疑いようがない。

 結局義経は幼き日に世話になった奥州藤原氏の棟梁秀衡を頼り、戦下手の頼朝は「謀反人義経を引き渡せ。」との院宣を法皇に出させ、秀衡没後に息子の泰衡が義経を殺して首を届けると、恭順の意も、保護下に置く約定も無視して奥州征伐の軍を起こした。
 戦勝後に泰衡の側近の河田次郎が泰衡を裏切って首を持ってくると「主殺しの大罪人め。」と罵って河田を殺した。「泰衡を裏切ってくれたこと」は嬉しくても、この猜疑心の塊男が「主を殺すような奴」を信頼する筈はなかったのである。

 頼朝の猜疑心はこれに留まらない。石橋山の戦いに敗れて安房に逃げた折に二万の軍勢を率いて駆けつけ、再起に大いに尽力した平上総介広常(たいらかずさのつけひろつね)が父祖以来の伝統で下馬の礼をしないのに猜疑を募らせ、梶原景時に密かに命じて、双六のもつれにかこつけて梶原に上総介を斬り殺させた

 先に都入りして平家を追放した従兄弟の源義仲が法皇に嫌われ、追討令が出た時に、義仲は頼朝に対して敵意がないことを表明し、息子の義国(よしくに)を人質として送り、頼朝も娘・大姫(おおひめ)の許婚とするとしながら範頼・義経に義仲を討たせたばかりか義国も殺してしまった……

 父義朝が死んだ後、義朝に仕えていた大庭(おおば)兄弟のうち、兄・景義(かげよし)は源氏への忠義を貫いたが、弟・景親(かげちか)は平氏に仕えた。後に頼朝は景義を重用したが、景親の助命嘆願は受け付けず、次第に朝廷を軽んじ出す頼朝を諫言する景義に対して冷やかな視線を送るようになる。
 自らの正論の及ばぬことを悟った景義は出家して隠居する。仏門に入り、僧籍に入ることで、世俗を離れ、不殺の可能性を高めなければ、景義の命がなかった可能性は充分であった。

 更に頼朝は範頼を伊豆の修善寺に幽閉してこれを殺し、叔父の行家も討ち、静御前が産んだ義経の子も男児だったために処刑した。
 古来敵と見れば赤子でも容赦しない人物は無数に存在したが、それでも自らが幼さや若さを理由に助命された経験を持つ者は幼子に多少の手心が加わるものである。しかしヒューマニズムは頼朝には通じなかった。
 義経を慕う舞を見せた静御前を責め、妻の北条政子に「同じ女子のみとして静殿の気持ちはよくわかります。」と怒られたときにはぐうの音も出なかった恐妻家頼朝だが、静が男児を産んだときは政子の助命嘆願にも耳を貸すことはなかった

 頼朝猜疑心というか、人間不信は彼の専売特許ではないのだが、それに連なる彼の認めたくない面を示す例が長田忠致(おさだただむね)に対する処遇である。
 長田忠致は頼朝にとって「父・義朝の仇」である。平治の乱に敗れ落ち延びてきた義朝の腹心の舅・長田は匿う振りをして騙まし討ちにした。それも腕力に優れた義朝にまともにかかっては返り討ちに遭いかねないと考え、風呂に案内して素っ裸の丸腰にした所を襲うと言う念の入った卑劣な方法であった。
 頼朝にとって八つ裂きにしても飽き足らない相手である。そしてそんな頼朝の報復を恐れ、抗し切れない、と考えた長田は降伏した。
 頼朝は長田を平家打倒に尽くす条件で恨みと思わない、と約束し、長田を義経旗下に従軍させ、長田もまた一の谷から壇ノ浦へと奮戦した。
 戦後、頼朝は「恩賞を与える。」として長田父子を鎌倉に召喚した。勿論この台詞が大嘘で、長田父子がこの後どんな目に遭ったかの説明は不要だろう。
 親の仇を討ったことを責めるつもりは全くないが、助命を条件に利用するだけ利用して、用が済めば約束を反故にして消してしまう態度は丸で悪の組織の首領である
 降伏した時点で処刑するか、或いは約束通りに大功と引き換えに助命をしていれば頼朝に対して薩摩守はこれほどまでに嫌悪感は抱かなかったことだろう。

 範頼・義経親子・奥州藤原氏主従・上総広常…頼朝の猜疑心がなければどれほど無駄な血が流れずにすんだことだろうか…。義経や行家は後白河法皇に上手く操られて、頼朝としてもこれを討たざるを得ない面もあったが、法皇の策謀は頼朝の猜疑心に目をつければこそのことである。
 裏切りとは裏切るメリットを相手に見出せない様にしておけば起きないものである。言いかえれば見返りなしに背徳行為をするほど人間は無意味に愚かでも邪悪でもない。
 義経が頼朝追討の院宣を受け取っても頼朝と戦いたがらずに京より逃亡した様に、義経に頼朝を倒す必然性はなかった。
 だがそれを理解せず、頼朝の憎悪の元となった猜疑心は最終的に源氏全体の不幸を招いたと言える。


その二 約束を反故にするんじゃない!

 人間には「自分を基準に物事を考える。」という好ましからざる傾向がある。人を信じる事の出来ない人間は、他人もまた自分を信じていないと考える。そのような対人関係では約束も信義も成り立たない。

 頼朝は義経を匿う奥州藤原氏に院宣を通して引き渡すように要求したが、秀衡はこれを黙殺した。が、やがて秀衡は高齢で没し、奥州は後継を巡って泰衡と国衡が対立すると、頼朝は猜疑心の強い泰衡を利用することを考える(「英雄は英雄を知る」ならぬ「猜疑心は猜疑心を知る」といったところか…)。
 頼朝は「謀反人を匿うは謀反人と同罪である。」という恫喝と「義経の首を渡せば恩賞を与える。」という硬軟両面かつ高飛車な院宣を後白河法皇に出させた。
 もはや抗し切れない、と考えた泰衡は衣川に義経を襲い、その首を鎌倉に届けた。しかし鎌倉から来たのは恩賞ならぬ討伐軍である。
 「謀反人を匿った。」というのと「首が届くのが遅かった。」と言うのが言い分だが、言い掛かりも甚だしい。
 謀反人を匿うから罪に問うのなら、謀反人の首を差し出すことにより、匿ったことを理由に責められる筋合いはない。「遅い」というのも的外れである。首が届く前に院宣が出ていて出陣していたのならわかるが、首を受け取るまで待っておいて「遅い」とは言い掛かり以外の何物でもない(しかも院宣は出ていない!)。

 そして「その一」でも触れた源義仲・義国親子の件は勿論娘との結婚の約束を反故にし、和睦を踏み躙る物で、余りの信義のなさに娘・大姫はショックから発病して、父を責めながら若い命を落とした。
 性格は仕方がないにしても約束は守ろうな…頼朝…。


その三 我が子には甘いのぉ…

 弟達にはむごい頼朝―がしかし我が子頼家(よりいえ)には甘かった(それが彼をわがままな性格に育てたのは周知の通り)。頼家の誕生は寿永元(1182)年(平清盛の死の翌年)で頼朝が三六歳の時である。
 一〇代で子持ちになることが珍しくなかったこの時代、頼朝にとっては年を食ってからようやく授かった男児とも言え、これを溺愛するのも無理は無かっただろう。ただそれを考慮に入れても同じ血を分けた弟・従兄弟・叔父達へ頼朝が為した仕打ちを考えれば頼家への愛は極端なまでに対照的ですらある。

 頼朝の頼家への溺愛振りを表すエピソードに、頼家が初めて鹿を射た時の話を知る人も多いだろう(わざわざそのことを手紙に書いて政子に送ったあの話である)。
 同じ夫婦であっても政子は「武将の子が鹿を射たぐらいで何をはしゃいでいるのか…。」と呆れ返っていたのだから頼朝の溺愛振りが尋常じゃなかったことが伺えるというものである。
 豊臣秀吉の秀頼への溺愛振りを考えればこの程度の溺愛は本来話題にするほどのことではない。しかしその溺愛男が身内に冷酷な男でもあることと、その溺愛ゆえに将軍としても男としても好ましからざる人物を育て、北条氏の専横を招いた結果を考えるとこれもまた源頼朝の英雄として認められない一面といえる(曾祖父の父義家・祖父為義も教育者としてなっていなかった。源氏の血筋か?)。

その四 御前等さえしっかりしていれば…

 これほど猜疑心の強い男が天下の棟梁たり得たのは武士の権益と社会的地位を守り通したからである。
 これだけは薩摩守以上に頼朝が大嫌いな人にも否定は出来ない。だからこそ源氏が三代で滅びても幕府は潰れず、鎌倉幕府滅亡後も足利や徳川が続いた。
 明治維新に際しては不平士族の乱が多発した。すべては武士が武士である為に戦われたのである。

 そこで薩摩守が頼朝に言いたいのは、それほど一貫したものをもって人を引っ張る力がありながら、何故その思想だけでなく、その体制である幕府を磐石のものにしなかったのか?と言うことである。
 富士川の戦いで勘違いで逃げただけの平家を自分で追撃せず、優れた弟達に任せ、自らは鎌倉を中心とした東国をしっかり固めた政治的判断は日本史上でも屈指の名判断だった。政治的な判断は得意中の得意だった筈である。
 だが、その有能性は残念ながら組織の盤石化には役立てられなかった。

 武家政権の創始者として尊敬された頼朝に後々の武士達が続き、その地位を脅かす外敵には一致協力して立ち向かったが、思想に体制がついていかなかったためその後百四十年間鎌倉幕府には殆ど安定期がなかった。
 自らの子孫があっさり滅びただけでなく、北条氏を始めとする御家人同士の権力闘争は絶えず、地方には悪党(悪者の集まりという意味ではなく、幕命に服さない地方豪族がこう呼ばれた)が広がった。

 こんな統治下で一般民衆が安心した生活を送れるわけがなく、それは鎌倉時代に浄土宗・浄土真宗・時宗・法華宗・臨済宗・曽恫宗などの新興仏教が生まれたことにも明らかである。
 源頼朝は「武士の世」だけを磐石にして、それ以外には不安不満の種をまいて無責任に死んでいったのである。

 穿った物の見方をすれば、頼朝を初めとする彼の子孫が幕政を内外ともに確かなものにしていれば皆が安定した生活を送れただけでなく、武家政権の終焉まで「鎌倉時代」ですみ、未来の受験生達も大いに楽ができたのである(笑)
弁護 本来なら、源頼朝は平治の乱で捕らえられた際に処刑されるところだった。彼より遥かに幼い義経でさえ、母の常盤(ときわ)がその身を清盛に差し出すことで何とか助命が図れたのである。
 既に元服していた頼朝が助かり得たのは、清盛の義母・池乃禅尼の助命嘆願(幼くして死んだ息子に似ていたらしい)によるものである。

 義母の嘆願によって助けた頼朝が平家を滅ぼしたのだから、清盛も草葉の影でさぞかし臍を噛んだことだろうが、この猜疑心の塊男・頼朝さすがに池乃禅尼の恩は身に染みていた様だった
 彼女の実子である平頼盛とその子供達のみが平家皆殺しの中でその命を永らえているのである。肉親も盟約も勅命も忠義も信じない男ではあったが、全くの恩知らずではなかったのがせめての救いであろうか?
 もう一つ付け加えると彼は奥州征伐後に平泉の中尊寺を模した永福寺(ようふくじ)を鎌倉に建立して義経・泰衡達の霊を弔わせた。死者に対する哀悼の意はあったようだった。  後に「義経も泰衡も本来は殺す必要のない者達であった。」と述懐し、少しは自分の非を認めている。怨霊に怯えるのが珍しくなかった時代の話ではあるが、そもそも怨霊は「無実の罪」で非業の死を遂げた者が祟るので、罪悪感の無い者は怨霊に怯えないのである。  また、菩提寺を模した寺を建ててあげていたのはなかなかに粋でもあった。

 そして彼が同母弟・希義(まれよし)にはやさしかったことも付け加えておこう(距離的に遠くにいたので猜疑心を抱かなかっただけかもしれんが)。


足利義満【正平一三(1358)年九月二五日〜応永一五(1408)年五月六日】

不遜極まりないのは弱者に対してのみ!
前書き 言わずと知れた室町幕府の三代将軍にして、金閣寺の建立者にして、南北朝の対立を終焉に導いた室町幕府十五代の中で最も隆盛を誇った征夷大将軍である。
 幼くして父である二代将軍・足利義詮(よしあきら)を亡くし、亡国の王子に近い状態で三代将軍に就任したことを思えば、その後の彼の栄達ぶり、実力等は足利幕府を代表する将軍と呼ぶのに全く異論のないところである。

 しかし一人物としての彼には人格者として疑問が付きまとうし、征夷大将軍が天皇の臣であることを思えば彼がやろうとしたことは逆賊に近いものがある。そして彼が生んだ怨嗟は足利幕府のその後の歴史に暗い影を落とすのである。
略歴 北朝の延文一三(1358)年八月二二日(以下、年号は北朝の物で表記)、足利幕府第二代将軍足利義詮の嫡男として生まれる。
 当時室町幕府は創始者である彼の祖父尊氏以来の南北朝の対立を収められずにいて、彼の父義詮は劣勢に立たされたまま貞治六(1367)年に幼い春王(義満の幼名)を残して没していた。

 翌年元服すると共に第三代征夷大将軍となった義満は、しかし僅か一一歳の子供に政治・軍事が務まるわけはなく、細川頼之(ほそかわよりゆき)・斯波義将(しばよしまさ)といった管領達が補佐をした。
 重臣達に支えられ、次第に幕府においても朝廷においてもその権威権力を強めた義満は康暦二(1380))年従一位に昇り、永徳元(1381)年内大臣、永徳二(1382)年左大臣、後円融院の院別当、永徳三(1383)年源氏の長者、と毎年のように出世を重ねた。
 三一歳になった嘉慶二(1388)年には駿河・厳島に遊覧してその地方の大名を威圧したり、明徳二(1391)年には細川頼元を管領とし、山名氏清を滅ぼし(明徳の乱)たり、と政治力・軍事力も着実に着けてゆく。

 そして明徳三(1392)年には父祖念願の南北両朝の合体を成し遂げた。六〇年に及ぶ北朝と南朝の対立はその歴史を紐解けば鎌倉時代中期にあり、その両派の対立を解消させた歴史的意義はとても大きい。
 そしてこの頃になると足利義満は武力・権力の両面で大きな力を持ち、明徳四(1393)年に後円融天皇が崩ずると義満の公家・寺社勢力への介入を抑えられる人物は皆無となった。

 応永元(1394)年に将軍職を息子の義持(よしもち)に譲り、自身は公家最高位の太政大臣となる(平清盛以来の名誉である)。翌年あっさり辞職して出家するが、幕府・朝廷の双方における彼の行動はますます強大になってゆく。
 九州探題の今川了俊を独自の動きありと見るや解任して渋川氏を後釜に据え、応永六(1399)年には瀬戸内海の雄・大内義弘を滅ぼしたように、幕府に対抗し得る勢力を容赦なく叩いた。

 応永8(1401)年、金閣といわれた壮麗な寺院風の邸宅を、西園寺家の別荘のあった北山に建設。当時の文化が「北山文化」と呼ばれるのはここに由来する。
 応永九(1402)年には勘合貿易と呼ばれる日明貿易を開始し、明の皇帝より「日本国王」の称号を与えられた。中華の皇帝から日本の王として認めらるのは倭の五王以来のことであり、後には例がない(豊臣秀吉が送られかけたが、明を征服する気だった秀吉は激怒して蹴っている)。
 義満は武家・公家の最高位に立ち、寺社勢力にも首領の如き発言力を持っていた上に「国王」の地位まで得たわけである。前人未踏の境地に達したといっても過言ではない。

 名実ともに絶大の存在となった義満はこの頃から天皇家にとって代わろうとした、と多くの史家が論じている。
 義満は積極的に身内を廷内に参入させていく応永一四(1407)年には義満の正室日野康子が准母(天皇の母)となり、翌年には義満の次男義嗣(長男義持は既に元服した上に将軍位に就いていた)が内裏にて元服式を挙げる。
 義満は正室の康子が准母にすることで暗に自らを准父として位置付け、次男義嗣の元服を内裏で行うことによって、立太子の印象を朝廷内に与えたと見られている。

 つまり義満は息子を次期天皇とし、自らは上皇となろうと画策したのが史家達の見解である。だが後一歩で成功するかに思われた皇位簒奪は応永一五(1408)年に義満が金閣で急死したことで歴史上における謎のまま消えてしまった。
 発病してから僅か五日後の死で、暗殺説もある。義満死後、朝廷は義満太上天皇(上皇)の称号を送ろうとするが、義持はこれを辞退した。更に義持は父・義満の政策を次々と覆す政治を行うが、これは彼が父と弟を憎んでいたためとも言われている。
告発その一 何様のつもりじゃあ〜

 征夷大将軍太政大臣日本国王にして南北朝統一の功労者…後に先にもこれほどの名誉を得た存在はない。
 そして名ばかりではなく、実際に義満には力もあった。それも武力一辺倒ではなく、権力・財力をフルに活かし、周到な根回しに裏打ちされたものである。
 西国の守護大名の力を殺ぎ、彼が出家すれば多くの公卿がともに出家したという。アジアの、否、世界の大国・明の皇帝が将軍を「国王」と呼んだのも伊達ではない。ここまで来ると思い上がらない方がおかしいのかも知れない。

 しかし、僅か一一歳で将軍となった彼が一から十まで独力でこれほどの力を得て功績を挙げたのでは決してない。父や祖父が残してくれた忠臣がいればこそである。更に朝廷に絶大な力を持ってからの彼の行動は目に余るものがあった

 具体的には宮中の女官と愛人関係にあったらしいのだ。後円融上皇が自分の妃を峰打ちにする事件があり、その妃とは後小松天皇の母である。つまり後小松天皇は義満の子かも知れないのだ。
 こんな醜聞のある征夷大将軍は勿論義満だけである。南北朝統一の功績があるゆえに「自分を宮中で何をやってもいい人間」だと思い上がっていた面は否定出来ない。

 そして前述した様に彼は「天皇になろうとした将軍」といわれている。征夷大将軍が天皇から任ぜられる職であり、また太政大臣にさえなった彼には天皇からニ重の恩を受けている(彼がそう思っているかはともかくとして)。
 つまり彼は帝位を狙う者がいれば立場上、命懸けでそれを守らねばならない人間なのだ。その彼が天皇になろうとするのは反逆といっても過言ではない。

 義満の急死を暗殺と見る説があるのも万世一系を守ろうとする人々の存在を考えれば納得出来る(薩摩守は八割の確率で義満の帝位簒奪と暗殺を有り得たことと見ている)。
 それでなくても彼の死後、追尊として「太上天皇」の称号が送られようとした。臣下の者には考えられないことである。中国では臣下から皇帝の位についた武将が自分の父や祖父に追尊として帝号を贈る事もあったが、それでも身内に皇帝になる奴もなしに贈られた例はない(あっても潰されただろう)。
 世界史上極めて異例で、死後にそこまで気を使わせるとは生前義満は何をしたと言うのだろうか?恐ろしい男である。頼朝や信長以上に絶対者の如く振る舞っていたのではあるまいか?「何様」を通り越している
 本来政治とは無関係の寺社勢力にまで次々と息子達を送り込んで、権力に物言わせて門跡としたのも彼にしてみれば「当然」の行動だったのかもしれない。


その二 強い者には弱いのね…

 国内に怖いものなしの義満だったが、大国には腰が低かった(笑)。彼は勘合貿易を始めて明皇帝から「日本国王」の称号を送られ大喜びしたが、日本国内で不遜な男が随分と意外なものである

 そもそも義満は日本人で、明皇帝の家来ではない。勘合貿易が一種の朝貢貿易であったことから明皇帝がエラソーに振る舞う背景は分からないでもないが、日本国内のことで他国の皇帝にとやかく言われる筋合いはないのである。
 まして国内での主君・天皇以外から官位を貰ったこの行為はある意味天皇に対する裏切り行為ですらある。
 A株式会社の社長が自分の部下である課長に、幾ら大会社とは言え、B株式会社の社長からA株式会社の重役の椅子が与える行為があったとして面白い筈はなかろう。日本の天皇にしてみれば国家元首の権威をないがしろにする不遜極まりないことを明の皇帝はやっているのである。
 そしてそんな内外の立場やプライドを知ってか知らずか、義満は世界の一等国・明の皇帝に認められたことを狂喜して尻尾を振り、天皇の気持ちなどかけらも考えず、武家に公家に寺社に対して絶対者の如く振る舞った。見事なまでの「内弁慶の外地蔵」である。

 幾ら実力があっても、否、力があるからこそこういう奴を認めたくないのは薩摩守だけではあるまい。

 これほど偉大な父を嫡男で後継者の義持は全く尊敬せず義満の死後の「太上天皇」の尊号を義持は「分不相応」として辞退し、「我等は明皇帝の家来ではない。」として勘合貿易を中止した。
 そしてその政策や考えの是非は別にして(勘合貿易を始めとする対中華朝貢貿易はプライドに目をつぶれば実は儲かる)、言としての筋は通っていることに注目して欲しい。
弁護 僅か一一歳で征夷大将軍という武士最高の位に据えられた人間が不遜になるのもならないの守り役に責任があると言えなくはない。
 何といっても子供がいきなり権威ある座に就くのだから、余程上手く育てないと思い上がるのがある意味当たり前である。更に南北朝が統一は北朝の勝利であり、南朝に味方する全ての武家・公家・寺社勢力をひれ伏させるだけの力が求められた。それほどの力を掌握した歴史上の人物は義満に限らずまず大抵の人間は思い上がる。

 義満だけに完全無欠を求めるのは不公平かもしれない。更に付け加えれば、義満とて最初から思い通り振舞えた訳ではなく、教育係でもあった細川頼之が重臣達の槍玉に上げられたときは庇い切れずに領国(四国)への蟄居を泣く泣く命じている(後に力を持ってからは復帰させたが)。そんな過去からの反動も無視してはならないだろう。

 良くも悪くも強大な力を持った男―それが足利義満であり、彼はそれゆえに尊敬され、それゆえに嫌われた。
 また戦前の天皇陛下万歳教育の世界では、後醍醐天皇に反逆した足利尊氏は極悪人とされ、帝位を狙った義満はその疑惑をひた隠しに隠された。万世一系を神聖なものにする為に敵対しつつも天皇を尊敬していた祖父が罵倒され、侮蔑していた義満がその罪過を見て見ぬ振りされたのは歴史の皮肉だが、その皮肉から目を背けてもいけないと思う。
 最後に義満は北山文化大成の先駆者で、また彼には民衆に対してこれと言った悪政がないことを加えて弁護を終わりたい。


織田信長【天文三(1534)年六月二三日〜天正一〇(1582)年六月二日】

好きになれない最も偉大な奴
前書き 余程歴史に疎い人間でない限りその名を知らないということは有り得ないだろう。最も有名な戦国大名にして時代の風雲児である。
 古い権威や常識に捕われることなく、その奇抜な発想や才能をもって敵対する勢力を次々と倒し、室町幕府を滅ぼし、戦国時代を急速に終わりに向かわせた英雄である。
 志半ばにして本能寺に明智光秀のために倒れるが、彼の天下統一事業は豊臣秀吉・徳川家康に受け継がれ、百年続いた戦国の世が終わり、幕末までの泰平の礎となったのは周知の通りである。

 織田信長の歴史的功績については疑う余地はない。魅力のある人物でもある。しかし、合理主義に裏打ちされているとはいえ、敵に対してとはいえ、時代が時代だったとはいえ、その人間性には魅力と同等かそれ以上の嫌悪感が伴う。
略歴 天文三(1534)年五月一二日に尾張守護代織田信秀の三男(立場としては嫡男)に生まれた信長は若き日は異装や礼儀知らずな言動から「うつけもの」と陰口を叩かれてきたが、尾張を統一し、桶狭間で今川義元を討ち取るや松平元康(徳川家康)と同盟すると美濃・伊勢にその勢力を広げ、足利義昭を奉じて上洛し、形骸化した権威には見向きもせず、新兵器・鉄砲に目を付け、堺・大津・草津を押さえた。

 その後自分を利用した信長を除こうとした足利義昭の謀略で武田・浅井・朝倉・比叡山延暦寺・石山本願寺・長島一向宗等を敵に回して苦戦するが、天正元(1573)年に武田信玄の病死に助けられ、浅井・朝倉を滅ぼしたのを皮切りに室町幕府を滅ぼし、天正三(1575)年長篠の戦で武田騎馬隊に大勝してその勢力の優勢を磐石のものとした。

 しかし、毛利・北条・上杉・長宗我部をも圧倒せんかに見えた信長は天正一〇(1582)年六月二日に僅かな油断を突かれ、重臣・明智光秀の謀反によって本能寺に自害した。
告発その一 正に殺戮の嵐!!

 戦国に生きる以上、血を流すのは止むを得ない。小説『ロードス島戦記 4』(角川スニーカー文庫)ではフレイムの傭兵隊長シャダムは「その手を血に染めぬ者が英雄と言われることはありませんからな。」と国王カシューに言っている。が、流す血にも色々ある
 我々現代人のイメージでは肉親を手にかけることは残酷なことだが、この時代はそうは言っていられない。信長は同母弟・信行を、秀吉は甥の秀次一族を、家康は正室の築山殿と長男の信康を、毛利元就は弟の元綱を、伊達政宗は弟の小次郎政通を…と枚挙に暇がない。やらなきゃこっちがやられていたケースだって少なくないのだ。
 信長が信行を殺したケースだって明らかに信行が謀反を起こしたもので、信長も(母の助命嘆願もあって)一度は許しているのだ。それを再び反旗を翻したのだから殺されたのは必然である(一度目は行動を共にした柴田勝家も二度目は信長に味方した)。

 だが注目したいのは非戦闘員に対する接し方である。
 戦場での殺戮には止むを得ないものがある、という線まで譲ったとしても、信長には降伏した者を、約束を反故にして殺す(伊勢長島)、その場に居ただけの者を老若男女問わず殺戮した(比叡山)、という残虐行為が際立つ。
 武器を持たない者、恭順の意を示す者を殺すのは頂けない。しかも約束を反故にしているのである。これは何も信長軍の統制のなさが生んだ惨劇と言うわけではない。彼が命じたことなのだ
 兵士はこれらの虐殺を行わないと、戦場に信長軍以外の者が生きていたら軍令違反とされたのである。軍令違反に対する処罰は死罪である。虐殺は明らかに信長が行ったことなのである(恐らくは彼も否定すまい)。

 勿論合理主義者・織田信長は故なく虐殺を行いはしない。
 一つの戦場で敢えて降伏を認めず、以後の戦陣に威を示すは古来より数多く行われてきたことだが、この方法は上手く行けば敵が早期に降伏を申し入れたり、戦わずに逃げたり、と後々の犠牲を減らす効果が見込める場合もある。
 だが、逃げ場のない敵には「降伏しても殺されるなら潔く戦って死のう。」という徹底抗戦を決意させるもととなり、その場合には敵味方に多くの死者を出すことになる(実際、長島の戦いでも約束を反故にされて怒り狂った農民の最後の奮戦に織田一族の多くが命を落とした)。どちらにしても駆け引きで失われた命が浮かばれるとは思えない

 信長は自分に逆らった者を徹底して許さない。荒木村重の家族を皆殺しにし、林通勝は役に立たなくなったと見るやニ十年以上前に信行の謀反に荷担したことを理由に追放された。
 同盟を裏切った浅井久政・長政親子(先に信長が盟約違反をしたのだが…)・朝倉義景は命を取られただけでなく、その頭蓋骨を髑髏の杯にされた(←江戸時代以降に創られた話との説もある)。
 武田勝頼の首が届くと徳川家康が手厚く葬ったのに対して、信長足蹴にして「ざまあ見ろ。」と言い、武田家の旧臣達に降伏すれば命は助ける、と言いながら出頭すると「不忠者」と罵って惨殺した(この時家康は多くの旧臣達の命を助け、これが後々の徳川家を強くした)。
 この時代に敵を殺すのは仕方ないにしても、死者に対する仕打ちは無意味であり、ここに信長の酷薄さがうかがえる。

 その二 何様のつもりじゃあ〜弐

 神仏を信じない男・織田信長。確かに信じる信じないは心の問題である。信長以外にも神仏を信じない人物は古今東西無数にいる。
 何者をも信じず、尊敬しない人間は概して自らもまた崇拝されたり尊敬されたりすることを望まない。が、自らが他を尊敬せずとも他に尊敬されることを望むエゴイストも少なからずいる。そんな奴には「何様のつもりだ?」と言いたくなる。そしてそんな奴の一人に織田信長がいる。

 信長は神も仏も信じず、比叡山を焼き、一向宗徒を虐殺し、一方で鉄砲を初めとする新兵器の購入の役に立つ、と考えてキリスト教の布教に寛大だった。火薬調達の為、種子島と縁を持つ日蓮宗にも寛大だった(本能寺は日蓮宗の寺)。
 彼が宗教を利用することがあってもそれに傾倒することがなかったのは彼の合理主義が科学的根拠のない権威を無視させたというのもあるが、何より彼自らを崇拝させようとしたことが挙げられる。彼は自らを神と崇めさせようとしたのである!

 不遜極まりない。
 「崇められる」
のが不遜なのではなく、「崇めさせた」ことが不遜なのである。
 確かに戦前まで天皇は「現人神」とされていたし、豊臣秀吉は「豊国大明神」、徳川家康は「東照大権現」と神号で呼ばれた。とはいえ彼等が「神」とされたのは言わば天上の神の代理人としてのことであり、彼等自身が信仰心を持っていた。
 歴代天皇は八百万の神を、秀吉は神道を、家康は仏教を信仰し、帰依していた。付け加えるなら秀吉と家康の場合、神号で呼ばれたのは死後のことである。いわば追尊で、一般に死者を尊んで「仏様」と呼ぶ日本人の伝統を考えればこの両雄の場合さほど不遜とは言えないだろう。

 が、信長は違った。
 自らが生きている内に自分を神として家臣領民に崇めさせようとしたのである。他の何者も尊敬せず、誰の諫言にも耳を貸さず、一切の権威を利用価値なくば無視し、多くの命を計算で奪うことが出来たのが彼の自らを最上とする不遜な性格と無関係と言い切ることが出来るだろうか?
 このような性格の人間が力を持ったとき、計り知れない犠牲が生まれることの恐怖を織田信長を持って他山の石としたい。


その三 常人がついて行けると思ってんのかよぉ…

 一個人としての信長の才能には目を見張るものがある。文武両道に秀でているだけでなく、思考・行動共に時代の最先端をいっており、秀吉も家康も信長なしには存在し得なかっただろう。
 御託よりも今川・武田・浅井・朝倉・室町幕府を滅ぼし、戦国を急速に終息に向かわしめた結果を見れば明らかである。改めて断言できる、織田信長は天才だった、と。

 ただ、天賦の才能に恵まれた者はしばしば自らの才に慣れ切って、かなりハイレベルなものを平均的なものとして見てしまい、愚鈍な一般ピープルの心情や動きを察知し得ない、という失策を犯すことがある。
 「名選手必ずしも名監督ならず。」という言葉に置き換えることが出来るだろうか?勿論信長も例外ではなく、彼の家来でいること自体が並大抵の事ではなかった
 彼の革新的な采配についてこれない保守的な人間はまだ救いがある。他の大名に仕えるか、帰農すればいいのだから。悲劇は一角の武将達こそにある。

 信長の独善的な自らの基準で行われた采配の為に明智光秀は母を、徳川家康は正室と嫡男を失い、柴田勝家や前田利家も一時は地位を失い、あれほど可愛がられていた秀吉でさえ一時は命が危なかった。
 そしてそれは何も彼らに落ち度があった訳ではなく、信長を信じて付いて行った結果なのだから救われない。恩を仇で返しているといっても過言ではないのだが、自らの判断と立場を絶対と思っている信長にはこれらの犠牲はどこ吹く風であった。
 そんな人物の理不尽さについていくにはトコトン彼を尊敬するか、感情を捨てるかである。秀吉や家康はそれに成功したが、光秀は我慢できずに謀反に至ったし、荒木村重の様に逃げ出した者も少なくない。
 人を率いるのにそんな心捨てる行為を強いる人物が真の英雄と言えるのだろうか?

 薩摩守は信長歴史的功績は認めても信長人物は認めたくない。ここまで強引な采配をしなくてももっと乱れた世の中を平和に導いた英雄はいるのだから。
弁護 神仏を信じない信長ではあったが、それは合理主義者としての事。彼自身が神事や仏事に全く向き合わなかったわけではなかった。その例が、熱田神宮であり、政秀寺である。

 桶狭間の戦いの前に、熱田神宮に詣でたのは有名である。そして政秀寺こそは彼を諌めて切腹した彼の師・平手政秀の供養の為に信長が建立した寺である。
 御仏を全く信じず、政秀が命を投げ出してまで行った諫言にも殆ど従わなかったが、政秀の死は大変なショックであり、父の死以来決して流さぬと誓った筈の涙を流してその供養を誓い、彼の名の寺を建立したのだから、全くの魔王ではなかったと言えるだろう。

 また、信長は武将であると同時に政治家でもあった。大量殺戮の命を出す一方で、治安第一と見たときには一人の殺害は愚か、一撃の傷害、果ては一文の窃盗さえそれを行った兵の首を刎ねた。俗に「信長の一文斬り」と呼ばれ、京都を初めとする所々の治安回復に大いに貢献した
 信長の命でその兵は多くの命を奪ったが、逆に「奪うな。」と言えば、命は勿論びた一文すら守られたのである(まあだからこそ殺戮には「本当に避けられなかったのか?」と怒りと供に投げ掛けたくなるのだが)。
 改めて彼の殺戮が合理主義に立った、決して無意味なものではないことと、彼の統率力の高さを見直したい。

 人間として、気に食わない面が勝ってしまった織田信長ではあるが、彼が荒療治を振るったからこそ戦国時代が急速に終結に向かったのは認めている。彼の大殺戮もそれがなければより多くの命が別の形で失われていたかも知れない。かといって降伏した者や非戦闘員に彼が為したことを許す気にはなれない。
 一人の人間対一人の人間として、薩摩守は信長が好き好んで大虐殺をやったのではない、と信じたい。



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平成二六(2014)年五月二一日現在 最終更新