無謀なり、秀吉

 豊臣秀吉の朝鮮出兵の無謀さは歴史学者の指摘を待つまでもない。
 だが、歴史を考察する時に気を付けなければならないのは、

「既に起きたことを後から見ている我々は解答を知っている。」

 という事である。

 源平合戦にしても、関ヶ原の戦いにしても、太平洋戦争にしても後からなら「源氏につけばいい。」、「東軍大勝利」、「アメリカと戦うべきではなかった。」などと幾らでも言えるが、当事者となった際に正しい判断が下せるかどうかは容易には判断し難い
 だからこそ関ヶ原の戦いにあって、あれほど洞察力に優れた真田昌幸・信幸・幸村親子でさえ、東西に別れた。勿論そうすれば東西どちらが勝っても御家が残る可能性が高い訳だが、逆を言えばどちらかが死ぬ可能性もまた極めて高い(この時は敗れた昌幸・幸村親子は命だけは助かったが)。真田一族でさえここまで慎重になっていたのが現実であることを踏まえて頂きたい。

 さて、ここで秀吉に戻る訳だが、ある意味この『朝鮮出兵』は「例外」といっていいだろう。
 殆ど秀吉のイエスマンと化していた加藤清正や福島正則を例外として、五大老の徳川家康・前田利家も、茶人・千利休も、国際事情通の小西行長、宗義智(そうよしとし)も、実弟・羽柴秀長も、あれだけ秀吉に忠実だった石田三成も、多かれ少なかれ朝鮮出兵(正確には海外遠征)には反対していた。
 小早川隆景、島津義弘、宇喜多秀家、のように出陣したなら出陣したで好戦的に奮戦した将も多いが、少なくとも出兵を積極的に支持した声は聞かない。
 秀吉の朝鮮出兵が支持されなかった理由はその無謀さであった。
 日本の何倍も大きく、有史以前から冊封されることもあった中国=当時は明を支配下に置き、日本国内は関白を譲った豊臣秀次に任せ、北京に天皇を移して朝鮮、琉球、越南(ベトナム)、シャム(タイ)、呂宋(ルソン:フィリピン)、天竺(インド)にも君臨せんとの野望は日本史上それまで誰も抱いたことのない、少なくとも声を大にして実行を叫んだことのないことを秀吉は露わにした。
 確かに秀吉は農民の身から一代で関白になったという、「日本史上初の快挙」及び「日本史上最大の立身出世」を成し遂げた偉人であった。
 「余は歴史始まって以来の人間!」と思い上がらない方がおかしいのかもしれない。
 そんな秀吉を尊敬した人物も多いが、そんな人物達ですら無謀と考えた。

   これまた結果論だが、当時の秀吉は思い上がると供に狂いが生じ始めていた。
 明らかにそれまでの秀吉とは人間的に違う面を示し出したのであった。
 朝鮮出兵を前にして、秀吉は異父弟・秀長を亡くし、老齢で得た愛児・鶴松に三歳の幼さで先立たれてしまった。
 以下は朝鮮出兵考案中から自身の死まで秀吉を襲った不幸を表にしたものである。

秀吉を襲った不幸
天正一八(1590)年一月一四日異父妹・朝日姫(徳川家康正室)、聚楽第で病没。
天正一九(1591)年一月二二日異父弟・羽柴秀長薨去。
天正一九(1591)年二月二八日千利休切腹。
天正一九(1591)年八月一日愛児・鶴松夭折。
天正二〇(1592)年三月一日秀吉、眼病を患う。
天正二〇(1592)年七月二二日生母大政所薨去。
天正二〇(1592)年九月九日従軍中の養子・豊臣秀勝、巨済島にて陣病没。
文禄四(1595)年七月八日甥・豊臣秀次を謀反の嫌疑で高野山に追放。
文禄四(1595)年七月一五日豊臣秀次を無理矢理切腹させる。
文禄四(1595)年八月二日秀次の幼子、妻妾約三〇名を京都三条河原で処刑。
文禄五(1596)年七月一三日畿内大地震で伏見城倒壊。
慶長三(1598)年八月一八日豊臣秀吉薨去、享年六三歳

 丸でそれまでの出世の喜びを帳消しにするかのような不幸のオンパレードである
 勿論中には秀頼の誕生(文禄二(1593)年八月三日)といった目出度事もあったのだが、明らかに不幸の方が多かった。

   朝鮮出兵は天正二〇(1592)年四月一二日に第一番隊が釜山に上陸して始まっているので、大政所の死以後の出来事は戦中・戦後に起きたことであったのだが、一説には無謀な朝鮮出兵が断行されたのには、秀吉の良き補佐役で、彼の暴走を止められた異父弟・秀長の病死と愛児鶴松の死が悲しみを忘れようとする為の新たな戦いに駆り立てた−しかし日本は統一されている為に、秀吉の目は海外に向けられた−とも云われている。
 現代社会でも愛する家族の死に遭った人が悲しみに捕われないよう狂った様に仕事に精を出すのは良くある話である。狂った男−それがたまたま時の最高権力者であった−の標的がたまたま海外だった…………勿論そんな時代の偶然で済ませるには当事者の犠牲も後世に与えた影響も大き過ぎたのだが。
 とはいえ歴史上秀吉だけが狂った侵略者だった訳ではなく、この朝鮮出兵を彼の悪政・失政にカウントしても一代の巨人としての彼の名が消え失せる訳ではないし、これ以上彼を悪し様に言っても日本と朝鮮・韓国の現代に溝を作るだけなので、「侵略者」「失政者」としての秀吉を取り上げるのはここで終る。

 だがそれらを抜きにして尚、様々な疑問が湧いて来る。
 人間性云々の問題を無視して、単純に冷酷な侵略者に徹したとしても、一代で日本を統一した秀吉らしからぬ面がいくつも出てくるのである。それを以下に検証したい。



謎一 暴走にムラがあるのは何故か?
 秀吉暴走原因は既に上記に答えを書いたような気がしないでもない。だが肉親の相次ぐ死だけが彼を駆り立てたとは思えない。
 元来秀吉が天下統一に邁進したのは何より「織田信長の夢を引き継ぐ」ということにあった。信長の遺児を改易したりするほど権力を持った彼でも信長に対する敬意は終生忘れなかった。
 そして天下を統一し、国内から戦をなくした上は静かな老後を送ってもおかしくなかった。鶴松を失ったとはいえ、日本国政を秀次に任せる意志はあったのだから。

 確かに東奔西走、生まれてこの方戦いに明け暮れていた秀吉には次の目標が必要だったのかも知れない。
 だが、日本一の大坂城を築き、盛大な茶会や黄金の茶室、世界一の金貨天正大長判を造ったり、と多趣味の秀吉が戦争しか手段を見出せなかったとは思えない。  暴走したといっても秀吉が彼らしさを完全になくした訳では勿論ない。
 秀頼可愛さから甥の秀次を濡れ衣で自害させたといわれているが、最初は秀吉も関白職を継がせた手前、秀次を邪険にはしなかった。秀次の娘と秀頼の婚約を図ったり、他の養子も結城家(秀康)、宇喜多家(秀家)、小早川家(秀秋)、と身の立つように考え、朝鮮出兵時には大将にさえ任じていた。
 良くも悪くも実子・養子に限らず、彼の子煩悩に変わりはなかった。秀次の死は疑心暗鬼に陥った彼の自暴自棄による自滅の色合いが強い(もっとも、残された妻子の惨殺には秀吉の暴走が見られるが)。
 母・大政所の死には昼夜兼行で駆け付け(間に合わなかったが)、継父と折り合いの悪かった彼が如何に母を慕っていたかを窺わせてもいた。

 それゆえに疑問が大きい。

 晩年の秀吉が色々な意味で暴走したのは間違いないが、かと言って秀吉らしさが全くなくなった訳ではない。
 第一、信長はジョークと受け止めていたが、秀吉は信長存命中から海外遠征の意を明らかにしていた(つまり暴走抜きでも朝鮮出兵は有り得た)。
 だが、秀吉程の賢さがあれば海外遠征が如何に無謀なものだったかは自明になりそうなものでこれまた謎である。
 ただの薩摩守の直感なのだが、秀吉の暴走には彼を唆した黒幕がいそうな気がするのだが、動機や利益の件から皆目見当がつかない。
 結果として天下を取った徳川家康辺りが有り得そうなのだが、彼は秀吉の渡海を止めていたのでチョット考え難い。第一、秀吉に取って代わった後のことを考えれば海外に敵はいない方がいいに決まっているので、少々説得力に欠ける。
 前田利家や黒田如水、伊達政宗、島津義弘、上杉景勝等も実力的には行い得ても、それを利用した痕跡が見られない。
 ゆえに直感は直感の域を出ない。
 何が秀吉を暴走させ、暴走した秀吉は何故に無謀な海外侵略を企て、そして結果として起きた事態は何者の描いた筋書きに一番近かったのか?
 恐らくは秀吉に聞くことが出来たとしても答えは出ないのではないだろうか?ただただ巻き込まれた人々に哀れさを感じるのみである。



謎二 国際センスが見えないのは何故か?
 明は、つまり中国は日本のニ十数倍の国土と一〇倍の人口を持つ大国である。
 また古くから中華思想を掲げ、世界の如何なる国も歯牙にかけなかった超大国で、古来日本の為政者達は、敬ったり(孝謙天皇)、朝鮮半島を巡る勢力争いから心ならずも緊張が生まれたり(天智天皇)、政治的事情から国交を断ったり(菅原道真)、その権威を態良く利用したり(聖徳太子・足利義満)した例が散見されるが、正面切って喧嘩を売り、足下に跪かせようとしたのは豊臣秀吉が最初である。

 歴代権力者にしても何も好き好んで歴代中国王朝を立ててきた者ばかりではない。むしろ朝鮮半島やチベット、蒙古、女真族の様にその強大な国力に抗い得ず、下手に出た者が大半であった。
 源頼朝や後白河法皇、後醍醐天皇の様に「眼中我以外人無し」の高飛車人間達は中国と積極的に接した痕跡が見られない。
 「何者にも頭を下げたくない。」という考えに立つなら、中国と向き合わないのは一つの賢明な考えではあった(歴代中華王朝は「対等な外交」など認めなかった)。
 戦国時代を終らせ、天下を統一した秀吉は当然これらの歴史も熟知していたと思われる。そこで疑問なのだが、秀吉は明の国力に対抗し得ると本気で見ていたのだろうか?
「知力並びに知識も人後に落ちないと自負していた秀吉にしちゃあ、明の事を知らなさ過ぎるなぁ…。
 明に限らず歴代中国の王朝が中華思想の伝統から言っても東の果ての小国に跪く筈がない事ぐらい容易に予想出来そうなものなのだが…。」
「いきなり出てくるんじゃない!シルバータイタン(苦笑)。
 中国だけではない、別の時代の話だが、東北地方や九州、琉球、アイヌだってすんなり日本の支配下に入った訳でもなけりゃ、朝鮮・台湾だって兄貴分として立てたのは中国のみ。
 日本なんて中国勢力下における二位争いのライバルの様なもので、「日本に膝を屈する。」ということは「ニ重の屈辱」を国家として味わうことになり、李氏朝鮮としても断固として受け入れ難いものだった訳だ。」
「韓国や北朝鮮ではいまだにこの朝鮮出兵を『壬辰・丁酉倭乱』と呼んでいる。
 つまり(←英語圏で日本人を卑しめて「Jap」と呼ぶ輩がいる様に、漢字文化圏で日本を卑しめて呼ぶ場合に使う当て字。「和」と同じく「日本」を示す)が自分達(李氏朝鮮)に「反」を起こした、日本なんて独立国じゃない、と言っているようなもんだよなぁ。
 無礼だなぁ。」
「ただ、朝鮮人・韓国人の名誉の為に言及しておくと、彼等は日本を特別敵対視していた訳じゃないんだ。
 中国以外に更に別の国にまで膝を屈することをとことん嫌ったんだな。
 後に膝を屈することtなった清が、建国前の時代に満州から朝鮮を侵略した時の戦いを朝鮮では「丁卯・丙子胡乱」と呼んだ。
 つまりは「(えびす)=蛮族」がやはり自分達に「「反」を起こした」としたんだよな。」……あっ、タイタンの奴、腹が減ったんで特撮房に帰りやがった…(苦笑)。

 コホン、ともかく、明の国力、プライドの高さを考えれば戦いを挑んだのはともかく、「頭から屈服させよう。」と考えた秀吉の目論みは解せない。
 秀吉が馬鹿だったのなら分からないでもないが、周知の通り彼は知識・知力供に優れた人物だった。
 負け知らずの経歴が彼を思い上がらせたと取れなくもないが、家康を臣従させた後の秀吉の戦いは「勝つべくして勝った戦い」ばかりで、事前に彼我の力を充分に熟知した上での行動及び勝利だった。
 然るに、この朝鮮出兵に関しては丸で敵を知らなかったが如きの戦いであった。
 実際、秀吉は戦いが始まって予想以上に敵が手強い、と見ると妥協も考えはしたのだ。戦前、戦中を通して秀吉は全くの馬鹿をやっていた訳ではなかった。
 しかしながら「明の実情を全く見ていなかったのでは?」の疑問はどうしても着いてまとう。



謎三 健康と愛児の行く末を考えなかったのは何故か?
 周知の通り、慶長の役の最中、慶長三(1598)年八月一八日に秀吉は没した。風邪をこじらせての病没だが、道場主は小中学生の頃、たいていは敗戦のショックによる発病、と数々の書物で見てきた。
 それを否定するつもりはないが、秀吉の体調不良は戦前から始まっていたことを無視してはいけないと思う。

 朝鮮出兵において秀吉は自ら渡海して戦う気が満々だったが、徳川家康・前田利家のニ大老に止められ、結局一度も渡海していない。
 腹に一物あった家康の本意はともかく、表向きは秀吉の健康を気遣ってのことであった。
 出征時に秀吉は既に五七歳。人生五〇年と言われた時代のこと、老人として気遣われても何の不思議もなかった。そして気遣われる要素もあった。
 まず秀吉は京都から国内の前線基地である肥前名護屋に出立するのを二度も眼病の為に延期していた。
 明らかに秀吉の健康に戦の開始が左右されていたのである。これは秀吉の死に伴って戦が終わったことからも明らかだろう。また休戦中にも一度彼は病んでいる。

 その一方で彼が自らの健康を省みた形跡がない。
 天正二〇(1592)年七月二二日に秀吉の生母・大政所・なかが逝去し、秀吉はその七日後に大坂に着き、八月六日に大政所の葬儀を執り行った。
 これは(戦ではないとはいえ)かなりの強行軍で、行き過ぎはあるものの秀吉は家族想いの人であった証拠とも言える。妹・朝日、弟・秀長、愛児・鶴松に続く母の死が秀吉にとって相当ショックだったことは想像に難くない。
 実際、秀吉が母の危篤を知った当日(奇しくも母は同日この世を去った)、即座に肥前名護屋を発った秀吉は昼夜兼行、たった一週間で大坂に戻った。有名な『中国大返し』が四日間で岡山−姫路間を走破したのと並ぶ、当時の常識外れの早さだったのである。
 軍勢を率いるのよりは早く着くだろうが、それでもとんでもない早さで帰宅(?)したのだ。
 だが、死神は彼を待ってくれなかった。
 悲嘆に暮れた秀吉が名護屋に戻り戦に携わったのはその二ヶ月後の天正二〇(1592)年一〇月のことだった。そして驚くべきことにその一〇ヶ月後の文禄二(1593)年八月三日に次男・秀頼が生まれているのである!計算すると彼は母の喪中に淀殿と睦み合っていた事になる、罰当たりの親不孝者め(笑)。心身の疲労は想像を絶するものがあっただろう(笑)。

 秀吉が再度病んだのは文禄四(1595)年一一月の事である。この間豊臣秀次の切腹と妻子の惨殺刑が行われている。一度は後継者とした血の繋がった甥への仕打ちに心を痛めたゆえだとしたら、秀頼の行く末は案じたものの、自らの健康は省みていなかった様である。
 これらの事を考察すると、タイトルの「愛児の行く末を考えなかった」には少々過言があるが、真に秀頼の行く末を案じるならまず自らの健康が大切だっただろうし、家康や利家への遺託、後々の家臣団の団結への配慮には些かの欠如が認められる。
 余りにも大き過ぎる喜びと悲しみと怒りに正気を保っていられなかったと言えばそれまでかもしれないが、刹那的に感情を迸らせた老雄の姿に涙を禁じ得ず、それ以上にその狂気の犠牲になった人々への涙もまた禁じ得ない。



総論  この時の豊臣秀吉にはどうしてもある種の狂気を感じてしまう。
 勿論戦争は狂気だけによって始められた短絡的なものでもなければ、秀吉が全くの馬鹿になってしまった訳でもなかった。
 こんな無謀な戦にも本気で賛成した人間(出世を狙う小大名・中大名、貿易拡大を狙う豪商・政商達)もいたし、「天下統一過程で大量発生した浪人問題解決の為の合理的な政策だった。」と考える人もいるし、「当時の日本は世界最大の鉄砲保有国で、兵も歴戦の猛者揃いで、建国以来大きな対外戦争を経験していない明・朝鮮に対して勝算は充分にあった。」と分析する人もいる。

 だがそれでもこの『朝鮮出兵』は豊臣秀吉最大にして最後の愚行である、と薩摩守は考えている。
 朝鮮半島にルーツを持つ者として、道場主は秀吉に怒りを覚えるし、今現在日本人として朝鮮・韓国の人々に気まずさも覚える(勿論俺が悪いことをした訳ではないが)。

 だが、だからと言って戦国の世を終らせるのに貢献し、兵農分離で一般市民から武器を捨てさせた豊臣秀吉の歴史的功績まで無視する気は毛頭無い。
 彼が一代の傑物にして、魅力ある人物であったとの認識は些かも揺らがないし、過剰な程家族想いであった事実も重んじている。
 はっきり言って同じ「侵略者として韓国で嫌われている日本人」を並べた場合、神功皇后・藤原仲麻呂・伊藤博文・山県有朋等よりよっぽど好きな人物である。
 それだけにこの狂気に振り回されたすべての日朝(勿論明も含む)両国の人々に悲しみを覚えると供に、祖国の為に必死に戦った人々の想いと歴史の実体を正しく理解し、偏見と敵対心に満ちた過去に振り回されず、真の日朝・日韓の友好を深める事が長い歴史の中で犠牲になった人々への何よりの供養ではないかと思う。
 草葉の陰で豊臣秀吉も侵略を、心底悔い、詫びている事と信じたい。



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最終更新 平成二七(2015)年七月二日