結論 不幸な歴史から何を学ぶか?

   豊臣秀吉の朝鮮出兵は日本と朝鮮王国双方にとって不幸な歴史となった(当たり前だが)。秀吉は今でも朝鮮半島において伊藤博文と並んで最も嫌われている日本人の一人である。
 だが、泣き言を言っていても始まらない。二一世紀に生きる私達が重んじるべきは、不幸な過去をテーマにした罵り合いより、正しい相互理解による友好交流である。道場主は平成二七(2015)年七月現在、42歳。四〇〇年以上も前の人間の恨みつらみは勿論、半世紀以上前の不幸な歴史だってとやかく言うつもりは全くない。
 むしろ憎むべきは、不幸な歴史をネタに相手の過去の非をあげつらう事で、現在の自己の利益につなげようとする薄汚い連中(勿論国籍不問)である!

 同じ日本の戦争被害を受けた国でも中華人民共和国は周恩来総理(当時)が「日中双方の国が戦争に苦しんだのです。数十年の不幸な歴史など、二〇〇〇年の友好に比べれば何でもありません。」と言って戦犯・捕虜三〇〇〇名の即時釈放と、日本に戦後賠償を求めない事を決定した。
 中国人の名誉の為に付記するが道場主の尊敬する周総理だけが偉かったのではない。最終的にこれは中国共産党として決定した事項であるし、一般民衆の中にも日本軍人の被害を受けて、自分達が食べていくのも苦しい状態で、取り残された日本人孤児達を家族として育てた立派な中国人も大勢いた事を忘れてはならない。
 余談だが、道場主の中学時代の恩師の母上(故人)は戦時中、満州にいた。彼女が日本へ引き上げる際にまず行った事が、髪の毛を剃り落として男装する事だった。中国人達の報復で命を落とす事は覚悟できても、女性であるが故に「報復」の名を借りた凌辱を受けることを恐れた為である。
 つまるところ、国民感情としては報復の為に暴徒と化した人々が少なくなかったのである。そんな中で損得・好悪無関係でただただか弱き命を護った多くの人々がいることが素晴らしいのである。

 勿論現在日本で数々の悪事を働いてつかまった際に「戦時中の日本のやった事を思えば…。」と開き直るアホンダラぁ供は中国人・韓国人・朝鮮人である前に人として論外である。
 だが、朝鮮人・韓国人の中にはいまだに謝罪・賠償を口にする輩が後を断たない。殊に韓国では日韓基本協約締結時に日本側から申し出た個人への賠償を拒否し、賠償替わりに国家予算三年分の援助を得たことを国民にしっかり説明していないことも良くない面としてある訳だが、それ以上に大切な未来を見据える心構えが足りないからではなかろうか?(←直接被害を受けた方々には惨い言い方だが、少なくとも戦後何十年も経ってから生まれた者達にまで負の感情を引きずらせる必然性は全くない)。

 世界の情報化に伴って無知による偏見はかなり軽減されてきた。喜ばしい事である。だが、その一方で自己の都合で取捨選択した情報を自己の都合で流したり流さなかったりで、自己都合の情報操作をする連中も出てきた。
 特に性質が悪いのは、「自分に都合のいい情報」を「ネットゆえに出て来た真実」とし、「自分に都合の悪い情報」を「身元を隠せるネットゆえに出て来たでっち上げ」と解釈し、知らず知らずの内に間違った情報を「本人は真実と思い込んでいるケース」である。
 勿論薩摩守も道場主も専門の政治家でもなければ歴史学者でもなければ外交官でもない。戦国房に記載していることすべてが正しい自信はないし、今現在信じている事の中にも、「誤り」や「過去の権力者が為したでっち上げ」を「真実」と思い込んでいる可能性はあるだろう(無かったとしてもそれを証明出来ない)。
 決して、偉そうなことは述べられないが、せめて自らが取り上げてきたこのサイトの内容に関して得た結論を今後の世界の為にまとめておきたい。
 それを考える上においてはこの朝鮮出兵だけではなく、その後の日朝・日韓の交  流史も考える必要がある。そこで以下の三点を訴えたい。

正しい豊臣秀吉像を。
 冒頭でも触れたが、豊臣秀吉は朝鮮人・韓国人が嫌う日本史上人物の二大双璧の片翼である。
 秀吉が嫌われるのは言い訳しても始まらない。だが、道場主に言わせると岩倉具視や山県有朋等の方が侵略者を何とも思わない国際社会の敵であるだけでなく、人間的にも遥かに唾棄すべき連中である。
 秀吉が海外に侵略の魔手を伸ばそうとしたのは単純に自らの力をどこまでも伸ばそうとした行為の様に思える。勿論これは彼が結果として「侵略」した事を弁護したい訳ではない。
 貧農の子から天下を取った秀吉が自らが得た力を自らで御し切れなくなっていたのではないか?という考察を理解して頂きたいだけである。勿論理由がどうあれ、秀吉が為した侵略自体は韓国人・朝鮮人に大いに怒られて然るべきである。

 ただしっかり認識しなければいけないのは、秀吉以前にも神話の時代から朝鮮半島に武力を向けた日本の権力者は何人もいたのに、何ゆえに秀吉が最も注目され、最も嫌われているか?である。
 それは取りも直さず、開戦初期の「戦果」にあるのではあるまいか?単純に考えて嫌われ度にはその被った被害度に比例する面がある。

 例えば貴方がいきなり通り魔に襲われた場合、事件後に相手が謝ってきた際に、負わされた傷が「かすり傷」か「重傷」かでは許せるかどうかが大きく左右されるだろう。
 怪我することなく相手の撃退に成功し、尚且つ相手が心から誠意ある謝罪をし、真面目に刑罰に服せば頭ごなしに怒鳴りつける人も少ないだろう。
 反対に二度と起き上がれない体にされた上に大切な身内の命が奪われ、しかも相手が捕まって尚反省や悔悛の情を見せなかったとしたら億兆の賠償金を積まれ、被告が極刑に処されようとも許せるものではないだろう。
 つまるところ、秀吉の出兵も極端な話、上陸三日目で朝鮮軍にあっさり撃退されて戦死者も極少で、秀吉が明を仲介にとした謝罪・賠償に転じていたとしたら、然程憎まれる存在になっていなかっただろう、ということである。

 その点、秀吉以前に朝鮮半島に向けられた軍勢はその大半が話にならない惨敗を喫し、企画倒れも少なくなかった。秀吉の侵略も最終的には失敗に終わったが、戦初では一気呵成の快進撃を見せ、官民を問わず李氏朝鮮社会に大きな打撃を与えた。実際に渡海して戦った武将達の中でも加藤清正や島津義弘等が鬼の様に恐れられ、嫌われている所にもそれはうかがえよう。
 私達日本人が一般知識として、元寇の時の、元の皇帝がフビライ=カーンであることは知っていても、元軍の現場総大将の名前など存じていない事とも比べて欲しい。

 秀吉が大きく嫌われている理由の一つに明治時代の日本の「大陸進出」を盛り立てた国策がある。
 江戸時代には徳川家を立てるために崇め奉る事が禁止された秀吉だったが、明治新政府によって大陸進出政策の元、縁起の良いシンボルとしてもてはやされたのである。勿論緒戦の連戦連勝が注目されたのだ。
   そのイメージを盛り上げる為、華族の中でも先祖が豊臣恩顧の大名だった血筋を中心に、「豊国会」という団体が結成され、黒田長成公爵が会長に納まった。主だったメンバーは前田、浅野、蜂須賀家等の当主達であった。

 日本で言う「進出」は当然、朝鮮半島側では「侵略」である。
 豊臣秀吉にあやかって大陸に武力を向けたのだから、日本人は当然当事者たる朝鮮人達によって嫌われ、それに伴って秀吉の「悪名」もフラッシュバックした事だろう。
 ましてや同じ王朝=李氏朝鮮なのである。時の両班の中にも豊臣軍に討たれた者がいたわけだから、儒教思想の強い朝鮮半島では何代かかっても討たねばならない仇の名を崇める連中がやって来たことになったのである。

 つまり豊臣秀吉が極端に嫌われるのには彼の期せざる所で侵略の象徴にまつりあげられ、問答無用の侵略者としての再認識を朝鮮・韓国人達の脳裏に与えてしまった事にあるといえるだろう。
 朝鮮・韓国の人達には侵略の事実は事実として、秀吉のことを好きになって欲しいとまでは言わないが、秀吉が心底日本から戦をなくそうとし、その為には敬愛する母を人質にまで出して徳川家康と事を構えることを避けたり、慶長の役では可愛がっていた養子の小早川秀秋が自ら抜刀して女子供を手にかけた事に激怒して彼を左遷した上に、耳塚を造って供養に努めた面も持っていたことを認識して頂ければと思う。
 それを認識した上で、問答無用に豊臣秀吉を「ただの侵略者」として嫌う人々には薩摩守はもう何も言わない。
 世の中には自分が人を殺しても一辺の罪悪感も感じないのに人から被った害はかすり傷一つでも骨髄まで恨みぬく人間も残念ながら存在するのだから。



正しい交流史認識を。
 まず述べたいのは豊臣秀吉の朝鮮出兵は天正二〇(1592)年四月〜慶長三(1598)年一〇月の六年半の不幸な歴史で、戦争していた期間より短い五年しか経過しない内に正式に日本の支配者は交代(勿論豊臣から徳川へ)し、翌年慶長九(1604)年八月には日本軍とも戦った義僧兵将・惟政(ユ・ジョン、い・せい)が日本に向かい、翌年の正月に徳川家康・将軍就任を目前にした徳川秀忠と会見し、捕虜三〇〇〇名が故郷の土を踏むこととなった、という史実である。
 慶長一二(1607)年正月、四六〇名からなる通信使が朝鮮を出発し、五月六日に江戸城で将軍・秀忠と国書を交換し、正式な国交が回復した。
 つまり「豊臣秀吉による侵略戦争」とは、武士の時代という長いスタンスで見た「僅かな例外」であることを認識して欲しいのである。

 それに引き換え明治新政府の態度は褒められたものじゃない。  超大国と見ていた清国がアヘン戦争、アロー戦争で英仏に敗れ、日本人は「脱亜入欧」を目指すようになった。
 化学や産業が一歩も二歩も進んでいた当時の欧米を参考にし、自国の産業を発達させようとし、これに成功したこと事自体は大いに誇っていいことである。
 しかしだからといって当時の欧米の世界観で、「遅れた地域」となったアジアを見下すようになったのはいただけない。
 どうも明治から昭和初期の日本には強者から受けた痛みを知った時にそれを劣悪視して他者に及ぼさない様にするのではなく、自分より弱者に向けて優越感に浸る、良くない面が強かった様である。

 中国革命の父・孫文は日露戦争に勝利した日本に欧米列強のアジア支配に抵抗する象徴としての日本を期待したが、逆に日本はその欧米列強のアジア支配の方に同調してしまっただ。
 当時フランスの植民地だったベトナムは「日本に学ばん。」として多くの留学生を送った(東遊運動)が、日本はフランスの要請に応じてベトナム人留学生を拒絶した。こうなっては悪い意味で欧米化したと言っても反論出来ないだろう。

 今度は日本人の名誉の為に言っておくが、日本は自分達より進んでいた当時の欧米を参考にはしたが、決して媚び諂ってはいない。現代の官僚の方がよっぽどアメリカに諂っていると言えるだろう。そして欧米に対抗する為にアジアのリーダーを目指したわけだが、そこに独り善がりが過ぎた感があるのだ。
 その証拠になるかどうかは何とも言えないが、日本人は世界で最初に人種差別撤廃を国際会議の場で提起しており、五族協和(日本・朝鮮・漢・満州・蒙古の五民族の協和)をスローガンとしていた日本人はその大半が建て前だったが、本気で考えていた人々も間違いなく存在した。
 ソウル大学は日韓併合中は帝国大学の一つに数えられていた。満州国を傀儡としていた黒幕の関東軍を除けば満州国皇帝溥儀は日本人からも本気の敬意を受けていた。悪名高い日韓併合の中でも「日本」となった韓国の発展に本気で取り組んだ人々もいた。
 勿論侵略を考えた奴、それを利用して大儲けしようと考えた奴、尚且つそこに侵略される側の痛みを全く考えない輩は「悪人」である(当時の価値観でそうでなかったしても、現代の価値観から見て決して気分の良いものではない)。
 少なくとも当事国の人々に恨まれるのは当たり前である。しかしそんな中にあっても悪意なく本気で両国のことを考えた人々、事後に恨みを捨てて関係修復に努めた人々の事を無視するのは褒められた話ではないだろう。

 いつまでも過去の戦争にこだわって両国の友好に水を差す行為は戦争で散った多くの尊い犠牲並びに戦前戦後の友好に尽くした人々をも愚弄する行為と考えるが如何なものだろうか?
 祖国を守る為に立ち上がった惟政が、一方では祖国を守る為に日本との関係修繕にも尽力した事を日本人・朝鮮人・韓国人のすべての人々が忘れないで欲しい。
 李舜臣を「日本と戦った将軍」と言うよりは「侵略と戦った将軍」として敬って欲しいものである。
 正しい交流史認識の為にも、今後の友好の為にも、平成一〇(1998)年には「壬乱終戦400周年記念・日韓後孫親善会」 などという回も行われたことも知って欲しいと思う(※以前はその交流を詳細に描いたサイトがあり、それをリンクさせていましたが、現在ではなくなってしまいました)
 この会では、激しく戦った当事者達の子孫同士が御先祖のそれぞれの信念の元に戦った信念は信念として尊びつつ、両国の悲劇を深く哀悼し、それを乗り越えた和解と友好を約束し合ったのである。
 いつまでもこの不幸な歴史をネタに朝鮮人・韓国人を罵る日本人、日本人を罵る朝鮮人・韓国人の双方に「外野が何をかいわんや。」と言ってやりたい。



悪人より悪事に注目を。
 早い話、「罪を憎んで人を憎まず。」という一般論を重んじて欲しいという事である。そして言い換えれば非難の声は国家や政治家にこそ向けれど、民族に向けて欲しくない,と言うことでもある。確かに難しいことであるのは百も承知なのだが……。
 道場主がこのサイトを作っていた平成一五(2003)年3月に、アメリカ合衆国ブッシュ大統領(当時)が「大量破壊兵器を隠し持つ独裁者を成敗し、圧政から民衆を解放する。」という胡散臭い大義名分を掲げて始めた対イラク戦争は、フセイン体制を打倒し、元大統領サダム・フセインを拘束し、彼を処刑するに及んだ。
 だが、結局大義名分の一つであった「大量破壊兵器」は存在せず、フセインが倒れたにもかかわらず、反米運動は沈静化するどころか激化の一途を辿っている(平成二七(2015)年七月三日現在)。
 ブッシュがどう言いつくろうと大量破壊兵器も発見されず、石油利権やイスラエル贔屓が生み出したこじ付け侵略である事は見え見えで、供に兵を出している国々でも国家はアメリカにお追従しても国民の多くは反発している。

 だが哀しいかな、国家と国民を別個に憎む事は難しい。被害を受けた側が、加害を為した側に対してわざわざそこまで配慮・考慮しないからだ。
 特に民主主義国家では悪い政治家が生まれている事には国民にも責任があるのだから。それでもイラクの人々にはアメリカ人までをも嫌いになって欲しくはない。

 同じ事をすべての戦争と犯罪に対して言いたい。
 日本でも不法滞在する外国人による犯罪が後を絶たず、狂信的な宗教信者によるテロの可能性も否定できない。しかしだからと言って特定の国籍の人を恨むことや特定の宗教を敵視する事は筋違いである。悪事を働いた個人及び組織を処罰・スポイルすればいいわけであって何の罪もない人々を敵視する態度が正しいとは誰にも言えまい。
 何より歴史・政治・文化・風習・言語を乗り越えて古今東西様々な国籍の人々が様々な国籍の人々と交流し、中には恋愛関係に落ちて子孫をなすことも多い事実を見て欲しい。人間と人間が心から交流すれば国の問題など基本的に知ったこっちゃないのである。
 人と人が友好を深め、愛し合うことが出きるように逆を言えば歴史・政治・文化・風習・言語が一致しても憎み、敵対する間柄もある。ある国の人間と個人として知り合った結果その人間が気に入らざる人間でその国籍に偏見を持つこともあるだろうし、逆もあるだろう。だがそんな主観もなく、薄っぺらな知識だけで特定の国の人間と言うだけで憎悪することにだけは異議を唱えたい。

 朝鮮出兵も日韓併合も日本が朝鮮半島に対して心痛む哀しい歴史である。しかしそれが為に今現在の我々が悪し様に言われたり、責任・謝罪を求められたりする謂われは無いし、我々自身にそれに引き摺られて友好を保てなかったとしたらその方が恥ずべき哀しき事ではあるまいか。



結論の結論
 李舜臣という名の英雄がいる。讒言に負けず侵略に立ち向かい、それを撃退しながら自らは壮絶な戦死を遂げ、それでも国を思い続けた非の打ち所のない救国の英雄である。恐らく彼の名は朝鮮半島の歴史に永遠に刻み続けられることだろう。

 だが、李舜臣を一個人として考えた場合、彼の老いた母は彼の命を引き換えにした名声と無冠でも供にいて老いた身を養ってくれることと、どちらを望んだことだろう?舜臣は秀吉が既に息を引き取り、日本軍が撤退にかかりそれを追撃した最後の戦いで戦死した。一日生き延びれば彼は生きてその身に歓呼の声を浴びることができ、更なる出世も図れたのである。その悲劇は英雄としての舜臣の名をより一層高めている。

 このことを考えれば日本の侵略がなければ李舜臣の名は歴史に埋没していたことだろう。
 英雄が生まれたのは時代が英雄を必要としたからである。日本でも楠木正成が大忠臣と呼ばれるのは時代に翻弄された人々が忠義を貫き辛い立場に負い込まれていたからでもある。
 すべての武士が朝廷に忠義を誓い、南北に分かれていなければ正成は田舎の一部将としてその名が歴史に轟くこともなかっただろう。
 歴史の苦難が与える栄誉と平和な治世が与える安寧とどちらを幸せとするかが人次第なら、どちらがやってきてもそれに応じた対処をするのもまた人である。名声の裏に潜む、個人を英雄たらしむ悲劇的要素を重んじることも大切であると訴えたい。


 最後に。
 道場主は韓国系日本人である。
 日本に生まれ、韓国の文化・風習を日本語で教えられて、一部例外を除いて身内の大半は韓国人、しかし友人・知人の大半は日本人という社会で育った。
 ただでさえ、朝鮮半島にいる同胞からは「在日」と呼ばれ、日本人社会では「外国人」だったのである。日本国籍に帰化して十数年以上経つが、別段何が変わったとも思っていない。

 だが、万が一、日本と朝鮮・韓国の間に諍いが起きた時には、双方から完全には信頼されず、どちらに非があっても心が痛むのである。どちらが勝っても完全に喜ぶことは有り得ないのである(外国人嫌いの日本人に「帰化してもお前は韓国人だ!」と言われたこともあれば、韓国人に「祖国の裏切り者!」と罵られたこともある)。
 そんな道場主にとって大切なのは個人的な知り合いである。
 友の大半は日本人で、愛した女性はすべて日本人である。
 ブラジルに住む日系人は日本とブラジルの関係が悪化すれば世界の誰よりも悲しむだろう。道場主の様に日本に帰化した韓国人及び在日朝鮮人・在日韓国人、そして在韓日本人、在朝日本人が世界で最も日朝・日韓の友好を望んでいることを改めて訴えたい。
平成二七(2015)年七月三日 道場主



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平成二七(2015)年七月三日 最終更新