大坂の陣

大坂の陣

歴史に埋もれた五人の惜将





明石掃部守全登(あかし・かもんのかみ・てるずみ ?〜慶長二〇(1615)年?)
概略  大坂の陣に参加した武将の中にあって最も謎の多い武将にしてキリシタンでもあった。
 宇喜多秀家の家老(姉婿でもある)として関ヶ原の戦いに参戦したが、西軍の敗北により、宇喜多家は当主秀家が八丈島に流され、家は取り潰され、全登自身は島津隊同様の敵中突破を敢行し、その後黒田家に一時匿われたが、消息を絶った。

 大名格の武将の中では最も早く大坂城に入城。その条件は「信仰の自由を認める事」であり、全登の他にも江戸幕府のキリスト教禁教の元、信仰ゆえに仕官の道を失った者、信仰の自由を求めて豊臣方について徳川と戦わんとした者は多かった。また、豊臣側としてもキリシタン勢力を当てにしていたことは間違いない。
 城内では七人衆の一人に数えられた(他の六名は真田幸村、毛利勝永、木村重成、大野治房、長宗我部盛親、後藤又兵衛)。真田、毛利と連携した作戦と展開し、夏の陣において秀頼の出馬による一発逆転で家康の首を上げることを目指すが、失敗に終わり、五月七日に真田幸村が戦死する中、行方を絶ち、歴史から姿を消した。
罪状/汚名 禁教令無視・戦場離脱
弁護/見直すべき点  幕府サイドから見ればこの明石掃部は関ヶ原の戦いで宇喜多家取り潰し後も逃亡を繰り返し、更には禁教となったキリスト教の信仰を続け、あまつさえ、謀反人・豊臣秀頼に味方した、と云う何処までも徳川家に盾突いた人間と云う事になります。

 また世間一般の視線で見れば、主家であった宇喜多家と運命を共にせず、大坂の陣においていも一人逃亡して武士らしく戦場に散らなかった、との非難点があるようです。
 ではここで明石全登という人物の人となりを見ながら、認めるべき点について論述しましょう。

 まず、宇喜多家との関連ですが、関ヶ原の戦いで小早川秀秋の裏切りで総崩れになる西軍にあって、若大将・秀家は戦場に散る覚悟だったのを落ちて再起を期すよう説得したのがこの全登でした。
 彼は何処までもクリスチャンでした
 当然キリスト教の教義上、自害は厳禁です。彼が大坂で多くの武将が武士らしく散り、豊臣母子が豊家の名誉に殉じ、徳川軍が執拗な落ち武者狩りを行った状況でも最後まで逃げ切ったのもすべては信仰に裏打ちされています。

 ここで見るべきは全登が決して節操無き流浪の将でもなければ、単純に死を恐れて逃げ回る臆病者でもない、と云う事です。
 関ヶ原では主君秀家の死を思い止まらせ(結果として宇喜多秀家は関ヶ原に参陣した誰より長生きした)、秀頼にしても彼が薩摩まで同行して逃げ延びさせた、との伝説もあります。
 信仰上、自害が出来なかったのは勿論ですが、争うのを恐れるなら高山右近の様に国外追放を受け入れる、と云う選択肢も当時はありました。「最後の最後まで諦めない性格だった。」と見るべきかと思います。
 以上にて弁護を終了します。


薄田隼人正兼相(すすきだ・はやとのかみ・かねすけ ?〜慶長二〇(1615)年五月六日)
概略  講談のヒーロー、狒々退治の岩見重太郎のモデルとされる怪力の猛将。豊臣家の馬廻り衆に薄田氏があり、この一族であろうと思われるが詳細は不明。

 冬の陣において遊郭遊びをしているときに部署である博労ヶ淵の砦を攻められ、徳川方の奇襲に対応出来ず、その過失から、「橙武者」の汚名を受けた。
 「橙」は正月の鏡餅の飾りのことで、見栄えはいいが、飾り物以外の役に立たないとの意であった。
 雪辱に燃えた兼相は五月七日に奮戦の末に討死。その壮絶な武者振りで橙武者の汚名を雪いだ。
罪状/汚名「橙武者」 ・職務怠慢 ・酒と女にだらしない
弁護/見直すべき点 酒と女にだらしが無かった点については同情の余地はあっても弁解の余地はありませんが、猛将としての薄田隼人はそれ以上に重視されるべきかと考えます。
 件の遊郭遊びには、実は大阪城内No.2の大野治長の末弟・道犬斎治胤も同席し、共に汚名を食らいました。
 しかしながらその後、堺放火などのより大きな悪名で「橙武者」のレッテルを忘れられた道犬斎に比して、隼人は元々勇猛振りが「有名」ゆえに「汚名」も広く喧伝したと見るべきではないでしょうか?

 薄田隼人が講談の主人公となりえた「史実」に彼が三尺七寸の野太刀を振るっていた、「大坂随一」と称された団右衛門以上の怪力振りが上げられます。
 大猿の化け物である狒々を退治した人物に例えられるのはそれなりのモデルとなる根拠があるのです。

 最後に挙げたいのは汚名を雪いだ彼の勇猛振りです。
 酒の上での失敗は彼の規律面での名は下げたでしょうけれど、勇猛振りまで下げたものではありません。薄田隼人は既に後藤又兵衛が討ち死にして、豊臣勢が総崩れになる中で奮戦した果てに、水野勝成の軍勢に討たれました。
 水野家は徳川家康の生母・於大の実家にして、その家柄ゆえに徳川の治世下でも重きを為した家柄です。当然大坂の陣でも重要な激戦地を任され、その中での討ち死には華々しいものとして薄田隼人佐兼相の最期を飾ったと云えるでしょう。
 以上にて弁護を終了します。


長宗我部土佐守盛親(ちょうそがべ・もりちか 天正三(1575)年〜慶長二〇(1615)五月一五日)
概略  幼名は千熊丸で、通称は右衛門太郎土佐守宮内少輔
 長宗我部元親の嫡男に生まれ、関ヶ原の戦いで西軍につき、敗戦後、土佐戸浦城にて井伊直政の執り成しによる保身を図るも、改易に処せられ、所領を失った。
 その後剃髪し、大岩祐夢と称して洛中に浪人生活を送り、寺子屋を開業して生計を立てていた。

 大坂の陣に際し、「土佐一国拝領」を条件に大坂に入城。真田幸村同様、徳川方は彼が大坂方につくのを警戒して監視の目を光らせていたが、数人連れで歩き出したところに旧臣達が続々と集結し、最後には二〇〇〇人を数える一隊となる方法で巧みに妨害を排して大坂入城を果たした。
 冬の陣では井伊直孝の赤備え隊と対陣。夏の陣では道明寺口に藤堂勢と奮戦。大勝利を収めるも、戦局不利を見て、土佐以来の旧臣に落ち延びるよう下知したとの説がある。

 戦後執拗に生き残りを図るも芦原で捕えられ、二条城玄関に縛られた。島津家久、井伊直孝の好意を受け、如何様に罵られても、最後まで希望を捨てず命を惜しんだが、出家願いも聞き入れられず、五月一五日に六条河原に斬首された。
罪状/汚名 戦場離脱 ・みっともないほどの命乞い
弁護/見直すべき点  明石全登並みの命への執着振りが伺えますね。「潔さ」と云う観点で見てしまえば「臆病者」との烙印を押したくなりますが、まずは寺子屋の先生としてのそれなりに充実した生活を捨てて、旧領回復のために不利な戦場に立った事実に注目しましょう。

 まあ、盛親の執念を「諦めが悪い」「潔くない」の一言で片付けてしまえば議論も検証もなくなってしまいますが、そもそもが関ヶ原でろくに戦えないまま敗戦・改易を迎えてしまった事も見落としてはいけないでしょう。
 関ヶ原では長宗我部勢は南宮山に陣し、陣前の吉川広家軍が家康と通じていて動けなかったために戦らしい戦も出来ずに改易まで追い込まれた無念もあったでしょう(つまりやるだけのことをやれずに改易になった無念があった)。

 実際に大坂の陣では大名格として二万、と云う比較的多い軍勢を率いて藤堂高虎勢と戦った盛親は藤堂勢を全滅寸前まで追い込みました。
 藤堂高虎は世渡りがうまく、武より知を重視する謀将のイメージがあります。それは間違いではないのですが、逆を云えば負ける戦のしない男で、関ヶ原でも大谷吉継の精兵を相手に劣勢ながらも良く戦い、小早川達の裏切りにも上手く付け込んだ。そんな戦上手の藤堂勢相手の善戦した事実はもっと目を向けられて然るべきでしょう。

 最後に挙げたいのは「出家するから」とまで云って生き残ろうとした執念ですが、これは冒頭に出していますし、「最後まで諦めない立派な根性」と見るか「武士の潔さがない奴」と見るかで評価が二分しますので、薩摩守としてはその意志の強さを買いたい、とだけ申し上げておきましょう。
 以上にて弁護を終了します。


塙団右衛門直之(ばん・だんえもん・なおゆき 永禄一〇(1567)〜慶長二〇(1615)年四月二九日)
概略  道場主の最も愛好する武将で、その(勝手につけた役所に未提出の)ミドルネームや大黒摩季さんを応援するネットの世界や楽曲房番人としてのハンドルネーム等に道場主の仮の名として利用させて貰っている。

 余談はさておき、彼もまた講談で有名な漢であり、岩見重太郎とともに狒々退治をした、との伝説を持つ。
 遠州の人とも尾張の人とも伝えられるが、生まれついての巨躯を誇り、少年期に豊臣秀吉の子飼いの部下にして、賤ヶ岳の七本槍の一人として名高い加藤嘉明に小姓として仕え、朝鮮出兵では苦戦続きの日本水軍の中で、嘉明とともに奮戦し、敵船を奪取したり、陸上にあっては日の丸を背負って褌一兆で縦横無尽に暴れまわったりもした。

 しかし、関ヶ原の戦いで、後詰の鉄砲大将でありながら、軍令を無視して突撃したために、嘉明と仲違いをして出奔。怒り心頭の嘉明のため奉公構い(他の大名家に個人を不届き者として仕官させない様に手を回すこと)にされた。
 小早川秀秋、松平忠吉(家康の四男)に仕えるが、二人とも子を為す前に若くして病死したため改易され、福島正則に手厚く迎えられたが、同僚だった嘉明の干渉で四度浪人した。

 その後京都・妙心寺で臨済宗の禅僧鉄牛として過ごしたり、水戸の肥田志摩の元で居候したりするが、大坂の陣に際して、「己は一生、大将としての采配など振るえまい。」と侮辱した旧主・加藤嘉明を見返すことを目的に大坂方についた。

 大野治房(秀頼側近の大野治長の次弟)の部将として、冬の陣では船場で蜂須賀隊に見事な夜襲を敢行し、『夜討ちの大将塙団右衛門の木札をばら撒いて、一夜にして敵味方に名を上げた。

 夏の陣では和歌山方面へ出撃中に日頃不仲だった岡部大學則綱が先陣を抜け駆けしたのに腹を立て、僅かな人数で浅野勢二〇〇〇の中に突撃し、樫井(現:大阪府泉佐野市南中樫井)で浅野勢の側面射撃を受け、膝に亀田高綱の部下の多胡某が強弓で放った矢を受け、亀田、八木新左右衛門、上田宗古等を同時に相手にする奮戦の果てに壮絶な討死を遂げた。

 決死の突撃に閉口した浅野勢は。団右衛門の首級をもって戦果充分、として和歌山に引き返した。
 その奮闘ぶりのためか、戦後、浅野家では誰が団右衛門の首を取ったかでもめにもめ、亀田は浅野家を辞し、八木は団右衛門の墓を建て、江戸時代初期には、団右衛門の墓の前を通った心有る武士は皆、下馬して礼をしたと伝えられる。
罪状/汚名酒乱 ・脱藩 ・無鉄砲 ・軍令違反 ・生臭坊主
弁護/見直すべき点 さすがに量が多過ぎてまともに書くとそれだけで一つのサイトになりかねない(苦笑)、それだけ道場主は団右衛門の事を調べている。
 まず、いの一番に挙げたいのは、彼のすべての欠点は彼の「生き様にあった」ということです。
 団右衛門はある年の正月に愛宕権現で「何卒悪事災難の場に引き合わせたまえ。」と祈願し、訝しがる同僚に「わしは戦場での槍働きしかできない男」と云ったとのことですが、実際はそういう生き方しか「出来ない」のではなく、そういう生き方を「した」男だということです。

 団右衛門は加藤家出奔の際に嘉明宛に皮肉の聞いた漢詩を残しており、当時の軽輩武将にしては珍しく詩書に通じていました。
 彼の死後、息子の直胤は福島家に仕え、福島家改易後は母方の「櫻井」を名乗り、商人として成功を収め、子孫は現在に至っています。団右衛門には豪傑以外に生きる道がありながら、一番好きな豪傑の道を選び、豪傑らしく散ったのです。彼の最期である先陣争いはその際たるものでした。

 一つ、団右衛門の見るべき点を挙げるために、「類は友を呼ぶ」の言葉に沿って一つの交友関係を紹介したいと思います。
 それは臨済宗妙心寺の僧で、団右衛門の師匠・大竜和尚(「海山元珠」とも云う)という人物です。
 大竜和尚は団右衛門に「鉄牛」の名を与え、ある日葬儀に遅刻してきた生臭坊主・団右衛門を叱ったところ、団右衛門が「貴方は大竜、そして私は鉄牛(だから遅いのですよ)」と云う意の漢詩に「上手いこという奴だ。」と褒めて許すユーモアある人物でした。
 一方で、大坂の陣に際して、豊臣秀頼の再建した法広寺の鐘銘に有名な「国家安康 君臣豊楽」の字が家康を呪っている、という問題が生じた際にも五山の僧がことごとく幕府におもねる中で、唯一人「是非無きひが事(くだらん云いがかり)」と云い切った硬骨漢でもありました。

 これは想像にしか過ぎませんが、武士らしい最期と男の意地の発揮所を求めて敢えて不利な戦陣に身を置く団右衛門にとって、権力者の云い掛かりと戦う、という「大儀」を与えてくれた師の言葉はどれほど団右衛門の心の支えとなった事でしょう。
 また冒頭にも挙げましたが、団右衛門の首は浅野家中に洒落にならない巧妙争いを生み、まだまだ「豊臣」の名が悪とされた御時世に早くも墓に下馬をして礼をする侍たちがいた事にも彼の名の大きさが伺えるでしょう。
 まだまだ書きたい事はありますが、贔屓第一の武将ゆえに「褒め過ぎ」になる事を用心し、以上にて弁護を終了します(←既に充分べた褒めしている気が…………(苦笑))。


御宿勘兵衛政友(みしゅく・かんべえ・まさとも 永禄一〇(1567)〜慶長二〇(1615)年五月七日
概略  自称・越前守。小田原北条氏の浪人の出自で信友か葛山友綱の子かと伝えられているが、不明。
 今川、武田と属し、駿河千福城を守ったが、武田氏滅亡後、徳川家康の次男・結城秀康に仕えるも、次代・松平忠直と仲違いし、浪人した。

 大坂の陣に際して、豊臣家と戦勝の暁には「越前(松平忠直家の領土)一国を恩賞とすること」を約束に入城。主君と仲違いして主家を出奔したことや旧主を見返すことを目的としている経緯が似ているためか、塙団右衛門・後藤又兵衛と意気投合した。慶長二〇(1615)年五月七日、岡山口から軍議の為に茶臼山に向かう途中で討死。
罪状/汚名 脱藩 ・移動中の無様な死 ・身分詐称(詳細後述)
弁護/見直すべき点  恐らくここに名前の出ている五人の中では知名度において一番低い場にある人物と思います。何分行動パターンが団右衛門に酷似しているために団右衛門の影に隠れ勝ちで、詳細を伝える資料も余り見当たらないのですが、団右衛門贔屓としては勘兵衛をこのまま捨て置けず(笑)、このサイトでは団右衛門似の人物として、「意地の張り方」に注目します。

 まず注目すべきは「自称・越前守」と云う点です。
 「越前守」とは勘兵衛が仲違い・出奔した主君・松平忠直の所領を治める官職で、旗本格にさえ至っていない勘兵衛が「自称」することは「詐称」と云われても文句の云えないほど身分を無視した行為でした。

 勘兵衛同様に主君と仲違いした団右衛門や又兵衛さえも左馬之助(加藤嘉明の官名)、甲斐守(黒田長政の官名)、伊予守(当時の加藤家の所領)、筑前守(黒田家の所領)を自称したりはしていません。
 それほど勘兵衛の松平忠直に対する「見返してやる!」の念は団右衛門の夜討ちに劣らぬものがありました。

 惜しむらくは団右衛門ほどには名誉挽回の場を得れず、軍議に向かう途中の討ち死に、という些か死に場所としては格好のつかないところで御宿勘兵衛政友は討ち死にを遂げました。
 ただ、これは未確認情報なのですが、樫井の戦いで無謀な先陣争いに決死の覚悟を固めた団右衛門は自らの死後、配下には勘兵衛の下につくように下知した、との伝説があります。
 自分の死後を託すには人格または実力、あるいはその双方に絶大の信頼が要る行為である事を以って、勘兵衛の見るべき点としたい、と薩摩守は思うのですが、いかがでしょうか?

 最後に、御宿勘兵衛の当時の知名度について触れたいと思います。
 特筆すべきは敵の総大将・徳川家康が勘兵衛の名に一目を置いていたことです。
 夏の陣直前に、大坂城に入城していた浪人武将の名簿を見て、「大阪方の浪人衆の中で、武者らしいのは、後藤又兵衛と御宿勘兵衛だけだ」と語り、勘兵衛が松平忠直の配下・野元右近に討たれたと聞いた際は、「御宿が若い頃なら、右近なんぞに討ち取られることはなかったろう。」といったとも伝わっています。
 塙団右衛門じゃないですが、ここまで家康認められていた男の知名度がイマイチなのは惜しんで余りあります。
 以上にて弁護を終了します。


終わりに
 「褌(ふんどし)を洗って来たか?」と云う言葉が戦国時代に戦の直前に交わされました。
 それは戦に敗れて落ち武者狩りにあった際に身包み剥がれて最期に褌一丁の裸体を野にさらす可能性が常につきまとった武士達が「無様な死を晒さない最低限の身嗜み」と考えた習慣でした。
 云い換えれば敗者にはそれほど残るものが無い事を当時の人々は自覚していたのです。
 戦並びに戦国の世とはむごいものです。私がこうやって呑気に独断と偏見のサイトを綴っていられるのも「第三者」だからとも云えます。当事者ならむごすぎる世への憤りと保身が高じ、己が立場に偏りまくった意見を吐くか、全く口をつぐむかのどちらかでしょう。
 だからこそ、文武に余裕のある世の冷静な目を持てる人間として、無念の中に戦場・刑場に散った人々の生き様・死に様に今後も見るべきを見て、伝えるべきを伝えて行きたい、との思いを益々強くする所存であります。誰です?「全然懲りてない…。」などと陰口を叩く人は(苦笑)。

平成一六(2004)年八月二三日 道場主


 

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令和三(2021)年五月二〇日 最終更新