大坂の陣

大坂の陣

歴史に埋もれた五人の惜将


 周知の通り、歴史は過去の出来事を事後に生きた人々によって綴られる。血生臭い闘争の歴史は必然、生き残った者達の手によって綴られることになる。それが為に、生き残った者が「正義」・敗れた側が「悪」とされ、勝者に都合の悪い歴史が削除されたり、敗者が必要以上にかっこ悪く書かれた歴史も少なくはない。

 中国史には古代史ほど、物理的・生物学的に矛盾のある記述があったり、建国者(例:漢の高祖・劉邦)に後付けと疑いたくなる瑞祥が多かったりする。
 インド史では、「正確な記録を残す」ことより、「文学としてみた際に読んでいて素晴らしい記述を残す」国民性が災いしてか、必ずしも正確ではない歴史が綴られている。
 そして何よりも洋を問わず、各国の歴史にはその国民性が反映され、独自の史観による歴史が残され、多少の差はあるものの史実との差異を生むのである(だからと云ってそれをたてに特定の国の人のみの立場に立った都合良過ぎる史観で歴史を論ずるのは全くをもって戯けた話である)。

 では、敗者は泣き寝入りを続けたであろうか?否、書に書かれたもの、時の権力者の前でしか語れないのが歴史ではない。民間伝承もあれば、敗者の生き残りが密かに伝えた真実の歴史もあり、勝者に作られた歴史にも歪め様のない明白な歴史もあれば、矛盾が生んだ疑問もある。
 それに立ち向かった者も少なくはない。司馬遷しかり(武帝を憚る歴史書『史記』を作った)、徳川光圀しかり(彼の著『大日本史』の元となった朱子学観は幕政を非とし、倒幕への導火線となった)、である。

 そんな中にあってこの国・日本はある程度敗者への労わりがあった国ではないだろうか?(もっとも国内においてのみだが…)。古くは源義経への「判官贔屓」に始まり、講談や民話が敗れつつもそれぞれの信念のもとに戦った人々を今に伝え、昨今の書物が様々な角度から見る歴史を伝えようとしている。

 大坂の陣は、戦国最後の戦にあって、最後の華を咲かさんとして戦った敗将がひしめいている。敢えて不利な立場に立った漢(おとこ)達の生き様を紹介したい。

 大坂の陣で豊臣方についた武将の名は数多く残っている。講談や歴史において、真田幸村、後藤又兵衛等は余りにも有名なので、ここでは道場主の独断と偏見と依怙贔屓で五人の『猛将』を紹介したい。


 あ、どうも、薩摩守です。上記の様に歴史において近世まで「敗者=悪」とされる傾向が多分に存在しました。
 今回は道場主の一押し武将・塙団右衛門が取り上げられる事も有り、特別の趣向を凝らし、私、薩摩守が「弁護士」に扮し、歴史上「敗者」となった将達=「被告人」を擁護する形の論述を行います。

 歴史上の人物を罪人の如く見る向きには非難もあるかもしれませんが、時の権力に「罪将」とされた人物の「人間」としての惜しむべき点に立脚した「弁護」と見ていただければ幸いです。
 勿論薩摩守は移行に登場する将達に好意こそ持てど一片の悪意も持ってはいません。
 尚、今回の論述形式には某漫画家が旧大日本帝国軍の南京大虐殺を誤魔化す為に著書の中で自らを弁護士になぞらえて旧日本軍の悪行を弁護した内容にあてをつける目的もあります(笑)。

では、以下が今回論述する「惜しむべき敗将達」です。

明石掃部守全登
薄田隼人正兼相
長宗我部土佐守盛親
塙団右衛門直之
御宿勘兵衛政友

 御来房の方々の中には「真田幸村はどうした?」や「後藤又兵衛の名が無いのは納得がいかん!」という方もいらっしゃると思います。
 また中には「豊臣秀頼だって見るべき点はある。」、「大野治長だって最後まで忠義を貫いた。」、「淀殿の名誉回復を」という声も有るかもしれません(無かったりして…)。
 云い訳にはなりませんが、一人一人を取り上げればそれだけで一つのサイト、小さくとも一つの房になります。それゆえにここでは道場主の独断と偏見で恐縮ですが、
・既に誰でも知っているほどヒーロー化している人物(例:真田幸村、後藤又兵衛)
・直接戦場に立たなかった人達(例:豊臣秀頼)
を対象外とし、主に戦場にて大暴れした末に討ち死に・刑死した人に重点を置き、上記の五人に絞り込みました。
 尚、豊臣秀頼に関しては「菜根版名誉挽回してみませんか?」で取り上げています。他の人物でも何らかの形で取り上げて欲しい、との要望があれば御手数ですが、薩摩守までご一報を。


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令和三(2021)年五月二〇日 最終更新