事件の経緯

終章 逆襲
大正四(1915)年一二月一三日朝
 結局徹夜の待ち伏せは徒労に終わった。空腹と寒気に疲れ果てた銃撃隊は食事と暖を取った。その時この危険な山中にロシア銃を担いだ一人の初老の男が現れた。
 男の姿を見た明景安太郎は一目散に駆け寄り男の名を呼んだ。その男は三日前の夜に明景が加勢を求めた鬼鹿撃ち名人山本兵吉であった。
 明景の加勢要請から胸騒ぎを覚えた山本は質屋を強引に拝み倒して(苦笑)、質札にしていた銃を借り受け、夜通し山を越えてやって来たところだった。

 がいまだ討ち取られていないことに戦意を燃やした山本だったが、明景と会ったその晩に明景の家族が犠牲になったと聞いてさすがに愕然とせずにはいられなかった。

 ともあれ、改めてへの戦意を燃やし直した山本六線沢に来る道々、雪中に鰊漬けが落ちていたのを思い出し、そのことを開拓民達に告げた。
 山本の証言から鰊の出所を割り出した討伐隊員達はすぐに現場に急行。果たして鰊漬けの出所は太田三郎宅であった。駆け付けた太田宅は鰊漬けを始め多くの食糧を荒らされ、糞尿まで垂れ流しにされていたと言う燦燦たる有り様だった。
 一同はの執拗な習性と相次ぐ太田の災難に愕然とし、その狡猾さに討伐への自信を打ち砕かれ、そんな開拓民達に山本は、手口から「袈裟懸け」と呼ばれる名うての凶暴羆の仕業であると断言し、その罪歴を村人に話した。
 万策尽きた討伐隊員は山本に助勢を請うた。しかし山本はその生来の性格から集団行動を嫌い、単独行動を宣言した。


大正四(1915)年一二月一三日昼
 遺体を囮にしてまでの待ち伏せ作戦が失敗に終わり、それどころかが引き上げたと見せて近くの家に侵入して狼藉を働いていたとの報は対策本部をも愕然とさせた。
 分署長・菅貢警部は、予備役少尉でもある松田定一教頭に、軍隊=旭川連隊の出動要請も必要ではないか?と投げ掛け、松田も「これ以上事態が長引くようなら、それもやむ無し。」との考えを示し、本部内にはより一層の緊張が高まった。

 だが、朗報もあった。それはこの日、六〇丁の銃と六〇〇を越える増援の救援隊が到着したことだった。
 事件発生の報を知ったとき、は鉄砲と人員の確保を急務と考え、民衆が隠し持っている銃を出させる為、「今回の事件解決に協力する者は無鑑札の銃の咎を罰しず、本来必要な登録料も免除する」との特例を出していた。
 当時の頭の固い役人にしては柔軟なこの対応が功を奏した訳で、これに気を良くしたは救援隊を二手に分け、一隊に山狩りを命じ、もう一隊に氷橋の完成を命じた。
 氷橋を完成させんとしたのには、「の誘因」と「万一、軍隊出動の折りの軍用路とするため」という二つの目的があった(←定石的である)。
 氷橋作りは大人数の動員もあって着々と進んだが、山狩りはそうは行かなかった。所詮は烏合の衆で、士気は奮わず、日が暮れかかったことに胸を撫で下ろして下山を急ぐ有り様であった。


大正四(1915)年一二月一三日夜
 夕暮れ間近、は八度目の六線沢侵入を果たし、更なる狼藉を働いた。
 夕暮れから日没までの僅かな間に為された狼藉の対象となったのは、上流から下流へ右岸に屋根を連ねる中川孫一数馬松田松村中川長一吉川松浦宅の八軒に及んだ。
 被害は鰊漬け、雑穀、鶏等が被り、各家庭で女性の布団、衣類、夜具が集中的に荒らされ、山本兵吉が語るところの女性ばかりを襲ってきた既往歴を彷彿とさせた。

 その途中、集落内に潜んだ山本兵吉と彼の案内役を明景安太郎達に頼まれ、山本に断られたもののしつこく附いてきた池田亀次郎を見たが、風と距離がに味方し、発砲できず、明景家に篭もる他の銃撃隊も気付かなかった。
 池田富蔵家に待機していた後続の討伐隊に至っては、夜の闇の中でに脅え、薪を取りに来た者が誤って薪の山を崩した音をの襲撃と勘違いして逃げ惑い、同時に台所に逃げた大橋峯太郎森伊三郎が互いをと間違え絡み合う始末であった。

 だが混乱する人間を尻目に狼藉を続け、図に乗るもまた冷静さを失っていた。
 最下流の松浦東三郎家までも荒らしたは遂にの懸念(期待?)した様に、三毛別川を越え、三毛別村内に侵入しようとしたが、それこそがの思う壺であった。
 闇の中、対岸の柳の切り株が一つ多く見え、しかも内一つが動いているのに気付いた金子富蔵松浦とともに異常を察知し、に告げた。
 の呼び掛けに応答が無いことから警備隊は不審物を−少なくとも人間ではないとして、手筈通り一斉に銃撃した!
 の二連銃が、金子宮本堀口、その他十数丁の銃が火を噴き、不審物は川に転落したかと思うと大慌てで岸に上がり、対岸の闇に消えた。
 すぐさま松明の明かりの下、対岸を調べたところの足跡と血痕が確認された。目前にて三度も取り逃がしたことや、数多くの不発銃に非難の声も多かったが、の被弾に疑いはなく、明朝徹底的に山狩りを行って獲殺することが決められた。

氷橋一斉射撃



大正四(1915)年一二月一四日朝
 晴天の続いた六線沢に久し振りに朝から粉雪が舞った。
 菅貢は討伐隊員にの被弾を告げ、獲殺することで犠牲者の霊に報いることを呼び掛けた。一同は足跡と血痕を頼りにマタギ衆を先頭に追跡を開始した。
 舞い散る雪が足跡を消すことを懸念する声もあったが、谷喜八はその日が赤穂義士討ち入りと同じ一二月一四日で、「討ち入り」に付き物である雪は縁起が良い、と言って、討伐隊の士気を盛り上げた。

 一方、集団行動を嫌う山本兵吉は一行に先立ち、池田亀次郎を伴ってを追っていた。
 道中、彼は「止め足」を使っていることに気付いた。
 「止め足」とは、自らが辿った足跡通りに後退して、近くの藪や繁みに潜んで追跡を撒いたり、獲物を不意打ちしたりする羆方法で、これに遭遇すると、突如足跡が消える事態にベテランのマタギでも動揺することが多く、古来多くのマタギがこの戦法の前に命を落としていた。

 だが、ベテラン中のベテランである山本兵吉には通じなかった。
 山本は風の流れからの進路を読み、その行く先に先回りして、逆にを待ち伏せた。
 程無く山本の読み通りは現れた。己の運命を悟ったは覚悟を決め、吠えもせずに山本の前にその巨体を直立させた。
 次の瞬間、山本のロシア銃が火を噴き、一発目が心臓、二発目が眉間に命中し、の悪行と生命に終止符を打った。

 が討ち取られた現場の現在の写真。
 が討ち取られた事実をもって、橋は「射止橋」と名付けられている。

 時に大正四(1915)年一二月一四日午前一〇時のことだった。
 銃声を聞いて追跡中だった討伐隊員達が一斉に集まり、二〇〇人余りの万歳の声がこだました(←こ、これって雪崩を誘発しかねなかったのでは………?)。

 の死体の運搬にかかった頃から雪は吹雪となり、六線沢に死体が運び込まれたときには一寸先も見えない猛吹雪となっていた。
 は文字通り屍に鞭打たれた。そして殊勲者の山本兵吉は猛吹雪を「羆風だ。」と囁いた。
 罪を重ねたが死を遂げたとき、冥界入りを罪深さゆえに阻まれ、行き場を失って泣き喚く声−その伝説の羆風だと。

 最初の事件から五日目にして解決した事件はの屍を前にして改めて多くの人の涙を誘った。
 涙と羆風は吹き荒れ、日本海沿岸の各地に大きな害を与えた。悪魔として現れたは去るときも悪魔にされた。それを見た山本は早々にを討ち取れなかったことが、尊い人命の犠牲と「袈裟懸け」の罪が重ねさせたことを悔しがり、一筋の涙を流した。そして、泣きながらの遺体を棒で打ち据える明景ヒサノに呟いた。

「お嬢ちゃん、もう許してやれや、羆風に免じて許してやれや・・・。」

と。




後日譚
 事件は解決した。しかし集落内に、そして何より人々の心にその爪痕を生々しく残した。
 討ち取られたは解体され、胃袋から多くの犠牲者の遺体が引き出された。それは六線沢に来る前に三人の女性を食ったと見られるその罪状の証拠となる品々が胃袋から摘出されたことを意味していた。

 の肉は「報復」と「犠牲者への供養」を理由に開拓民達に食われた(不味かったらしい)。
 熊狩り最大の戦利品・熊胆山本兵吉の物になったともマタギ衆で分けたとも云われる。
 は頭蓋骨を除いてうち捨てられた。頭蓋骨はある人物の所有となったが、火災で焼失した。
 は長く晒し物とされ、多くの見物人に袋叩きにされた。しかし現在は行方不明である。

 開拓民達は一年を経ずして辻橋蔵家を除き六線沢を去った。
 太田三郎は春になると家に火を放ち、縁者を頼って羽幌、その後郷里の河辺へ移り、程無く病没したと言われている。
 オドこと長松要吉は重傷の身から順調に回復したものの翌春に山での仕事の帰りに近道しようとして川の中に転落し、命を落とした。
 同じく重傷の明景梅吉は頭の咬傷が季節の変わり目の度にこうじ、ニ年八ヶ月後に幼い命を落とした。
 九死に一生を得た明景勇次郎は二七年後に第二次世界大戦の召集を受け、戦場に散った。に襲われて生き延びた少年が人間同士の殺し合いの場に敢え無く絶命した歴史の皮肉が、人間こそが最も恐ろしい生き物である事を教えてくれる。
 顔にの爪跡を残しながらも生き延びた明景ヤヨは事件から四八年後に力蔵ヒサノの孝養を受けた後に八二歳で天寿を全うした。

 戦後、東京オリンピック開催の年である昭和三九(1964)年に事件のあった六線沢を管轄とする営林署の林務官に赴任した木村盛武氏は、幼少の頃に祖父から聞かされて恐怖したこの大惨事を風化させてはならない、と思い立ち、林務官の業務の傍ら、事件の調査を開始した。

 に襲われながら九死に一生を得た明景力蔵ヒサノ池田亀次郎蓮見チセ、討伐隊参加者として松永米太郎、幼少ながら当時を知った者として武田ハマ(旧姓・斉藤石五郎タケの長女)、池田力子(松村長助の娘・池田亀次郎の妻)、数馬アサノ大川春義(三毛別村長・大川与三吉の息子)、その他多くの関係者が事件から半世紀を経て高齢ながらも健在で、犠牲者・マタギ・当時の情勢などに貴重な証言をした。

 当初辛い思い出に口を閉ざしていたハマは木村氏の「事件を風化させまい」との熱意から重い口を開き、一方で幼くして惨死した息子のためを思ったチセは自ら積極的に木村氏を訪れては思い出したことを証言した。
 更に明景力蔵は夫婦で木村氏にお礼を述べる書簡を送った。
 また事件当時七歳で、「犠牲者一人につき一〇頭のを討って仇を取る!」と決意した大川春義は本業(農業)と敵討ちのかたわら、木村氏の調査・に関する数々の知識・体験談の提供にも貢献し、時には羆害から道民を守り、最終的に一〇二頭のを討ち取った。
 宿願を果たした大川春義はその後は銃を手にせず、三渓神社「羆害慰霊碑」を自費建立して七人の犠牲者の名を刻み(後遺症で死亡した明景梅吉の名のみ刻まれていない)、犠牲者並びに自らが手にかけた達の鎮魂に努めた。

 『羆害慰霊碑』のある三渓神社
 大川春義翁が自費建立した『羆害慰霊碑』

 木村氏はこの偉業を「仇や生半可な決意では出来ない事」としている。そして慰霊碑建立の七年後、昭和五九(1984)年一二月九日、つまりは事件の七〇回忌となる日に大川春義翁は天寿を全うした。驚くべき偶然と云おうか、奇しき縁と云おうか……。  大川翁の三男・桃義氏は『野生伝説』を書いた矢口高雄氏にも協力した。

 そして事件から一〇〇年以上の時を経て、当事者は全員が天寿を全うしたと見られる。
 世は令和に入り、事件後に生まれた木村盛武氏も、令和元(2019)年九月六日に御年九九歳で亡くなり、氏の作品を基に『野生伝説』を描き、完成後に交流を持った矢口高雄氏も令和二(2020)年一一月二〇日に八一歳でこの世を去った。
 時の流れは如何ともし難いものを感じる。



この人物に注目(四)−谷喜八
 事件当時既にかなりの高齢(ちなみに討伐に尽力したマタギ達は、木村氏が調査を開始した昭和三九(1964)年の時点で全員が故人だった)。
 六線沢の隣・三毛別の老練マタギで、その腕の冴えは周囲にも有名で射殺の手柄は山本兵吉が手にしたとはいえ、その腕と経験は終始村人からも他のマタギからも頼られた。

 口が悪く、態度も大きい人物ながら使命感・責任感は強く、常にマタギ達の先頭に立って、ベテランである南部の禿マタギや地元の金子富蔵を上手く指揮し、村人や救援隊ともうまく付き合った。
 数々の作戦を立案し、不発や不運から成功は少なかったが、その戦術眼は決して誤ったものではなく、被害が拡大するのを懸命に食い止めた。
 また若手マタギの銃の不発が多い中でも彼の銃は常に火を噴き、一度はにも被弾させた。さりながら必要とあらば後から来た山本兵吉に頭を下げて助力を請うたり、誘き寄せのために遺体を利用するなど、いい意味で目的のために手段を選ばない。まさにプロフェッショナルであった。

 銃を下ろせば気のいいとっつぁん。酒好きでもあるらしく、『野生伝説』ではが討ち取られた一二月一四日に久しぶりの降雪にの足跡が消える事を懸念する声に対し、上記の様に赤穂浪士の例を持ち出して士気を盛り上げるお茶目な面も併せ持っていた。



参考文献
「野生伝説−羆風」 矢口高雄(ビッグゴールドコミック:小学館)
「慟哭の谷」 木村盛武(共同文化社)
「熊嵐」 吉村昭(新潮社文庫)
「ヒグマーそこが知りたい」 木村盛武(共同文化社)

※本作品に使用されている写真はすべて薩摩守が現地にて撮影したものです。


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令和三(2021)年四月一六日 最終更新