第二章 対峙
大正四(1915)年一二月一一日昼
恐怖の集団逃避行から一夜が明け、取り敢えずの安全を確保した開拓民達ではあったが、家畜、収穫、財産を置いての避難に不安と焦りが高じ、三毛別分教場教頭の松田定一を中心に宣撫に精一杯だった。そんな混乱の中、明景安太郎が、斉藤石五郎が任務を果たし、帰宅せんとして、手前の三毛別に着き、そこにいる筈のない六線沢の開拓民達と出会った。
両名を待ち受けていたものは余りに酷い妻子の受難で、殊に斉藤は村に残した妻子を一人残らず失い、号泣した。復讐に燃え、自暴自棄になる斉藤。周囲の制止も聞かずに単身六線沢に乗り込まんとするが、谷喜八と松田定一の決死隊編成の報を聞いてそれに志願、一同は最初の山狩りの失敗から烏合の衆となるのを避け、銃手数名、決死の志願者約一〇名の一五名ほどの人数で空き家となった六線沢の警護を目的として六線沢に乗り込んだ。
惨劇の場となった明景家は昨夜同様、腐敗の臭いに多くの者が入室を躊躇った。家族の受難の場に立った斉藤・明景の両名は開拓行政に対する不平を顕わにし、家族の死を悔しがった。
一行は羆の獲物に対する執着心の強い習性を利用せんとして明景家の梁を補強し、天井裏に張り込む作戦を取り、徹夜の待ち伏せに入った。
大正四(1915)年一二月一二日昼
最初の事件発生から日を経ること四日、ようやくにして六線沢の凶報は北海道庁にもたらされ、道庁保安課は即刻羆の獲殺命令を羽幌警察分署長・菅貢警部に打電した。
指令を受けた菅は近隣の農民に対し無鑑札銃の罰則と登録料免除を条件とした供出命令を出し、討伐隊員を募った。
そして自身は日暮れ前に三毛別に到着し、六線沢に最も近い大川与三吉宅に対策本部を置き、帝室林野局羽幌出張所古丹別分担区員・喜渡安信技手、予備役陸軍少尉にして三毛別分教場教頭松田定一を副隊長に任命して協力を仰ぎ、羆の獲殺より人的被害の拡大防止から、羆に三毛別川を越えさせないことを急務とし、三毛別川左岸の警護を開始させた。
一方菅は六線沢内に止まる決死隊員の激励を思いつき、喜渡・松田の制止も聞かず山中に入ってそこで六線沢から引き上げてきた決死隊員と出会った。
大正四(1915)年一二月一二日夜
決死隊員の引き上げの理由は菅達を驚愕させた。十一日から十二日にかけて、結局羆は現れなかった。明景家に羆が現れないことに対し、決死隊員達は一つの結論を出した。通夜の最中にも関わらず襲われた太田家、夜通し待っても現れない明景家の相違点−「遺体が無いこと」であった。
つまり遺体を囮に羆を待ち伏せ、銃撃すると言う前代未聞の作戦が取られることとなった。
勿論、仏に対する気持ちが無いわけではない。しかし事態はそこまで逼迫していて、家族を失った太田三郎、斉藤、明景もどうせ帰らぬ命、村の衆が救われるのなら、と一人として異を唱えず、その切なる訴えに討伐の総指揮を採ることを宣言したばかりの菅も聞き入れざるを得なかった。
明景家に再び遺体が運び込まれ、死臭漂う中、六人の銃手が夜陰に乗じて潜入し、何処から侵入してきても迎撃できる体制を整えた。選ばれた銃手は谷喜八を筆頭に奮闘を続ける南部の禿マタギ、千葉幸吉、加藤鉄士、新たに加わった山本仁吉に辻仁右衛門であった。
そして夜中、一行の期待通り、死臭に釣られて羆はやって来た。しかし、軒までやって来た羆は後一歩のところで警戒心を取り戻し、林内の闇に消えた。尚も諦め切れぬ銃手達は再び羆がやって来ることを願って張り込みを続けた。
この人物に注目(三)−松村長助
事件当時年齢不明六線沢のリーダー的存在で、何かにつけて先頭に立ち、率先して村人を率いた。
『野生伝説』では直情的な人物に描かれており、感情表現もストレート。犠牲者の死を心から悲しみ、生存者の生還を心から喜ぶ人物でもあり、二度目の羆の取り逃がしにはマタギ衆に食って掛かる一面も見せた。
行動派ゆえか羆にも二度襲われているが、無謀ではなく逃げ足も速く(笑)、いずれも無傷で済んだ(まあ、単純な走力では人間は羆にとても敵わないので、逃げ果せたのは「逃げ足の速さ」ではないのだが)。
『慟哭の谷』によると「人一倍農を愛した」人物との事で、事後に多くの人々が六線沢を去る中、比較的最後の方まで居残り続けたが、最後には彼も同地を去った。
『熊嵐』によると、事件解決後も度々村の近くで見られる羆への不安から彼の妻が流産した、とある。娘の力子が長じて後、同じ集落の池田亀次郎と結婚し、木村盛武氏の調査に夫婦して協力した事から松村長助の描写は実像に近いものがあると見ていいと思われる。
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令和三(2021)年四月一六日 最終更新