菜根版戦闘員VOW

多勢は無勢!?

 現実の世界、殊に日本においては「数」は最も有力な要素である。数さえ味方に付ければ選挙に当選し、固定概念や偏見も「常識」と化し、大抵の勝負は有利になり、暴論(無理)でも数を集めれば正論(道理)が引っ込むのである。

 それゆえ日本人は特に数に依存する傾向が強い。流行に敏感ですぐに「猫も杓子も」状態となり、烏合の衆や衆愚政治からも逃れ難く、「皆やっている。」の一言に弱い。
 真似するだけならまだ良い方で、罪悪感が薄れるという恐ろしい一面を持つ。戦時中の非戦論者や外国人に対する差別、援助交際=売春で捕まっても「やっているのは私だけじゃない(←そういう問題じゃないだろ)。」の一言、イジメ問題、etc…と枚挙に暇が無い。

 何が云いたいかというと数の誘惑に簡単に屈したり、数を免罪符にする輩が多すぎるということで、今一度日本人には「数」の恐ろしさを再考察し、一個人としての揺るぎ無い自己を見詰め直し、事の善悪を考えて欲しいのだが、この問題は別の機会に譲るとする。これは菜根版「戦闘員」VOWなのだから。

 さて、かなり前置きが長くなったが早い話(←どこがやねん)、通常社会における数の強さは上記の通りである。しかし、特撮ヒーローの世界では全く逆の傾向にあるのである。数が集まるほど弱くなる傾向大なのである。

 TV番組なのだから、「その他大勢」に属すればアイデンティティは薄れ、個人個人の存在が弱いものになるのは当然といえば当然なのだが、現実社会の数が集まれば力となるという一般性が無視されるどころか逆行するのだから、大勢に属してしまった人々には哀れさすら感じる。

 その顕著な例が悪の組織の戦闘員である。通常成人の3〜5倍の強さを持つという設定が通例だが、殆ど無視される。
 主役に敵わないのは勿論だが、準主役、少々武芸に覚えのある奴にすら何人でかかっても敵わず、ひどい時は1対1で老人や子供に負けることすらある。

 戦闘員だけではなく、再生怪人も同様である。大抵は5〜20体の数で再登場するが情けないほど弱い
 生前の特殊能力を失っているのが通例であり、一まとめにして爆死することが多い。以上は仮面ライダーの一般傾向だが、正義のチームも多勢の無勢さは負けてはいない。


 顕著な例は『ウルトラマンレオ』のMACである。いくら集まっても怪獣に勝てないのも勿論だが、等身大の星人にさえ勝てず、名も無き隊員が滅茶苦茶多い。
 科学特捜隊、ウルトラ警備隊、MATなどの初期のチームは全員に名前があり、時に身内も登場し、等身大の星人とは五分に渡り合っていたが、MACは初期メンバーであるダン(森次晃嗣)、青島(柳沢優一)、黒田(黒田宗)、赤石(大島健二)、白川(三田美枝子)、桃井(新玉恭子)、ゲン(真夏竜)が十数話でモロボシダンとオオトリゲン、白川を除いて姿を消した。
 しかも初期メンバーには背番号があったのに、それ以降の入れ替わり立ち代わりメンバーには背番号が無いのである。プロ野球には二軍の補欠でも背番号があるのに…。
 MACの隊員の悲劇はこれに止まらない。ダンとゲンに見せ場を殆ど取られ、この2人しか登場しない回があるのはまだ良い方である。『ウルトラマンレオ』には宇宙人がよく等身大で街中を暴れまくるので隊員達はしばしば銃やナイフを駆使して星人と戦うのだが、何人掛かりでも敵わず、とてもカッコ悪く、殉職する奴までいる。そして最終的には円盤生物・シルバーブルーメに基地ごと飲み込まれて全滅し、全員が殉職者になったであった……悲惨。

 偏えにゲンとダンに重点を置き過ぎたと云える。
 ここまで例を挙げれば数が如何に無力かお分かり頂けたであろう。そこでこのコーナーでは仮面ライダーとウルトラマンの数の持つ情けない歴史を考察していこう。



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令和三(2021)年六月一一日 最終更新