このようなサイトを立ち上げるほど歴史好きの道場主がかつて「歴史」という単語に怯えた時があった。
幼少の頃の道場主はとんでもない怖がりで、ホラー系の漫画や写真集は愚か、人体解剖図や人名辞典の肖像画、ひどい時には辞書・辞典の挿絵にも怯える男だった。
そして道場主が「歴史」に怯えたきっかけが小学館社の『日本の歴史』3巻の奈良時代は天平九(737)年の天然痘流行のコマだった。
天然痘特有の発疹とそれに苦しむ人々の姿がトラウマになり、それが高じて、『日本の歴史』という漫画を怖がり、引いては「歴史」という単語までをも怖がるようになった。
さすがに数年を経る内にトラウマは徐々に克服され、今では同漫画も同じシーンも平気で読めるし、かつて怯えた絵・写真・物もまずは平気になったが、「天然痘」に怯えた日々とその後何回か目にした実際の天然痘患者の写真や映像に対するトラウマはなかなか克服されなかった。
まあ、特有の痘痕や発疹に拒絶反応を示すのは道場主だけではないらしく、細菌テロに天然痘が使われることに対して様々な意味で怯える声は世界中で囁かれている。
幸い、昭和五五(1980)年にWHO(世界保健機構)より天然痘はこの地球上から撲滅されたと宣言された(実際には研究用として米露の研究所でウィルスが生かされている)。道場主が天然痘に怯えた時、既に撲滅されていた。
道場主は種痘を発見したエドワード=ジェンナーに心から感謝した。そしてその謝意は知的好奇心にも繋がった。恐怖心が自己防衛へ駆り立て、その気持ちが天然痘と(患者として、医師として)戦った人々の知識を求める行為に駆りたてたのである。
平成一三(2001)年九月一一日にアメリカ合衆国で起きた同時多発テロ以来いまだに世界中がテロの脅威を多かれ少なかれ警戒しており、同時に最も恐ろしい細菌兵器によるテロとして、天然痘テロの脅威も持ち上がった。
その脅威は死亡率もさる事ながら、感染力、そして死を免れたとしても一生残ってしまう痘痕にもある。まさに最悪の伝染病である。
そして天然痘テロが囁かれる時に道場主の心の中に少なからかぬ恐怖がフラッシュバックした。幼き日の恐怖心だけではなく、調べれば調べるほど天然痘はひどい病だと思うし、それと戦った人々への敬意も深まる。
人と人の戦いだけが戦史ではない。生きる為、人類の繁栄の為、最悪の病・天然痘と戦い続けた人々の戦史をここに綴りたいと思い立ち、薩摩守はこのサイトを作った。
日本史上天然痘に罹患した主な人々
時代 人物 身分 闘病結果 備考 奈良 舎人親王 皇族 死亡 天平七(735)年の流行で死去。 藤原武智麻呂 左大臣(不比等長男) 死亡 天平九(737)年の流行で死去(四兄弟の三番目)。 藤原房前 参議(不比等次男) 死亡 天平九(737)年の流行で死去(四兄弟の最初)。 藤原宇合 参議(不比等三男) 死亡 天平九(737)年の流行で死去(四兄弟の最後)。 藤原麻呂 参議(不比等四男) 死亡 天平九(737)年の流行で死去(四兄弟のニ番目)。 多治比県守(たじひあがたもり) 中納言 死亡 天平九(737)年の流行で死去。 平安 藤原道兼 関白(道長の次兄) 死亡 関白就任七日後の死。 室町 足利尊氏 室町幕府初代将軍 治癒 『太平記』によると薄く痘痕が残ったらしい。 安土・桃山 明智熙子 明智光秀室 治癒 痘痕の為に光秀との婚儀崩壊が懸念されたが光秀気にせず。 伊達政宗 外様大名 治癒 右眼を失明。 豊臣秀頼 秀吉後継ぎ 治癒 もし命を落としていれば大坂の陣を待たずして徳川の天下が到来していた。 江戸 春日局 徳川家光乳母 治癒 罹患経歴が乳児(家光)の免疫になる、と見込まれた。 徳川家光 江戸幕府三代将軍 治癒 春日局は彼の治癒を祈って薬断ちをした。 徳川吉宗 江戸幕府八代将軍 治癒 治癒により紀伊徳川家改易を免れる。 徳川家重 江戸幕府九代将軍 治癒 罹患経験があり免疫を持つ父・吉宗が看病に当たり、見舞おうとした弟・宗武を吉宗が止めた。 徳川家定 江戸幕府一三代将軍 治癒 小林さと 小林一茶長女 死亡 僅か一歳での夭折。一茶は生前得た子全員に夭折される。 明治 孝明天皇 江戸時代最後の天皇 死亡 開国派による暗殺説が根強い。 夏目漱石 文豪 治癒 痘痕が残り、本人も気にしていたが、当時既に写真を修整する技術があり、現存する写真に痘痕は見られない。
そして以下が日本史に限定した人類と天然痘の攻防史である。
時代 年 出来事 奈良 天平七(735)年 新羅より天然痘が北九州に上陸。 天平九(737)年 平城京で天然痘流行(藤原四兄弟全滅) 平安 延長二(924)年 醍醐天皇、天然痘を病む。 正暦五(994)年 天然痘流行、藤原道兼が病死し、道長が内覧に。 康治二(1143)年 崇徳上皇、近衛天皇、天然痘を病む。 江戸 一七世紀 この世紀に四回の大流行を記録。 承応二(1653)年 明の僧医・戴曼公来日、治痘法を伝授する。 寛保四(1744)年 中国から鼻乾苗法伝来。李仁山が長崎で人痘種痘実施するも不成功に終わる。 寛政二(1790)年 筑前秋月藩医・緒方春朔、天野甚左衛門の二児に鼻乾苗法で人痘種痘実施し、わが国で初めて成功する。 寛政五(1793)年 緒方春朔、我が国最初の人痘種痘書「種痘必順辨」を著した。 寛政八(1796)年 春朔、「種痘緊轄」・「種痘證治録」を著す。(この年イギリスではE.ジェンナーが牛痘による初の種痘を実施。) 文政三(1820)年 中川五郎治が持ち帰ったロシア語牛痘書を馬場佐十郎が訳した「遁花秘訣」はわが国最初の牛痘書。 文政一三(1830)年 大村藩が古田山を種痘山とし、そこに隔離して人痘種痘を行った。 嘉永二(1849)年 緒方洪庵ら大阪に除痘館開設。七月 楢林宗建が牛痘苗を三男と通詞の子二人に接種し、三男のみ善感。牛痘苗による種痘に初めて成功する。一一月 佐賀藩より江戸の伊東玄朴に痘苗が送られ、江戸藩邸で接種。江戸での種痘初め。 安政五(1858)年 伊東玄朴ら江戸の蘭方医八〇名、神田お玉ヶ池に種痘所を開設。 文久元(1861)年 種痘所を「西洋医学所」と改称し、組織を教授、解剖、種痘の三科とした。 明治 明治 天然痘、明治に三回大流行、合計死者七万二〇〇〇人。 明治元(1868)年 旧幕府医学館を「種痘館」とし、翌年には市中出張所を復活して、生後七五日より一〇〇日の者に接種を受けさせた。 明治一八(1885)年 種痘法の制定。 大正 大正五(1916)年 緒方春朔、正五位を贈られる。 大正八(1919)年 大正時代最高の天然痘死者数(九三八人)を記録。 昭和 昭和元(1926)年 この年の天然痘死者数一五八人を最高に昭和二〇(1945)年の終戦まで死者一〇〇人を越える年はなかった。 昭和二一(1946)年 戦地からの引揚者の影響で天然痘大流行。患者一万八〇〇〇人、死者三〇〇〇人。 昭和三〇(1955)年 この年の天然痘患者一人を最後に日本で天然痘患者発生せず。 昭和四一(1966)年 WHO総会は世界天然痘根絶計画の強化を可決。プロジェクトリーダーは蟻田功。 昭和五一(1976)年 定期種痘を停止。 昭和五五(1980)年 ソマリアでの最後の患者の発生後二年の観察期間を経てWHOは総会で「世界天然痘根絶」を宣言した。
かなり大雑把ではあるが、流れだけ見ていただければ充分である。次頁からは天然痘に苦しめられた約一二〇〇百年の歴史で日本人が如何に戦い、その戦いの中に如何なる歴史的意義があったのかを見ていきたい。
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戦国房へ戻る平成二七(2015)年七月三日 最終更新