天然痘と戦った人々



 奈良時代に朝鮮半島(新羅)から帰還した九州の商人が天然痘ウィルス保菌者となっていた為に日本人も天然痘に苦しむことになった。
 天然痘は今でも年配の方々は「疱瘡(ほうそう)」と呼ぶし、大河ドラマでこの病が出てくればまず「疱瘡」と呼ばれる。
 古くは「もかさ」、「豌豆瘡(えんどうそう)」、「痘瘡(とうそう)」とも呼ばれた。

 感染し、発病すると高熱・腰痛・悪寒に苦しむ、顔面・手足を中心に小豆大の発疹が現れ、解熱と供にこれらはかさぶたとなって永久に痘痕を残す。
 死亡率は五割(※時代によって変動あり)。一度発病すると有効な治療法は今尚皆無で、対症療法でもって後は患者の生命力の勝負になる。
 また症状や終生残る痘痕と並んで恐るべきはその感染力で、飛沫感染で伝染し、人一人が会話する呼気の中に一〇〇〇人が感染するだけのウィルスが含まれるらしい。
 昭和中期にWHO(世界保健機構)の天然痘撲滅プロジェクトのリーダーを務めた蟻田功氏によるとアフリカである村で二名の患者発生の方を受けて出発するとそこに着く頃には患者は三〇〇人待っている、と言う有り様だったとのことである。

 天然痘ウィルスの遺伝子配列が完全に解読されている現在でさえ、確実に有効な治療法はない。
 まして現在より医学が未発達な過去の世界では医術は全く追いつかず、迷信による根拠なき民間療法や神仏への加持祈祷、伝統的な呪いに頼るしかなかった。
 「牛糞を煮たてて飲む。」という信じられない療法(?)を医師達は信じられもしないのに行わざるを得なかった。
 他に方法がなかったゆえに。

 東大寺・奈良の大仏が天然痘流行をきっかけの一つとして建立されたものであることは小学校でも教えられることである(にも関わらず、薩摩守が以前勤めていた会社の後輩三人に天然痘の話をしたところ、二人が存在すら知らなかった。どういうことだろう?)。
 「疱瘡神」という神の存在が信じられ、人々は神仏と供にこれに祈った。現在「疫病神(やくびょうがみ)」と言えば災いをもたらす存在と見られるが、本来疫病神とはこの疱瘡神のことであり、疱瘡にかからない様に、かかっても軽く済む様に祈るものだった。

 また、いつの頃からか赤い色が疱瘡除けになる、との迷信が広まり、赤一色で画いた鍾馗(しょうき)、源為朝、桃太郎の絵が御護りとなった。
 「疱瘡神は犬を嫌がる。」との迷信もあってか、赤犬の置物も数多く作られ、現在でも地方の土産物店で見る赤犬の置物は元は疱瘡除けである。
 また吉村昭氏の小説『雪の花』の冒頭で、天然痘で死んだ人の遺体を大八車で運ぶ人夫が感染を恐れて赤いたすきを掛けて全速力で走る姿が書かれている。そして、この『天然痘との戦い』の背景が赤に設定されているのも疱瘡除けの迷信に因んでいる(笑)。


 しかしそんな古の人々の努力を嘲笑うかのように天然痘は大流行を繰り返し、人々の命を奪い、時に容貌を醜く変貌させ、時には視力を奪っては不幸をもたらし続けた。
 人類を苦しめ続けた悪魔の正体−天然痘ウィルスが人々の眼前にさらされるには電子顕微鏡の発明を待たねばならず、天然痘と同様にウィルスがもたらす伝染病である黄熱病の前に野口英世が殉職した時に電子顕微鏡がなかったを考えると過去の人々は敵の正体の見えない分、如何な恐ろしさの中で戦わざるを得なかったがうかがえる。

 唯一の光明は経験上知り得た、「一度疱瘡にかかると二度は罹らない。」という事実だった。
 水疱瘡やお多福風邪同様に天然痘は一度罹患して治癒すると終生免疫を得る病気で、古の人々は「免疫」という言葉は知らずとも、「二度は罹らない。」ということを絶対の事実として知っていた。
 また、江戸時代に徳川家光の乳母にお福(春日局)が選ばれた時、決め手の一つにお福が幼少の頃に天然痘を患い、治癒していたという経験を持つ、という点があった。
 実際、現代医学の観点から見ても、無菌状態で生まれて来る赤ん坊は母乳から免疫を得て体に抵抗力をつける。
 後に家光が天然痘に罹患した事実を見ると期待外れ、とも言えるが、生来病弱だった家光が命を落とさずに済んだのを見ると、お福の母乳が影響していたのかも知れない。
 まあ、医学的見解はどうあれ、当時の人々がそこまでして天然痘に対抗しようとしていた事は興味深い。

 また何だかんだ言って、奈良時代以降の日本人は天然痘流行を渦中を生き抜いてきた人々の子孫である。ある程度の免疫は受け継がれているのかもしれない。
 奈良時代の大流行もそうだが、人類は未経験の細菌・ウィルスには極めて弱く、天然痘はネイティブアメリカン・インカ人・アステカ人に壊滅な被害を与え、一国の運命を大きく左右した。
 日本でも幕末初めて流行したコレラは江戸町民一〇万人の命を奪っている。

 以下より医学的に天然痘と戦った人々の業績に触れたいが、罹患して尚生き延びる事、感染を拡大させない為に苦慮した政策を採る事、痘痕や失明に苦しみつつも生き続ける事もまた立派な天然痘との戦いであることを認識した上で話を進めたい。


中川五郎治(なかがわごろうじ) 日本初の種痘
笠原良策(かさはらりょうさく) 決死の雪中行
楢林宗建(ならばやしそうけん) 不屈の痘苗入手
日野鼎哉(ひのていさい)  長崎から福井へ
緒方春朔(おがたしゅんさく) ジェンナーに先立つ天然痘予防
緒方洪庵(おがたこうあん) 対天然痘に留まらない医学貢献
蟻田功(ありたいさお) 天然痘を地球から駆逐した生き仏



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平成二七(2015)年七月三日 最終更新