第壱頁 武田晴信with板垣信方&甘利虎泰……両腕喪失と飛躍

主君:武田晴信
氏名武田晴信(たけだはるのぶ)
生没年大永元(1521)年一一月三日〜元亀四(1573)年四月一二日
地位甲斐国守護
通称大膳太夫、信玄入道
略歴 大永元(1521)年一一月三日、甲斐国守護にして甲斐源氏武田家第一八代・武田信虎とその正室・大井夫人の嫡男に生まれた(厳密には次男だったが、長兄は夭折していた)。幼名は太郎(たろう)、長じて武田晴信と名乗った。

 武田家後継者として育つも、父・信虎は晴信よりも同母弟の信繁の方を可愛がり、次第に疎んじられるようになったため、天文一〇(1541)年六月に信虎を駿河に追放し、武田家第一九代目の当主となった。

当主就任後、信濃侵攻に精を出し、佐久・小県・諏訪と云った信濃各地に出兵し、その過程において虐殺や謀略や助命反故も辞さなかった。一方で、東の相模・北条、南の駿河・今川とは和睦・同盟に努め、後に甲相駿三国同盟を締結し、北方への侵攻を更に進めた。
 北信濃の村上義清には二度に渡って痛手を蒙り、殊に上田原の戦いに大敗した際には宿老の板垣信方甘利虎泰を失い、自身も負傷したが、真田幸隆を味方に引き入れるなどして、天文二二(1553)年には北信を除いて、信濃をほぼ制圧した。

だがこれにより、信濃の豪族達は越後の上杉政虎(謙信)を頼り、晴信は北にかつてない難敵を抱え、五度に渡って干戈を交えた(川中島の戦い)。
 その間、同盟相手である今川義元が永禄三(1560)年に桶狭間の戦いでまさかの戦死を遂げ、駿河の富(安倍金山・駿河湾の海産物・海運)を欲した信玄(←前年に出家)は三河の徳川家康・岐阜の織田信長と結び付きを強め、永禄一一(1568)年一二月には家康と共同で駿河を侵攻し駿河を掌中に収めた。
 勿論これらの連合離反の繰り返しの中で、信玄は信長、家康、謙信、北条氏康と時に争い、時に和したが、室町幕府第一五代将軍・足利義昭から信長討伐と上洛の要請を受けると、元亀三(1572)年一〇月三日、甲府を発って、上洛の途に就いた。
 三路より徳川領に攻め込んだ武田軍は各地の城を落とし、一二月二二日に三方ヶ原の戦いに徳川・織田連合軍を大敗せしめ、元亀四(1573)年一月には三河に侵入した。

この猛進撃に、徳川家は滅亡か、二度と立ち直れないほどの打撃を蒙るかと思われたが、かねてから患っていた労咳(肺結核)が悪化し、四月初旬には甲斐に向けて撤退にかかった。だが、病の方は撤退せず、四月一二日に自らの死を三年間伏せるよう遺言して息を引き取った。武田信玄享年五三歳。



家臣:板垣信方&甘利虎泰
氏名板垣信方(いたがきのぶかた)甘利虎泰(あまりとらやす)
生没年延徳元(1489)年〜天文一七(1548)年二月一四日明応七(1498)年〜天文一七(1548)年二月一四日
地位武田家宿老兼晴信師傅武田家宿老
通称駿河守備後守
略歴 延徳元(1489)年に生まれたと云われ、若き頃の経歴は不詳。武田氏の宿将として武田信虎の代から活躍しており、信虎に嫡男・太郎(晴信)が生まれるとその師傅に任ぜられるなど、その信頼は厚かった。

 天文九(1540)年には信濃佐久侵攻の際に敵城十数を落とす活躍をし、翌天文一〇(1541)年に晴信による信虎追放に加担した。それまでのキャリアと追放時の活躍により、晴信が家督を継ぐと、甘利虎泰とともには武田家最高職である「両職」に任じられた。

その後の信濃侵攻においても陣頭に立つ一方で、晴信から降将との折衝や、その処刑を任され、諏訪郡の諏訪頼重を切腹させたのも信方だった。
 だが、信濃各地での晴信の蛮行(詳細後述)は、因果応報の如く信濃国人衆の意外且つ頑強な抵抗を生み、天文一七(1548)年二月一四日、信方は北信の豪族・村上義清との上田原の戦いで壮絶な討ち死にを遂げた。板垣信方享年六〇歳。
 明応七(1498)年の生まれと見られている以外には若き日の経歴は不詳。武田家には武田信虎の時代から仕えたと見られている。
飯富虎昌、原虎胤同様、信虎から「虎」の字を偏諱として与えられており、その信頼は厚かった。だが天文一〇(1541)年、信虎の嫡男・晴信(信玄)による信虎追放に加担し、主導的役割を果たした。
この手柄により、虎泰信方と共に、新当主・晴信から武田家家臣における最高職位たる「両職」に任ぜられた。

晴信による信濃侵攻が本格化すると、晴信の代理として総指揮を執る信方の下に晴信の上意を伝えたり、信濃国人衆やその加勢に駆け付けた関東管領上杉憲政との戦いに各地を転戦したりし、その活躍振りは『甲陽軍鑑』『武田三代軍略』といった書物にて絶賛されている。
 だが信濃攻略の途中、志賀城での虐殺や、諏訪頼重に対する助命反故から北信の村上勢が頑強に抵抗したため、天文一七(1548)年二月一四日、上田原の戦いで武田勢は大敗した。この戦いで虎泰は、板垣信方を討ち取って意気上がる村上勢から晴信を守って戦い抜き、その身代わりになる様に戦死した。甘利虎泰享年五一歳。



両腕たる活躍 世に功を為した人物の成長には師傅となった者の影響が大きい(過去作・「師弟が通る日本史」参照)。その意味でも先代・武田信虎の信任が厚く、それゆえに師傅となった板垣信方の影響が幼少期から青年期にかけての武田信玄に大きく影響したのは想像に難くない。

 勿論、板垣に限った話ではなく、若き日の信玄は父よりも自分に味方した先代からの重臣達に支えられた。その頃の武田家重臣の名を見ると、甘利虎泰、原虎胤、諸角虎定、飯富虎昌等、信虎の偏諱を受けた者達が多い。
 そしてその中でも板垣甘利は重臣達の両頭だった。それは両名が単純に武勇に優れていたことだけを意味しているのではない。混迷と多方面の敵を抱えた武田家をまとめ得る存在だったことに大きな意味がある
 信虎と晴信の父子相克は(厳密には殺し合っていないが)普通の家なら一族崩壊ものである。家臣の中に不心得者や野心家がいれば信繁(信虎次子・晴信弟)辺りを担ぎ上げたり、今川、関東管領上杉、北条、諏訪等の諸氏に通じたりしていたとしても全くおかしくなかった。

 拙房で何度か触れているが、現代を生きる我々は「武士の忠義」というものを江戸時代の官学的観点で見がちである。それは平和な江戸時代に入って、配下の大名や武士達を反逆させないために確立された色が強く、卑怯の雨霰の中、今日を生きるのにも一苦労だった戦国時代には通じないことも多かった。
 ましてや当時の戦国大名の配下の多くは土着の国人領主で、「家」よりも「土地の支配者」に契約的な忠義を誓っていた者も少なくなかった(実際、原虎胤は一時期北条に仕えていた)。
だがそれ等の悪因を乗り越えて、信虎家臣団はほぼ全員がそのまま晴信に仕えた。それには信虎を恐れ、晴信に期待した家臣団の意向もあっただろうけれど彼等を取りまとめた板垣甘利の功績は目立たない故に優れている。
そして皮肉なことに、武田信玄死後、(火種自体は静かに存在し続けていたが)国人領主・累代家臣は武田勝頼を腹の底では主君と認めなかったことが甲斐源氏の名家滅亡に繋がった。
偏に、人材の宝庫であったが故に個性的な人物揃いの武田家臣団を板垣甘利の様に結束させ得る人材が後の武田家にいなかったことが悔やまれる(武や智で両名に劣らぬ馬場信春、山県昌景、真田幸隆もその点では及ばなかった)。

 ここまで語らずとも、上田原の戦いにおける両名の戦死が晴信にとって、武田家にとってどれほどの痛手であったかは想像に難くない。同時に二人の戦死が、武田家の動乱を治める力を持ちながら、血気に逸る晴信を抑えられなかったことに端を発していたことは実に興味深い。
 上田原の戦いにおける武田軍の大敗は武田軍が弱かったからではない。南信濃を攻略した際の晴信の捕虜に対する虐殺行為(←示威の為に捕虜三〇〇〇人の生首を志賀城前に並べた!)が村上氏を初めとする信濃衆に恐怖よりも怒りを覚えさせ、彼等が晴信以外の首を取ることを無視して突進するという、当時としては実に奇抜な戦法に武田軍が浮足立ったからである。

大河ドラマ『武田信玄』では菅原文太氏が演じた板垣信方と、本郷功次郎氏が演じた甘利虎泰が合戦を前にあの世で会うことを約束していた。さすがにこれはドラマ上の演出を狙ったフィクションと思うが、それだけ武田軍大敗の素地が整っていたことが示されており、戦後、両名の戦死が自分のせいであることを母・大井夫人(演・若尾文子氏)に叱責され、ぐうの音も出なかった晴信 (演・中井貴一)の姿は実に印象的で、両名を失ったことの重さが殊更強調されていた。



両腕の意義 「人は城、人は石垣…」の名言を残し、俗に「武田二十四将」、「武田四天王」と呼ばれる人材を擁し、これをよく活用した武田信玄の人使いの巧みさは世に名高い。
 人材をフル活用した信玄は名言の通り人を要塞とし、敵国勢を領内に踏み入らせず、甲斐国内は城を必要としなかったほどである。
 だが、信玄とて生まれていきなり人使いが達者だった訳ではなかった。父親に疎んじられ、廃嫡過程次第では命の危険さえあった絶大な苦難、そして若気の至りが生んだ信濃攻略の大苦戦という失敗(←勿論板垣信方甘利虎泰の戦死も含まれる)を経て卓越した技量を身に付けた。

 人間、恵まれている者の有難味とはなかなか分からないものである。空気や水が良い例だが、人材もまた然りである。古今東西多くの組織にて有能な人材を擁しながらその貴重さに気付かず、活かし切れていない例は枚挙に暇が無い。  皮肉な話だが、信虎時代から多くの人材を有する武田家にて、板垣甘利の戦死は失って知る人材の貴重さを信玄と武田家に教えたと云える。同じ痛恨事を長篠の戦いにて味わった時は教訓より痛手の方が大き過ぎたのもまた皮肉だったが


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令和三(2021)年六月九日 最終更新