第弐頁 織田信長(少年期) with平手政秀&林通勝……師傅に従う珠にあらず

主君:織田信長
氏名織田信長(おだのぶなが)
生没年天文三(1534)年五月一二日〜天正一〇(1582)年六月二日
地位尾張守護、美濃守護、右大臣
通称上総介
略歴 超有名人物に就き、省略(笑)。



家臣:平手政秀&林通勝
氏名平手政秀(ひらてまさひで) 林通勝(はやしみちかつ)
生没年延徳四(1492)年五月一〇日〜天文二二(1553)年閏一月一三日?〜天正八(1580)年一〇月一五日
地位織田家次席家老織田家筆頭家老
通称中務大輔、監物佐渡守、秀貞
略歴 延徳四(1492)年五月一〇日生まれ。織田信秀の代から重臣として仕え、その信頼は頗る厚かった。
 茶道や和歌などに通じた文化人であったこともあって、織田家中における外交を主に担当。周辺大名のみならず、朝廷との交流も任され、皇室・貴族の元を度々訪れては織田家の勤皇をアピールした。

 それ等の功績と信頼もあって天文三(1534)年に信秀の嫡男・吉法師(信長)が誕生するとその傅役となり、同時に次席家老にも任ぜられた。
 傅訳として吉法師を教育しただけでなく、天文一六(1547)年には元服した信長集団放火魔と大差ない初陣を補佐し、翌年には信長と美濃の斎藤道三の娘・濃姫との婚約を取り纏め、長年争い続けた斎藤家との和睦も成立させた。

 だが、この間信長は大半の家臣から「うつけ者」と陰口を叩かれるほどの奇行愚行を重ねており、次第に孤立。天文二〇(1551)年三月三日に織田信秀が病死すると家中は益々不穏となり、それを諫めるべく政秀は天文二二(1553)年閏一月一三日に切腹して果てた(切腹理由には異説もあり)。平手政秀享年六二歳。
 生年並びに若き日の経歴は不詳。昨今では「林通勝」の名は通称、または他人(松永久秀の家臣)との混同で、「林秀貞(はやしひでさだ)」が正しいとの説が強い(例によって、本作では通りの良さを優先して、敢えて従来の呼び名を使用します)。
 尾張春日井郡沖村の土豪であった林家に生まれ、織田信秀に仕えて重臣となり、後には平手政秀より上席の筆頭家老にまでなった。

 諌死のインパクトからどうしても政秀の方が有名だが、通勝信長傅役の一人で、天文一五(1546)年の信長の元服時には介添え役を務めた。
 だが政秀とは異なり、信長の「うつけ」振りに頭を痛めた通勝は一時信長を見限り、柴田権六(勝家)とともに織田信行(信長同母弟)を擁立せんとした。

 だが信長の器量は凡人の想像を超えており、「うつけ」と云われながらも信長は弘治元(1555)年に織田信友を討って清洲城を占拠(このとき、通勝は那古野城の留守居役に任ぜられた)。弘治二(1556)年に起こした謀反(稲生の戦い)も物の見事に失敗した。
 だが、信長は信行も、勝家も、通勝も許し、のみならず通勝と勝家は宿老の立場に据えられた。

 さすがにこうなっては通勝も勝家も信長に忠勤を尽くす以外に道はなく、後に信行が再度の謀反に及んだときは加担せず(さすがに二度刃向かった信行に助命の道は無かった)、筆頭家老の任務に尽力し、外交を中心とした行政に活躍した(信長が発給した政治的文書には常に署名していた)。
 具体例を挙げると、徳川家康との清州同盟締結時に立会人を務め、信長が足利義昭を奉じて上洛した際には、信長と義昭それぞれの重臣が起請文を交わした際には一番に名を連ねた。
 京都の公家衆が信長に謁見する際には常に通勝が取次役を務め、重要行事には常に信長に随行し、安土城の天主が完成した際にその内部を見ることが許されたのは通勝と村井貞勝(初代京都所司代)だけだった。

 天正三(1575)年一一月、織田家の家督が信長の嫡男・信忠に譲られると通勝は信忠付となり、勝家、佐久間信盛・明智光秀・羽柴秀吉等の様に領土を与える等のような出世は出来ずとも、累代の重臣筆頭としての地位が確保されたように思われた。

 だが、天正八(1580)年八月、林通勝は突如信長によって織田家から追放された。罪状は謀反だが、その謀反は二四年も前の信行擁立を咎められてのもので、常識で考えて「何故今更?!」としか云い様のないものだった。
 追放後の通勝は京や安芸にて余生を過ごしたが、既にかなりの老齢だったらしく、追放に意気消沈した物か、僅か二ヶ月後の同年一〇月一五日に世を去ったと云われる。林通勝享年不明。



両腕たる活躍 織田信長平手政秀林通勝の仲は、一般にイメージされる「殿と爺」と考えてまず差し支えあるまい。
 信秀当主時代はともかく、信長当主時代には政秀通勝もそれなりの年齢で、家老という地位的にも戦場で先陣を切る立場でもなかった。

 また信長軍団は個性あふれる人材の宝庫だが、そのイメージは足利義昭を奉じて上洛して以降のもので、家督を継いだばかりの頃の信長家中には試行錯誤を繰り返し、明日への我が身の振り方を考える者も少なくなく、御世辞にも「一枚岩」とは云い難かった(実際に通勝自身、信長に反旗を翻した)。
 となると、必然的に先代以来主君からの信頼と実績のある纏め役が必要とされ、それを為し得るのは政秀通勝をおいて他にはいなかったと云える(後に筆頭重臣と云える立場に立った柴田勝家もこの頃は「若僧」で、明智光秀・羽柴秀吉・滝川一益も「余所者」・「新参者」としか見られていなかった)。

 また、実際に常人には理解し難い信長の奇行には多くの諸将が不安を覚え、離脱したり、反旗を翻したりする者も現れた。それ等の動きは信長にとっては「想定の範囲内」だっただろうし、実際に信長は見事な手腕でこれらを沈めて織田家中を一枚岩にして、主家まで滅ぼして尾張一国を統一した訳だが、それは信長一人の能力だったとは考え難い(当の本人はそう思っているかも知れないが(苦笑))。
 そう考えると、信長政権初期の家中における沈静役が政秀通勝だったと見える。


両腕の意義 織田信長の生涯を通して見ると、平手政秀林通勝も「報われた生涯」とは云い難い。
 結果として政秀は自害、通勝は追放という末路を辿った。何故そうなったか?

 通勝が織田家を追放される頃には、柴田勝家、明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、滝川一益達が幅を利かし、他にも前田利家、佐々成政と云った懐刀的存在も育ち、美濃・近江・伊勢を支配下に治める過程で新たな人材を得て、将軍足利義昭の側近・細川幽斎や京都の公家衆といった家柄的には自分よりも各上の者達まで(事実上の)傘下に収めていた。
 政秀通勝の両名にとって酷い云い方をすれば、信長の人生の中盤以降、彼等は「用済み」になっていた感すら有る。
 そう考えると信長という男が合理主義者的過ぎたからと薩摩守は見ている。

 過去作で何度か触れた様に薩摩守は織田信長が好きではない。勿論彼が有能で、薩摩守如きの度量では量り切れない大人物で、彼が歴史になした功績は大いに認めている。
 つまり、薩摩守の「信長嫌い」は感傷に過ぎないのだが、結果的に薩摩守が信長を認めたがらないのは、彼の言動が極端から極端に走っているからだろう。血も涙もある人間でありながら、「合理」がそれに勝れば血も涙も捨てる………それは優れた点でありながら人間性の放棄とも取れる(それゆえ、「用済み」と見做された通勝は「未来の活躍」への期待より、「過去の遺恨」から来る謀反の可能性を重んじられ、追放された、と見るのである)。
 勿論これは独断と偏見だが、政秀通勝の末路は、信長のこの側面に裏打ちされている様に思われてならない。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新