局面壱 軍事の停止……新京造営と外征の果てに

出来事軍事停止
内容蝦夷征伐を初めとする軍事行動の停止
年代延暦二四(805)年一二月七日
キーパーソン桓武天皇、藤原緒嗣
影響皇族・貴族の軍事忌避傾向の増大
前史 武器や武装が全く存在しない社会などあり得ない。
 狩猟や自衛の関係からも、古代に遡る程人類は武器を発達させながら、進化してきたと云っても過言ではない(それをたてに現代における戦争必要論を唱える輩には反吐が出るが……)。
 実際、文明を発展させ、居住地域を拡大する中、大型野獣や異民族と戦うのに武器を発達させ、戦うと云うことと無縁ではいられなかっただろうし、戦争で異民族を傷付けたり、統治者に逆らう自国民を斬首などの手段で殺害したりすることへの禁忌が強まったのもここ二〇〇年程の話である。

 勿論、日本とて例外ではなく、『魏志倭人伝』によると日本には一〇〇以上もの国が存在して相争っていたと云う。
 多くの人々に尊崇された卑弥呼が葬られた際には一〇〇〇人の奴隷が殉死を強要されて生き埋めにされたし、敬虔な仏教徒で、慈悲深いことで有名な聖徳太子とて、仏教を守る為に物部氏と戦った際には先頭に立って剣を振るった。
 国家が充分な力を持つまでは外交に、内治に武力や酷刑を必要とするのは世の常だが、同時に平和が訪れると軍人・武人・残虐刑が疎んじられるのもまた世の常である。

 ともあれ、大和朝廷成立後も、日本は国内に在っては異民族の蝦夷・隼人と対立し、広大な領土持つ中国、大陸の最先端文明を持つ朝鮮半島の歴代国家との度重なる緊張も存在し続けた。
 だが、奈良時代末期から平安時代初期の醜い権力闘争を経て、桓武天皇の治世末期にはようやく世の中が平穏を取り戻そうとしていた。それは同時に朝廷が軍事に疲れ果てていたことも意味していた。


軍縮・武装解除 要は国家=平安朝廷が軍事権を放棄したと云うことである。

 事の始まりは桓武天皇による軍事(及び造作)の停止に在った。
 桓武天皇も即位直後は動乱・外征といった軍事ととても無縁でいられない立場にあった。そもそも桓武天皇は百済人の母を持ち、父である光仁天皇にしてから天皇即位には程遠い立場にあった。
 しかしながら、皇族・藤原氏間の勢力争いの中、父が即位し、自らは皇太子となったが、この時点で彼は貴族間の勢力争いや、腐敗した仏教勢力に辟易していた。
 それゆえ、即位した桓武天皇はそれ等と距離を置くため、長岡京への遷都を行った。だがその造営中に最も信頼していた寵臣・藤原種継(式家)が暗殺されるという事件が起き、その容疑者として皇太弟・早良親王が逮捕された。
 淡路島への流刑が決まった早良親王は無実を主張して抗議の絶食の果てに死し、その後の身内の連続死や疫病流行に「早良の祟り」と脅えた桓武天皇は平安京への再遷都を行った。

 その後、平安京造営や坂上田村麻呂による蝦夷討伐を指揮し、多忙な日々を送る桓武天皇は外征・内乱に疲れ果てていたのかも知れない。
 幾許かの平和を取り戻した桓武天皇だったが、延暦二四(805)年一二月七日、いまだ臣民が苦しんでいる現実に対し、その原因が何なのかを左大臣・藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)と参議・菅野真道(すがののまみち)に問うた(徳政論争)。
 論争の場にて、緒嗣は民を苦しめている要因を「軍事と造作」と断言した。
 つまり、蝦夷討伐という名の侵略による領土拡大と、遷都から一二年を経ても今尚続く平安京造営を初めとする数々の工事が民を苦しめていると告げたのである。古今東西、戦争や陵墓・城郭・宮殿などの大工事が民衆を苦しめた例は枚挙に暇がないが、それをはっきり云ってのける奴は少ない。
 独裁者相手だと意見が通らないどころか、自分が死ぬ危険があるのだが、独裁者が相手でなくても、為政者本人を目の前にしての政治批判は相当な勇気が要る。民主主義国家ですら、国家は自らの間違いを滅多なことでは認めないのだから、桓武天皇の度量を考慮に入れてもはっきり云い切った藤原緒嗣はなかなかに男である。

 実際、このときも菅野真道は桓武天皇の事績を擁護する立場から緒嗣の意見に反対し、両者の口論は全くの平行線を辿ったのだが、結局桓武天皇は「民の為」として、緒嗣の意見を容れ、軍事と造作は停止され、民衆の負担は軽減された。



後世への影響 短絡的に見れば、徳政に託けた責任放棄である。軍事を停止したことで国家として軍隊を動かすことまで放棄し、後には国家の義務である国防と警察任務まで放棄することとなった(詳細は二頁後を参照)。

 中期的な目で見れば、武力が中央集権から地方豪族に移行し、武士の世へと繋がることとなった。武装解除どころか、武力が幅を利かす世の中を一〇〇〇年に渡って続く基を作ったと云える。

 長期的な目で見れば、文と武の決定的な上下関係を確立したと云える。
 中国でも、動乱の世では大元帥・将軍・豪傑が重宝されるが、彼等は平和な世が到来されると敬遠され、忌避され、危険視され、最悪は粛清対象となる。漢初の韓信、英布(黥布)、彭越など、正に「狡兎死して走狗煮られ、高鳥尽きて良弓しまわれ、敵国滅びて謀臣誅殺される。」であった。
 まあ、必要な時は武を礼賛しつつ、必要なくなったら武を疎んじるのは古今東西よく見られることで、現代の日本人とて決してそれを笑うことは出来ない。そのことの是非をここで論じるつもりはないが、朝廷が軍事・警察という義務を放棄し、令外官たる検非違使にそれを委ねたことは、「刃を血塗らす仕事など、下賤の者のやること。」という偏見・暴論を世に定着させ、後々の世、武士がどれだけ力を得ても権威上は皇族・貴族の下に置かれ、武力で朝廷を滅ぼす者はついに現れなかった。

 何せ、元寇においても、命・領地・財産を犠牲にして戦った西国武士よりも、筥崎八幡宮に「敵国降伏」の扁額を行った亀山上皇の功績の方が上とされたのだから、武がどれほど軽んじられたか、悲惨な程である。
 ただ、「武よりも文」の位置づけ固定は後々の世に武力政権の暴走を抑えてきたとも薩摩守は思う。二・二六事件が短期の内に収束し、ポツダム宣言を巡る陸軍の頑迷な徹底抗戦主張を退け得たのも、昭和天皇の御意志が大きな権威を持っていたことと無縁ではあるまい。  それだけにその御意志に反して日米開戦が起こるのを防がれなかったのは残念至極だったのだが。

キーパーソン概略
桓武天皇 (天平九(737)年〜延暦二五(806)年三月一七日)………第五〇代天皇。奈良仏教勢力を厭うて平城京から長岡京に遷都。その後の政争や怨霊への恐れから延暦一三(794)年に再度の遷都を行い、平安時代の始まりを作った。
 坂上田村麻呂を指揮して三度の蝦夷討伐を行ったが、最晩年には軍事と造作を停止した。唐帰りの最澄に天台宗開宗を勅許するなど、仏教政策にも熱心だった。
 当時の天皇にしては珍しく、崩御の時まで在位していた。

藤原緒嗣 (宝亀五(774)年〜承和一〇(843)年七月二三日)………藤原式家の出で、桓武天皇擁立に功績の大きかった藤原百川の長子。
 幼くして父を亡くしたが、亡父に恩義を感じる桓武天皇の寵を受けて二九歳で父と同じ参議に就任した。
 賢明で良心的な一方で、頑固者でもあった(軍事・造作の停止を進言したのもその一例)ので歴代天皇の信任は厚く、老境に差し掛かっても度々の隠居申入れが認められない程だったが、同僚からは浮いてしまった。
 桓武天皇崩御後も、平城・嵯峨・仁明の四帝に仕え、自身は正二位左大臣まで昇進したが、同じ式家による不祥事のあおりを食って、北家にその座を譲ることとなった。


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令和三(2021)年五月一二日 最終更新