局面弐 薬子の変……平安初期最後の動乱と死刑廃止

出来事薬子の変
内容平城上皇、藤原仲成・薬子兄妹による謀叛未遂
年代大同五(810)年九月六日〜九月一二日
キーパーソン嵯峨天皇、坂上田村麻呂、文室綿麻呂
影響皇族・貴族の軍事忌避傾向の増大
前史 桓武天皇の崩御を受け、皇太弟の平城天皇が即位したが、健康上の理由により僅か三年で弟の嵯峨天皇に譲位して旧都・平城京に隠居した。
 しかし、平城上皇は妾の藤原薬子とその兄・藤原仲成に唆されて再度の即位を目論むようになった。その辺り、仲成と薬子が如何にとんでもない性格をしている一方で、父・種継以来の天皇側近としての権力を取り戻すのに苦心して以下に裏打ちされているのだが、その詳細は過去作「菜根版名誉挽回してみませんか?(女性編)」を御参照願いたい。

 しかし、嵯峨天皇側は逸早くこの動きを察知して先手を打った。



軍縮・武装解除 大同五(810)年九月六日、平城上皇は平安京を廃して、平城京に還都する詔勅を発令した。勿論平城上皇は現役ではなく、普通ならそんな権限はなく、嵯峨天皇はこれに驚いた。

 一先ずこれに従う様子を見せた嵯峨天皇だったが、四日後の九月一〇日には詔勅拒否を決断して武力衝突に備え、伊勢、近江、美濃の国府と関を固めさせた。
 藤原仲成を捕らえさせ、次いで坂上田村麻呂藤原冬嗣を昇進させて事の対応に当たらせた。仲成は右兵衛府に監禁され、佐渡権守に左遷され、翌日には射殺という方法で処刑された。ちなみに射殺と云っても銃殺ではない(←道場主「云わんでも分るわい!」)。
 同日、嵯峨天皇は平城京に密使を放って、平城京在京の大官を召致した。

 嵯峨天皇側の動きに驚き、激怒した平城上皇は東国に下向して挽回を図らんとしたが、田村麻呂の軍にその動きを阻止されるや早々と観念し、剃髪して仏門に入ることで降伏の意を示した。
 藤原薬子は毒を仰いで自害し、変に関わった多くの皇族、貴族が処罰されたが、それ等は概ね寛大で、左遷・流刑に留まり、処刑されたのは仲成一人だった。
 平城上皇自身、息子の高岳親王が皇太子の座を剥奪されたが、その後も上皇として平城京にて以前と変わりない生活を送り、天寿を全うした。
 旗頭の早々の降伏は乱において戦闘らしい戦闘を起こらせずに終結せしめ、その呆気なさゆえか、功労者に対する褒賞には特に目を見張るものはなかった。

 平城上皇の東国下向を阻止した坂上田村麻呂は翌年に天寿を全うした。
 乱当初、上皇側と見做されて監禁され、田村麻呂の取り成しで釈放され、乱鎮定に尽力した文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)は三年後に平安貴族として最後の征夷大将軍となった(厳密には百数十年後に藤原忠文が就任したが)が、北方に対する警備程度に終止し、その一〇年後にこの世を去った。
 それは、乱に前後して軍隊の活躍する時代が皆無とは云わないまでも、高く評価されない時代に入ったことを暗喩し、後の貴族による勢力争いにおいても、流血をなくならしめる嚆矢となった(と云い切るのはチョット過言な気もするが………)。

 乱の間、唐帰りの僧・空海は嵯峨天皇側の勝利を祈祷し、この様な乱が再び起こることがないよう鎮護国家の祈りを続け、その事から嵯峨天皇の厚意を受け、六年後に高野山を、更に七年後に教王護国寺(東寺)を下賜されたのだった。



後世への影響 嵯峨天皇の先々代・桓武天皇の時代に軍事は停止されていた。
 とはいえ、世の中から犯罪や政争が亡くなった訳ではなく、軍人がいなくなった訳ではなかった。しかしながら桓武天皇の決意は強く影響しており、変を起こした平城上皇はその荒ぶる感情とは裏腹に戦いらしい戦いをせず、平城上皇の還都宣言から一週間も経ずして薬子の変は終結した。

 変に際して命を失ったのは藤原仲成と藤原薬子の兄妹二人のみ。
 薬子の死は自ら毒を仰いだものなので、処刑されたのは仲成一人なのだが、この処刑は謀反人に対するそれとしてはかなり奇妙なものだった。
 というのも、仲成は平安京にて捕縛され、平城上皇を唆した者として佐渡権守に左遷された訳だが、翌日には殺されており、勿論左遷の地に赴くことは無かった。翌日には殺す者を左遷するのも変なら、処刑方法も変だった。
 具体的には、左近衛将監・紀清成と右近衛将曹・住吉豊継によって射殺された訳だが、当時の養老律令に定められていた斬首・絞首とも異なる。また前述した様に、仲成に対して一旦は左遷という処罰が下されたのに、それを執行することなく殺されているのである。

 些か乱暴な用例になるが、現在の刑法に当て嵌めると、暴動を教唆した被告政治家(それも未遂)から地位を剥奪した翌日に銃殺するようなもので、現代の政府がこれをやったら、死刑廃止論者による抗議どころの騒ぎではない。
 うちの道場主は死刑存置派だが、それでもかかる暴挙があったらその法律違反を無視しはしないだろう。
 かように、仲成処刑は余りに常識外れなものだったため、この死刑は「私刑」ではないか?との見解もある。というのも藤原仲成の素行はかなり横暴で、仲成の死に同情する声は皆無に近かった。

 となると、この薬子の変、れっきとした謀叛にもかかわらず「死刑」が無かったことになる。
 現代より二〇〇〇年も遡った時代において、時の権力者、まして正統な皇位にある者に対する反逆は(例え未遂や机上の空論段階でも)洋を問わず首謀者の処刑は当たり前で、場合によっては一族郎党の連座すら有り得た。

 以上を鑑み、既に当時の日本は武をもって武を制したり、乱鎮圧にせよ、処罰にせよ、外患対応にせよ、刃に血を塗ったりすることに忌避的になる土壌が生れていたのかも知れない(ついでを云えば、朝廷が仮想敵国としていた蝦夷側には、大和朝廷に対する侵略の意図は全くと云って良いほどなかった)。

 嵯峨天皇は前述した様に鎮護国家に尽力した唐帰りの僧・空海を優遇し、空海は高野山、東寺を下賜され、真言宗を開宗した。
 その嵯峨天皇の統治下にて平安時代はようやくその名に相応しい平和な時代を迎え、保元元(1156)年の保元の乱まで三四六年間、死刑は行われなかった。

 ただ、誤解を生まない様に少し詳細に触れておきたい。
 厳密には死刑が律令から削除された訳ではなく、実際に死刑が宣告されたが、「帝の恩情により、罪一党減じ…。」として減刑されることが常となることで、実質死刑判決が下されなくなったもので、それも中央官界においてのみの話だった。
 地方の国司による統治下にあっては死刑同然の処刑は存在し続けた。勿論、軍隊を率いての反乱を成した者はその場で戦死したり、現場指揮官の一存で命を奪われたりしたので、中央における慣例化した減刑傾向がどこまで日本人の心に浸透していたかは定かではない(前九年の役における藤原経清に至っては、処刑の苦しみが長引く様に刃毀れした刀で斬られた)。

 ただそれでも、薬子の変に前後した軍乱・酷刑に対する忌避は中央のみとはいえ、平安時代を通して与えた影響は大きいと思われる。
 薬子の変から四半世紀後、空海が入定し、その七年後に嵯峨上皇が崩御すると貴族達は暗闘を起こした。僅か二日後に橘逸勢と伴健岑が謀反の疑いで逮捕され、皇太子・恒貞親王が廃嫡された(承和の変)。
 橘逸勢は唐留学時に空海と知己を得、嵯峨天皇・空海共に三筆に数えられた人物だったが、その逮捕により三筆がこの世から姿を消したことが貴族暗闘の時代に入ったのは何とも皮肉だったが、それでも死者は出なかった。

 (承和の変後も、応天門の変(伴善男失脚)、昌泰の変(菅原道真左遷)、安和の変(源高明左遷)、と藤原氏は陰謀を繰り広げたが、それでも死者は出なかった(菅原道真死後の「祟り」と見做された被害の方が遥かに大きいような………)。

 平安時代とは、決して名の通りに平安の内に過ごせる時代ではなく、戦乱も天災も暗闘も後を絶たなかったが、それでも日本人が古来持っていた死穢、流血に対する忌避が形になることで後世に大きな影響を残したのではないかと思われる。



キーパーソン概略
嵯峨天皇(さがてんのう 延暦五(786)九月七日〜承和九(842)年七月一五日)………第五二代天皇。桓武天皇の第二皇子で、兄・平城天皇の譲位を受けて即位。即位直後の薬子の変を除けば約四〇年の治世平穏の内に治め、平安仏教(天台宗・真言宗)に理解を示したのを皮切りに唐風を中心とした文化の興隆にも尽力し、空海・橘逸勢と供に三筆の一人にも数えられている。
 子沢山で、臣籍降下した子孫が嵯峨源氏の祖となった。

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ 天平宝字二(758)年〜弘仁二(811)年五月二三日)………公卿・武官。桓武天皇の信任を得て、征夷大将軍となって蝦夷討伐に活躍。
 武力に優れていただけでなく、情け深く、人当たりの良さも評価の高い人物で、降伏した阿弖流為への助命嘆願も行った(成功しなかったが)。
 死後は平安京の守り神としてその東に立ったまま棺に納められた。極冠は正三位大納言だったが、死後に従二位を贈られた。

文室綿麻呂(ふんやのわたまろ 天平神護元(765)年〜弘仁一四(823)年四月二六日)………公卿。父祖の代から武官とし朝廷に出仕。坂上田村麻呂の下で蝦夷討伐に尽力。
 薬子の変では当初平城上皇派と見做されて軟禁下に置かれたが、田村麻呂の取り成しで釈放された上に昇進し、乱の鎮圧に活躍。
 乱後も東北地方の鎮撫に従事。

藤原冬嗣ふじわらのふゆつぐ 宝亀六(775)年〜天長三(826)年七月二四日)………  藤原北家出身の公卿で、始祖藤原房前は高祖父。薬子の変に際して嵯峨天皇が蔵人所を新設するとその初代蔵人頭に就任した。
 謀略に長けた藤原家にしては珍しく(笑)公平で、潔く私情に流されない人物として評判が高かった祖父・藤原真楯に似たようで、冬嗣自身も度量が有り、温和且つ柔軟な思考を持ち、肝要な態度で人に接し、貧民への施しも行った。
 才能と人格の二物を以て推しも推されもせぬ昇進を重ね、勢力を衰えさせた藤原式家を尻目に藤原北家が藤原家中における最大勢力を築く先駆けとなった。


次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和三(2021)年五月一二日 最終更新