最終局面 今後の武器社会は?

武装の必要性と憧れ
 人間の多くは戦争や殺し合いを望まない。
 人を手に掛けることは酷い話だし、それ以上に自分が殺されるのは恐ろしい事である。実際、軍人や兵士の中にも戦場に出たことで人を殺した罪悪感に苛まれ、PTSDに陥る者も珍しくないと云う。
 しかしながら有史以来人は武装し、軍を形成してきた。

 何故か?

 それを語れば人類史を頭から現代まで語らねばならず、サイトのメモリーが幾らあっても足りない。それゆえざっくばらんに語ると、「戦う」と云うことに一種のカッコよさや憧れがあるからだろう

 道場主自身、幼少の頃より弱く、臆病な人間であるにも関わらず武道の世界に身を置かんとし続けてきた。
 弱い故に強さに憧れ、それに一歩でも近付きたくて空手・剣道・柔道・アーチェリー等に挑んできた(ついでを云えば、強さに対する憧れが原動力になっているのは菜根道場のすべての分身に共通する)。それらのいずれにおいても三流選手の域を出られなかったが、それでも挑んで来たことに意義はあると思うし、才能を理由に全く挑まなかったとしたらもやしっ子や青びょうたんになっていたと思う。
 おかげでと云っては変だが、アラフィフとなった今でも仕事においてもある程度は体力勝負に挑んでいるし、今後も身を置きたいと思っている。そして思想面に在っても、「兵士ならずとも、一生戦士であろう。」と念じている。

 まあ、道場主の生き様は国家の武装とは関係ないが、争いを好まず、血の気の少ない人々でもいざというときの為に自分や大切な周囲を守れるぐらいの戦闘能力に必然性とかっこ良さを感じ、重んじる人は少なくないだろう。
 そして急迫不正の侵害に曝され、正当防衛に出なければならないとなったら、銃や刀を所持しておらずとも、周囲にある棒切れや石ころを得物にすることは充分にあり得る。

 そのことを鑑みれば、「これまでの武装を捨てよ。」と云われれば、個人であれ、組織であれ、国家であれ、大きな抵抗とそれ以上の不安に捉われるだろう。
 いくら日本人及び日本の政治家が日本国憲法第九条を遵守しても、日本国の統治下にない外国や海外勢力がこちらに合わせてくれる保証など全くない。武器を捨てたくても、「相手が信用出来ない………。」の一言で拒む者が大半だろうし、核廃絶が進まないのはその最たるものだろう。

 つまるところ、国家間において、政府・個人間において、個人と個人の間において完全な非武装を達成するには人類そのものが余りにも相手を信用しなさ過ぎていると云える。
 そして到底信用を得るのに程遠いと云わざるを得ない国家・組織・個人の例も枚挙に暇がない。

 現状理想論でしかないが、完全な安全が保障されれば万人が武器を捨てられるだろう。勿論有名な洋楽の歌詞を借りれば、「You may say I’m a dreamer.」の一言で片づけられてしまうだろうけれど、それに一歩でも半歩でも近付く努力は大切で、近づけば近づく程武装する人が減り、それに比例して武器で命を落とす人も減ることだろうと信じて疑わない。



今後の武装と政治
 現実に即すなら、現状の武装を一先ずは維持しつつ、兵器と云うものが如何に残酷であるかを万人の潜在意識に刷り込むことだろう。
 二一世紀が始まったばかりの頃、某イケメン俳優が某ドラマでバタフライナイフを持つシーンが人気を博したことから、中学生・高校生がナイフを持ちたがると云う悪しき流行が起きた。勿論彼等が誰かを殺そうと思って所持したとは思わない(多くはカッコ付けや威嚇の為だろう)。
 このことは社会問題となり、人々は少年の持つ刃物に恐怖したが、この世の中にはバタフライナイフより遥かに高い殺傷能力を持つ武器が溢れている。それでもバタフライナイフの方が畏れられたのは、それらが「身近な脅威」で、「未熟な少年少女」が持つことで「突如の暴走」という危険性を見出したからだろう。

 国家にも同じことが云える。
 世界で最も多くの核兵器を保有するのはアメリカ合衆国だが、日本人が脅威を感じるのは朝鮮民主主義人民共和国の核兵器である。勿論質量ともに北朝鮮の核兵器はアメリカのそれに遠く及ばないのだが、日本に対してアメリカ大統領が暴走して三度目の核兵器を投下する可能性と、北朝鮮の首領が暴走して核兵器を発動させる可能性を比較すると、多くの人々が後者の方を懸念するだろう。
 物凄く言葉悪い慣用句を例示するなら「キチ●イに刃物」と云えよう。

 では、これらの脅威や懸念に対して日本も核武装を初めとする軍事強化を図るべきか?

 薩摩守の答えは「否」である。
 核抑止論と云う考え方を全面否定はしないが、それでもこれは互いの喉元に刃物を宛がいながら握手するようなもので、そんな恐怖に怯えながらの平和が真の平和とは到底思えない。危ないことを云えばそこまでしてでないと保てない平和なら人類なんて滅びればいいと思いそうになるときすらある

 まあ、これは暴論。一度持てばまず手放せない、それでいて使えば世界を滅ぼす引き金になりかねない核兵器の武装は厳に戒めねばならないとして、一方で真剣に国防を考えなければならない脅威が存在するのも事実である。

 哀しいことだが、人類史上における武装の技術進化は留まることを知らない。そして薩摩守自身、「こうしなさい。」と云い切れる正解を持ち合わせている訳ではない。薩摩守ごときに正解が出せればとっくに人類は武器を捨てているだろうし、今現在の正解を出せてもそれが永遠の成果になり得るとは思えない。

 ではどうすればいいか?

 まずは防衛省と自衛隊を存続しつつ、極力攻撃力に偏らない防備を整えるべきだろう。仮にバリヤーが開発出来たとしても、外国はそれ以上の兵器を開発するかも知れないが、人を殺す手段と人を守る手段のどちらが人道的に支持されるかを考えて欲しい。
 飛んでくるミサイルを迎撃するシステムの開発は否定しないが、先制攻撃に出てはいけないだろう。実際、国家は先制攻撃を行う場合でも「自衛の為。」と叫ぶが、それが信用されるかどうか冷静に考えて欲しい。

 そして同時に並行して整えなければならないのは政治の問題である。
 書けば長くなるので割愛するが、領土・宗教・人種問題を唄っていても結局戦争の要因となるのは経済問題である。
 大航海時代の欧州がアジア・アフリカの多くを植民地化したのも、そこに住みたいからではなく、資源や貿易港を抑えるのが目的だった。現在の国境紛争も資源・交易ルート・農地が真の目的であることに変わりはない。
 それゆえ、これらの問題を外交・取引にて解決すれば誰も命を捨ててまでそれらを奪いに行こうとはしない。逆を云えば石油利権に目が眩めば在りもしない「大量破壊兵器」を盾に戦争を始めるなんてことをほんの十数年前のアメリカがやらかした。

 ジャンルは異なるが、『空想科学得本2』(メディアファクトリー刊)にて筆者の柳田理科雄氏は、「戦争   無能な為政者が「これしかない!」と云って始める最最悪の政策。勝とうが負けようが当事国の国民は甚大な被害を被る。筆者の祖父はこれで命を落とした。」と記している。
 至言と云えよう。
 要は経済問題が片付けば戦争は防げるし、武装は最小限で済む。逆を云えば、軍需産業が大きな力を持ち、経済問題と密接に結びついているアメリカは銃規制が進まず、十数年に一度は戦争を起こしている。  強大な軍備が必ずしも平和を守る訳ではないのである


武器に頼らない未来の為に
 日本国の武装を考える際に、避けて通れないのが日本国憲法第九条との兼ね合いである。
 薩摩守は対テロ防衛や、暴走しかねない周辺国に睨みを利かせる為にも、現状の自衛隊は必要と見ているし、東日本大震災を初めとする大災害時には欠かせない組織と見ている。
 だが、武力の保持を禁じた日本国憲法第九条と照合するなら、自衛隊の存在は違憲であると捉えている。

 となると、護憲と改憲で取るべき道は二つに分かれる。
 護憲に立つなら、自衛隊は廃止し、テロや大災害に対しては警察組織やレスキュー組織をより強力なものとし、一方で在日米軍を今まで以上に優遇し、アメリカ様の機嫌を取り結ばねばならないだろう。
 ちなみに、護憲にこだわり、自衛隊も在日米軍も警察権力の強化も否定する方々の中には海外から責められた際に「降伏すればいい。」という者もいるが、薩摩守はこれは論外と斬り捨てている。全くの無抵抗者相手に武器を持って好き勝手振る舞うものが如何に害をもたらしうるか‥‥‥……同盟国として日本に駐留する米軍ですら乱暴狼藉の事件は後を絶たず、そやつらを完全な日本の主権で裁けない現状を無視するなと云いたい。

 逆に改憲に立つなら、自衛隊を国防軍とし、日米同盟は維持しつつも、国内における米軍優位は徹底的に排除しなくてはならないだろう。そして文民統制シビリアン・コントロール)を徹底し、昭和初期の様な軍部の暴走の前に反戦言論が封じられ、戦線拡大が止めるに止められない事態の再来は絶対阻止しなくてはならない。
 そして「国防」・「専守防衛」を謳う以上、軍は決して日本の領土・領海・領空を出てはなならない。

 結局、現代日本国が護憲に徹することが出来ず、さりとて改憲に進むでもないのは、護憲も改憲も双方に問題があり、徹することが出来ないからだろう。

 日本国憲法が改憲されるとなると間違いなく日本は今よりも戦争のし易い国になる。如何なる内容になろうとも、現憲法に記されていない国際紛争にどのようにして向かい合うかを決める必要がある(云い換えれば、連合軍占領下にあった時点の日本国では考える必要がなかったから、単純な非武装だけを述べることが出来た)。

 理想と現実の狭間で、薩摩守自身、護憲とも改憲とも云い切れない。
 日本人が二度と武器を持って海外に出る様なことが無いようにする為には「護憲!」と叫びたくなる。
 だが、テロ組織やならず者国家の実在、アメリカ軍の庇護下で属国の様に扱われている現状を鑑みれば「改憲!」と叫びたくなる時もある。


 だが、護憲・改憲以前に大切なことがある。


 現憲法であれ、新憲法であれ、「ちゃんと遵守されるのか?」という問題である。


 日本国憲法を遵守するなら自衛隊の存在は(法としては)許されず、「自衛」の観点から国際協力の為とはいえ、武器を持って他国の領土に踏み入るのは重大な憲法無視に他ならない。
 そんな憲法を遵守しない動きを日本政府が執るのも、すべては「アメリカの都合」である。
 湾岸戦争に際してPKO活動に対して時の海部俊樹政権は90億ドルの支援を行いながら、「金だけ出して、危険を冒しての協力をしない!」として国際世論から叩かれた(後にはクウェートから感謝され、この恩義に報いる形で東日本大震災に際してクウェートは逸早く大量の原油を無償供与してくれた)。
 結局、アメリカを初めとする外国からの圧力に屈し、自衛隊が国外に出ることとなったが、憲法との兼ね合いに関して時の総理(宮沢喜一)は「憲法の新解釈」と抜かした……………国の最も基本となる憲法がそんな曖昧なことでいいのか?

 日本国憲法が施行された翌年に成立した大韓民国ではその後四四年の間に二度の憲法改正が行われた。それから三〇年近くを経ても未だ改正されない現憲法だが、いつかは改正される日が来るだろう。
 護憲であれ、改憲であれ、大切なのは「海外の都合でブレたりしないのか?」と云う一点が第一、と薩摩守は考える。



歴史・政治素人の愚見
 薩摩守は学者でもなければ、政治家でもなく、ただのサラリーマンである。本作で述べた武装・軍縮・軍政・憲法論・外交論のいずれも本職から見れば「現実を知らない素人め‥‥‥…。」と嘲笑されるだけかも知れない。
 だが、これだけ問題を述べてきた以上、素人は素人なりに最後に愚見を述べておきたい。

 それは「ブラフ(はったり)」である。

 つまり、軍拡や核武装を「やらざるを得ない!」と見せて周辺国を牽制し、実際にはやらない(笑)ということである。
 例えば、ほぼすべての周辺国と領土問題を起こし、傲慢ともいえる態度を取る中華人民共和国がある日、「核兵器を持たない日本に核兵器を使用しない。」と云ったことがある。些か極論だが、丸腰相手に武器を用いることが多くの人々にとって「卑怯」との概念が有る様に、非武装ならずとも、重武装ならぬ相手に強硬手段には出辛いという面がある。これを利用するのである。

 現日本国に対し、韓国・北朝鮮・中国はいまも過去に大日本帝国による害を声高に叫び、過去に幾度も謝罪・賠償(またはそれの替わりとなる援助)を行ったのを丸で顧みず、更なる謝罪・賠償を要求したり、大量破壊兵器を用いかねない恫喝的な主張を繰り返したりする。
 それも、終戦記念日や、互いに揉めている領土に関連する日に抗議し、戦犯とは関係しない靖国参拝にも抗議してくる(薩摩守は靖国神社の主張や靖国参拝に否定的だが、それでも海外が文句を云うのは不当な内政干渉だと思っている)。

 当然、日本政府が防衛力を強化したり、旧日本軍の悪事を過小評価したり否定したりする言を展開すれば、「過去への反省がない!」、「軍国主義に戻る気か?」と叫ぶ。
 そんなとき、薩摩守が政治家ならこう叫ぶだろう。

 「そんなに日本を過去の軍事大国に戻したくないなら、日本を怒らせる言動を少しは慎めやぁ!!!」

 と。
 確かに韓国・北朝鮮・中国は旧日本軍の為に多くの被害と屈辱を被った。それらを「忘れろ。」とは云えないし、それらを過剰に庇ったり否定したりする一部の政治家がこれらの国々の怒りを買っているのも腹立たしい。
 だが、日本はそんな政治家や学者や論客ばかりではないし、現在の日本国を動かしている人々の多くは年齢的に旧帝国の言動に責任を持ちえない者達である。にもかかわらず、韓国・北朝鮮・中国政府首脳は国内の自分達への不安を逸らす為に反日カードを切ることを何度もして来た。日本政府や日本人が大人しく過去への反省を述べ続けていたとしてもである。

 反省を口にし続けていても謝罪・賠償を求め続けられれば、過去の一切の非を認めない言論に走ったり、軍事強化を叫ぶ日本人も増えよう。韓国・北朝鮮・中国が真に日本が非戦的な国家であり続けて欲しいなら、一部の保守的・極右的な日本人の言動だけを取り上げて敵対的な言動を繰り返すのは有害無益であることも伝える必要があるだろう。
 乱暴な云い方をすれば、

「どうあっても日本を悪く云い続け、拉致や恫喝を繰り返すなら日本も軍拡せざるを得んぞ!」

 というブラフを極力温厚な手段で仄めかすということである。

 道場主が亡き父から聞いた話で、伝聞故どこまで真実か分からないが、かつての総理大臣佐藤栄作はアメリカに対して、「安保問題でこれ以上無茶を云うなら日本も核武装をせざるを得ません。」と半ば恫喝してアメリカ側の譲歩を引き出したことがあるらしい。

 つい先日まで総理大臣をやっていた安倍晋三氏が大叔父(母方の祖父の弟)のこの言を知っていたか(それ以前にこの話が本当か)知る由も無いが、本来は好ましくない「嘘」でも人命・予算を損ねることなく、武装を抑え、平和が持続されるなら、憲法改正に勝る立派な「方便」となり得ると、薩摩守は素人なりに考えるのだが、如何だろうか?


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令和三(2021)年五月一二日 最終更新