第壱章 藤原伊周…謎多き自滅行為 嫡流VSやり手の叔父貴供

名前藤原伊周(ふじわらのこれちか)
家系摂関家である藤原北家の嫡流・中関白家
藤原道隆
高階貴子
生没年天延二(974)年〜寛弘元(1010)年一月二八日
極冠正二位内大臣
政敵藤原道兼、藤原道長
見舞った不幸身内の連続死、左遷、夭折
生涯
 天延二(974)年に藤原道隆(ふじわらみちたか)の嫡男に生まれた。
 伊周は道隆の第三子に当たるのだが、母親である高階貴子(たかしなたかこ)の身分が高かった(貴子の父は公卿にして学者)ことから、異母兄・道頼(みちより)を差し置いて嫡男となった。

 寛和元(985)年一一月二〇日に一二歳で元服するやいきなり従五位下に、翌寛和二(986)年七月二二日に一条天皇(生母は伊周の叔母・詮子)の即位式に昇殿して侍従・左兵衛佐に、永延元(987)年には左少将とトントン拍子に出世した。
 更に正暦五(990)年七月二日に祖父・兼家が薨去して父・道隆が後を継ぐと、五月八日の道隆が摂政に、一〇月の同母妹定子(ていし)が一条天皇中宮になるに伴って、伊周の摂関家嫡男としての格も上がった。

 父・道隆の引き立てで、伊周は正暦二(991)年一月二六日参議に、同年七月二七日従三位に、同年九月七日権中納言に、翌正暦三(992)年八月二八日正三位権大納言に、丁度二年後の正暦五(994)年八月二八日には内大臣に就任した。
 しかもこの内大臣就任は伊周の叔父・藤原道長を含む三人の先任者を追い越すもので、藤原一族全体で見ても、伊周の上に立つ者は、叔父の道兼(兼家次男・右大臣)しかいなかった。時に藤原伊周弱冠二一歳。

 だが、長徳元(995)年二月に道隆が元来の大酒飲みが祟って重病となるや、伊周及びその弟妹の運命も暗転した。
 死期を悟った道隆は、自らの権力と関白位を伊周に委譲しようとして一条天皇に奏上するも、三月八日に内覧(重要書類の確認)を許されるに留まり、同年四月三日の再度の奏上も実を結ばず、六日に最期を悟って出家した道隆は一〇日に薨去した。

 結果、一七日間の空白を経て四月二七日に藤原道兼が藤原氏の氏長者並びに関白に就任したが、当時流行した天然痘に侵されていた道兼は就任挨拶の為に参内してから僅か七日後の五月八日に世を去った。
 だがそれでも伊周にお鉢は回らず、一条天皇は寵愛する定子の兄にして従兄である伊周よりも、実母が強く推す叔父の藤原道長を五月一一日に内覧に任じた。
 八日後の五月一九日には道長は伊周より上位の右大臣に、また同時に氏長者にも任命された。

 氏長者を巡っての伊周と叔父・道長の対立は衆目にも明らかなほど激化した。
 凄まじい激論が交わされ、伊周の弟・隆家の従者と道長の従者が大乱闘までしたほどだった。
 そして長徳二(996)年一月一六日、花山法皇が伊周・隆家の従者に矢を射かけられる、という事件(所謂、長徳の変)が起こるや、道長は素早く検非違使を派し、家宅捜索を行わせた。
 結果、四月二四日に、「花山法皇に対する不敬」、「東三条院詮子への呪詛」・「秘かに大元帥法を行った。」(同法は真言密教における呪法で、臣下が行うのは許されていなかった)という三ヶ条の咎をもって、伊周は大宰府権帥に、隆家は出雲権守に左遷しされた(「権」は「副」や「仮」の意)。

 伊周は懐妊中だった妹・定子の身を案じ、重病と称して出立しなかったが、五月一日に強制捜査が入って逃亡(この強制捜査を恥じた定子は落飾した)。
 その後紆余曲折を経て、五月一五日には伊周を播磨に、隆家を但馬に留め置く旨の詔勅が出たが、配流の同行を許されずに病に倒れた母・貴子を案じて秘かに入京したことで、今度こそ大宰府に護送された(貴子は一〇月末に没)。


 長徳三(997)四月五日、東三条院詮子の病気平癒を祈る恩赦で隆家ともども帰京を許され、その年の一二月末に帰京したが、伊周を巡る周辺状況は安定しなかった。
 長保元(999)年一一月七日に定子が一条天皇の待望の第一皇子・敦康親王を出産し、伊周に次期天皇の伯父となる可能性が巡って来たが、同日、道長の長女・彰子(しょうし)が一条天皇の女御となり、翌長保二(1000)年二月二五日には中宮に立后され、定子は皇后(この辺りの違いは薩摩守にはよく分からない)となった。
 その年の一二月一五日に第二皇女を出産した定子は後産中の産褥が元で息を引き取り、座したまま世を去った妹を抱きながら伊周は周囲もはばからず号泣したと云う。


 長保三(1001)年閏一二月一六日、崩御する六日前に東三条院詮子は、道隆一家に辛く当ったことを悔いるように伊周兄弟の復位を一条天皇に促し、長保五(1003)年九月二二日に至って伊周は従二位に、寛弘二(1005)年二月二五日には座次を「大臣の下・大納言の上」とされ、翌日昇殿を許され、一一月一三日に朝議に参加した。

 伊周への風当たりの緩衝には、中宮彰子がなかなか皇子を産まず、いざという時には定子が産んだ敦康親王を擁立することを考えていた道長からの懐柔もあった(母・定子を亡くした敦康親王は彰子に育てられていた)。
 それゆえに寛弘五(1008)年九月一一日に彰子が一条天皇の第二皇子・敦成親王(後の後一条天皇)を産むと再々度伊周の立場は暗転した。

 政治的に伊周を今度こそ落ち目と見た世間の風当たりは冷たく、敦成親王百日の儀にて見事な和歌を親王に贈るも、人々は請われもしないのに和歌を送った伊周を非難した(←やだねぇ……)。
 追い打ちをかけるように、寛弘六(1009)年一月七日に正二位になった伊周に対して、翌月二〇日に中宮と親王への呪詛事件に対する容疑で叔母の高階光子が投獄され、伊周も参内停止を命じられた。
 六月一三日には参内を許されるようになったが、これは最早伊周が道長にとって政敵に値しない、と見られればこそで、失意の伊周にそれ以上の活力はなく、心労から翌寛弘七(1010)年一月二八日薨去した。享年三七歳。

 死に臨んで伊周は嫡男・道雅(みちまさ)には「人に追従して生きるよりは出家せよ。」と伝え、二人の娘には宮仕えの重要性を、弟の隆家には彼を息子のように想っていたことと、道雅の行く末を託す旨を遺言した。
 伊周死後、その屋敷に盗賊が大挙して入るほど荒廃し、道雅も然したる出世をしないどころか乱行に終始したが、僅かに長女が道長の息子・頼宗と結婚し、正室として重んぜられたことから頼宗の後を継ぐ子供達を生み、伊周の血を後世に残した。



嫡男たる立場
 行動の是非はともかく、中関白家の人間は親子愛・兄弟愛が強かった。藤原伊周はそんな一家の嫡男に生まれたのであった。
 生まれついての嫡男では無かったとはいえ、庶兄・道頼は道隆の父・兼家(つまり伊周兄弟の祖父)の六男という立場で養子に迎えられ、寵愛されたから、中関白家の嫡男としての伊周の立場は早くから明確で、それゆえに伊周は愛され、媚びられ、そして憎まれた。
 同時にそれは彼が藤原一族の一員である、という厳然たる事実が良くも悪くもつきまとうことを意味した。

 中関白家の嫡男として、摂政就任後から没するまでに道隆が伊周を昇進させた引き立て振りは、衆人が眉を顰めるものがあった。
 殊に兼家の時代に花山法皇を半ば騙すように出家・退位させるのに尽力した功で、「自分こそ跡取り」と思っていた道兼や、末弟・道長を可愛がっていた詮子は道隆の専横を憎み、それがもとで伊周にも辛く当たることとなった。

 道隆による伊周・隆家昇進は完全な息子への溺愛だが、道隆は定子のためにも「優れた女官が必要。」と躍起になり、その結果、清少納言という当代随一の才女を娘の為に手配したりもした。
 事の是非はどうあれ、道隆の子供達に対する愛情は生半可なものではなく、それは彼の臨終にも、そして息子である伊周の言動にも表れている。
 伊周は明らかに母・貴子にも、弟・隆家にも、妹・定子にも深い愛情を注ぎ、貴子・隆家・定子もそれによく応えた。


 父・道隆が既に亡く、中関白家の覇権が崩壊した状態で母と妹を放っておけなかった伊周は、長徳の変の折にさんざんぱら逃げまくりながら、病身の母に最後の対面を果たす為に大人しく播磨に留まらずに秘かに帰京して捕まり、改めて大宰府に流される、という矛盾した行動を取っている。
 確かに権力闘争上は矛盾した行為なのだが、家族愛を考えれば全く矛盾していない。
 最初に逃げたのが母・兄・弟を一度に失おうとしている身で出産に臨もうと里帰りをしていた定子の側に居てあげる為で、最後に捕まったのは病で先のない母と最後の対面を果たす為で、伊周は権力や罪業よりも嫡男として家族との時間を重んじたのである。

 一連の行為が、伊周が中関白家の嫡男である我が身を意識したものかどうかは分からない。
 だが、後産中に死んだ定子を抱きながら号泣する姿や、今際の際に隆家に対して述べた想いはもらい泣きを誘うものがあり、彼が家族想いだったことに異論はないだろう。
 そしてそんな伊周だったからこそ、流罪に際して母は同行を望み、妹は手を取って泣き、弟は流刑地は別でも罪も恩赦も運命を共にし、彼を嫌った筈の道長や詮子にしても命まで奪うことはなく(←何だかんだ云って身内であることに間違いはない)、「害は無い」と知るや罪を赦し、位を戻すぐらいの配慮は為されたのだろう。


 歴史に本来禁物である「if(もしも)」で伊周を、「もし嫡男でなかったら?」で推察すると、弟・隆家の如く、大きな権力を掴まずとも、どこかで才能の一端を垣間見せて、失脚者ではなく、一コマを飾る身内に優しい者として名を残したのではなかろうか?
 ちなみに隆家は大宰権帥時代に、刀伊の入寇(女真族と見られる異民族による一六日間の対馬・壱岐襲撃)に際して、軍人でもないのに見事に九州の豪族をまとめて撃退に成功している。決して才能のない人間ではないのである。
 伊周にしても、定子や敦成親王を想って詠んだ和歌には定評があり、学者家系である母方の血や教育(当時は夫の通い婚で、子供は母の実家で育てられた)もあってか、漢籍にも明るく、伊周には他の生き方があったように思われてならないのである。



同情すべき悲運
 藤原伊周には三つの不運があった、と薩摩守は見ている。
 一つは父・道隆が余りにも敵を作り過ぎたこと。
 前述した様に、道隆の子供想いは、それ自体は悪いことではないものの、身贔屓による人事は露骨過ぎ、道兼も道長も詮子もそれを嫌った。
 直に報復に出られないことが後々伊周への遠回し且つ陰険な報復となった。

 二つ目は叔父・道長を始め、キャラの濃い身内に囲まれ、戦わざるを得なかったこと。
 藤原氏は始祖・藤原鎌足(ふじわらのかまたり)以降、不比等(ふひと)・武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)・仲麻呂(なかまろ)・永手(ながて)・百川(ももかわ)・種継(たねつぐ)・良房(よしふさ)・基経(もとつね)・時平(ときひら)・兼家・道兼、と有能且つキャラの濃い連中が目白押しである。
 勿論、道隆・伊周・隆家もその一人なのだが、数多い藤原一族にあって、伊周と政治的に対立したのは、花山天皇を半ば騙して退位・出家させた道兼、同じく三条天皇を半ば脅しで退位させ、一家立三后を成し遂げた道長、というやり手の叔父達が政権争いのライバルだったのである。
 伊周・隆家兄弟とて無能ではなく、才のある人物だった(詳細後述)とはいえ、宴会の場で「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることも 無しと思へば」という思い上がり短歌(呆れ返った中納言藤原実資が返歌を丁重に断っている)を詠める程の藤原一族屈指の遣り手にして幸運の持ち主である道長では相手が悪かった。
 今以上に平安時代の歴史に疎かった頃の道場主は、長徳の変にて、花山法皇に矢を射かける、という何のメリットがあるのかさっぱり分からない愚行を伊周・隆家がしでかしたことが激しく疑問だったが、後に愛人関係を巡る誤射によるもので、それさえも道長に利用された伊周兄弟は、早とちりが愚かだったのも間違いないが、それと同じぐらい道長にしてやられた感が強い。

 最後に失脚からの復位後が殆ど注目されていない事が挙げられる。
 少年時代、道場主は大宰府に流された後の伊周が、後に罪を許されて帰京したことは辛うじて知っていたが、その後の動向を全くと云っていい程知らなかった。
 少年時代に歴史漫画で観た伊周は父・道隆の七光で内大臣となって、叔父の道長を見下すボンボンキャラで、妹・定子が一条天皇の中宮である事を利して氏長者を狙いながら、一条天皇が母である詮子の要請(半ば命令)で詮子の弟である道長を内覧に選んだ事に対して、「えこひいきだ!」、自分のことは思い切り棚に上げて不貞腐れるシーンが印象的だった。
 弟の隆家に至っては兄・伊周を唆して花山法皇に矢を射かけるという訳のわからない愚行(その漫画では花山法皇が人違いで射掛けられた事に触れられてなかった。また、射掛けられた法皇にしても出家した筈の身で愛人の元に通って誤射された行動には問題ありである)で大宰府に流される愚者キャラだった。
 しかも高校時代に古文の授業で、道場主は隆家が一七歳で権中納言に叙せられたことを知り、道隆の息子贔屓除目に呆れた記憶もあって、長年、伊周・隆家兄弟を色眼鏡で見ていた。

 だが、伊周は周囲の道長への追従から正面切って褒められなかったものの、見事な和歌を残し、後世の評価も高い。
 伊周は母・高階貴子の代々学者家系である血を色濃く継いだのか、「属文の卿相」として漢籍に明るく、一条天皇の漢籍講義も行い、多くの秀逸な漢詩文も残している才人でもあった。

 弟の隆家も大宰府権帥時代に刀伊の入寇を、武の嗜みのないボンボン育ちに似合わぬ統率力で九州諸豪族の力を結集してこれを撃退する、という功を挙げ、有能ぶりを発揮している。
 事を処するに対して、自らの必要な能力がなくても、該当する能力を持つ者を上手く統率して事に当たらせるのは立派に有能なことである。
 しかも、このとき隆家は、敗走する刀伊が国境を越えたところで追撃を中止を命じ、要らざる国際問題を招かない配慮まで見せた。

 だが、道場主=薩摩守は長くこの二人の本質を知らず、「御家を潰したボンボン」のイメージを抱き続けていた。
 今では藤原兄弟でも、政治手腕に優れながらも時に天皇を騙すことや退位に追いやることも辞さず、利権を貪って寄生虫の如く国家収益を疲弊させ、思い上がりも目立った奈良時代の四兄弟(無智麻呂・房前・宇合・麻呂)や、道兼・道長兄弟よりも、兄弟愛強く、そのために逮捕も左遷も恐れなかった伊周・隆家兄弟の方が人として好きである。
 偏に、道隆による過剰な縁故昇進や、道長の藤原氏随一の知名度の影に隠れることがなければ、藤原伊周というご仁、それなりの尊名は残したのではないかと思われる。
 同時にこれは彼が藤原氏長者の嫡孫・嫡男にあったからこそ、凋落を嘲られ、少々の復位は買われなかった悲劇を示すもの、と薩摩守は見ている。



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令和三(2021)年五月二一日 最終更新