第弐章 源頼家……禍の素は家系に在りか?教育に在りか?

名前源頼家(みなもとのよりいえ)
家系清和源氏嫡流にして鎌倉幕府将軍家
源頼朝
北条政子
生没年寿永元(1182)年八月一二日〜元久元(1204)年七月一八日
極冠征夷大将軍
政敵北条時政、和田義盛
見舞った不幸父親の早死、重病、祖父による嫡男と岳父暗殺、
実母による将軍位強制退位、自身の暗殺
生涯
 日本史上の超有名人物にして、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝と北条政子の嫡男として、寿永元(1182)年八月一二日に鎌倉で生まれた。幼名は万寿 (まんじゅ)。
 前年の治承五(1181)年に祖父・義朝の仇にして、父・頼朝の宿敵である平清盛が没し、万寿が生まれた時には平家は斜陽に在った。

 建久三(1192)年に父・頼朝が征夷大将軍に任ぜられ、建久六(1195)年三月に頼朝、母・政子に伴われて姉・大姫と共に上洛した。
 上洛の表向きの目的は再建の成った東大寺落慶供養だったが、本当の目的は大姫を後鳥羽天皇の妃とする為の入内運動で、同時に皇族・公家に対して頼家を「頼朝の後継者」としてお披露目する目的もあり、頼家は六月三日と、六月二四日に参内した。

 そして建久八(1197)年一二月一五日に一六歳の若さで従五位下・右近衛権少将に、翌建久九(1198)年一月一三日に讃岐権介を兼任し、同年一一月二一日に正五位下に昇進、と見事なまでの親の七光だった。


 だが、正治元(1199)年一月一三日に父・頼朝が、落馬が原因で急死(異説多し)すると、一八歳にて家督を継いだ。
 だが、その若過ぎた年齢故か、正式に二代目将軍となったのは三年後のことだった。
 父の死と共に源氏の家督を継いだ頼家は、一週間後の一月二〇日に左近衛中将に転任となり、翌正治二(1200)年一月従四位上に叙せられ、一〇月二六日に左衛門督に、建仁二(1202)年一月二三日に正三位に叙せられ、七月二二日に至ってようやく従二位にして鎌倉幕府二代目の征夷大将軍に就任した。

 同時に「源氏の棟梁」に相応しい武芸達者にも成長していた。時に頼家二一歳。


 将軍となった頼家は乳母の一族にして、妻の実家である比企能員(ひきよしかず)を党首とする比企一族のバックアップを受けて将軍親政に勤しむも、僅か三ヶ月後には北条時政や和田義盛達を筆頭とした一三人の御家人による合議制が政治をコントロールした。
 頼家も指を咥えて見ていた訳ではなく、乳母一族をメインに自らが選んだ側近との連合を強めんとしたが、如何せん、一三人の御家人は母方の祖父・北条時政、叔父・北条義時のやり手を筆頭に、政治・軍事・貴族との渉外に優れた大江広元、歴戦の猛者・和田義盛、頼朝の再起から平家滅亡まで秀苦労として尽力した三浦義澄といった、実力者達が頼家の独裁に反発した(後の八人は足立遠元・安達盛長・梶原景時・中原親能・二階堂行政・八田知家・比企能員・三善康信)。

 比企能員や梶原景時といった親頼家派もいないことはなかったが、主導権は北条、和田、大江、三浦等が占め、合議制は頼家とは相いれなかった。


 そして正治二(1200)年一月、頼家を退位させて、弟の実朝を将軍に着ける企てがあることを奏上した梶原景時が、逆に御家人六六名連判の弾劾状を出された。
 頼家は景時に弁明を求めるも、景時はそれをせず所領にて謹慎した。秘かに政務復帰を求める景時だったが、頼家もこれを救える程には評定衆に抗する力はなかった。
 最終的に失意の景時は嫡男・景季以下一族郎党を連れて京を目指したが、その途次で襲撃を受け、梶原一族は滅亡した。
 良くも悪くも頼朝の腰巾着で、頼家を溺愛した頼朝の遺志を全うせんとしてくれた梶原一族の滅亡は頼家にとってバックボーンの一つを失ったに等しかった。


 建仁三(1203)年七月に頼家は急病にかかり、八月には危篤状態に陥ると、彼の動けない状況の中で明らかに彼の意に反する動きが頻出した。
 都にはまだ生きている頼家の「訃報」と実朝将軍任命を要請する奏上書が届けられ、その奏上書を届ける使者が鎌倉を発った九月二日(奏上書の到着は九月七日)には頼家の乳母の父であり、岳父でもある比企能員とその一族が北条時政の陰謀によって滅ぼされた。
 その中には頼家の嫡男にして、能員の孫である一幡も含まれていた。
 この事件における一幡の死を、北条側が編纂したプロパガンダ史書・『吾妻鏡』では、能員を謀殺した後に同罪である比企屋敷に襲撃をかけたところ、火の回った屋敷内から逃げ遅れたらしい頼家の妻(勿論比企の娘)と一幡が焼死した、としている。
 だが、第三者的な立場である天台宗僧侶・慈円が著した史料・『愚管抄』には、屋敷を逃れた一幡とその母も北条の手の者に襲撃されて斬り殺された、とある。
 まあ、どちらが実像に近いかはその後の北条一族の動きを見れば容易く推測出来るだろう。

 この直後に奇跡的に危篤状態から持ち直した頼家は嫡男と岳父一族が滅ぼされたことに激怒し、時政誅殺を命令したが、御家人達は従わなかった。
 それほどに将軍権威が完膚無きまでに失墜した中、九月七日源頼家は公式に将軍職を退き、源実朝が第三代将軍となった。
 そして頼家は「隠居」と「療養」の名目で伊豆国(←時政の領地)・修善寺に幽閉された。

 『愚管抄』によると、一幡の死に激怒した頼家が自ら太刀を持って変の首謀者であり、自らの祖父である北条時政を殺そうとしたのを、母である政子が周囲の部下に頼家を取り押さえさせ、伊豆に強制連行した、とある。
 余談だが、後に政子は父・時政が後妻の色香に迷って源氏でもなく、北条氏でもない後妻の所縁の者を将軍に立てんとして実朝を除こうとした際にも、周囲の者に時政を取り押さえさせて強制的に隠居・出家させている。
 少年の頃の道場主は、時政の孫に対する愛情のなさを通り越した冷酷非情さ、政子の母としての在り様が現代の常識と余りにかけ離れていることに理解不能に陥り、頭を抱えたことがあった。
 北条氏の骨肉の争いも、これに前後する源氏の一族内紛や、戦国時代の身内同士の殺し合いに比べればさほどひどいものではないのだが(あくまで比較の上だが)、時政だけはその酷薄さにいまだに怒りを覚えずにはいられない。


 修善寺に幽閉された頼家は現地の子供達と付近の山々で遊んであげたりして、面倒見のいい人物として評判が良く(何か、松平忠直みたい…)、地元には今でも愛童将軍地蔵なるものが残されている。
 そんな頼家がいつか人望を得て復権することを危惧したためかどうかは分からないが、元久元(1204)年七月一八日、入浴中に暗殺者の襲撃を受けて殺された。祖父・義朝と似た死を遂げた源頼家は享年二三歳の若さだった。
 頼家の死を『吾妻鏡』はただ逝去した、とのみ記し、『愚管抄』は膂力に優れた頼家(←それゆえに丸腰である入浴中を狙ったのだろう)が激しく抵抗したために、紐を首に巻きつけて絞め、ふぐり(←要するにキン●マ)を押さえつけて、ようやく刺殺した、と記されている。

 歴史の荒波に翻弄され、若くして殺され、長らくその人物像も酷評されて来た頼家(詳細後述)を慰める為か、彼の墓がある伊豆市修善寺の温泉街では毎年七月に頼家公祭りが開催されている。



嫡男たる立場
 古来、初めての子とは溺愛される傾向にある。
 まして源頼家の父は弟に冷たく、息子・娘にはデレデレの源頼朝である。薩摩守は(主に個人的な嫌悪感から)拙房で頼朝を散々酷評してきたが、頼朝の我が子への溺愛傾向は、それ自体は別段おかしなものではないと思っている。
 一四歳の若さで流人生活を強いられた日々の中で、頼朝は最初に伊藤祐親の娘と恋仲になり娘も設けたが、平家の顔色を恐れた祐親は娘と孫を襲撃して殺し、北条時政にしても最初は政子が頼朝と恋仲になった、と聞いた時には伊豆代官・山木兼隆に嫁がせた程である(勿論、政子はすぐに逃亡)。
 そんな悲惨な境遇を経て、政子との仲を認められて平家打倒の挙兵を行ったのが頼朝・三三歳のとき、そして待望の嫡男・頼家を授かったのは鎌倉入りから三年目の三六歳のときのことであった。
 これは一〇代で子持になることが珍しくなかった時代にしてはかなり年を取っての大願成就であり、これで溺愛するな、というのは酷であろう。
 現代においてさえも、このときの頼朝と同じ年になって妻帯さえしていない道場主は周囲の身内からかなりやいのやいの云われ………うぎゃあああああああああああ!!!(←道場主に覇極流体術卍天牛固めを掛けられて悶絶している)

 政子の懐妊を知った折には、頼朝は安産祈願の為に鶴岡八幡宮若宮大路の整備を行い、有力御家人に段葛を作らせた際には自ら監督を行ってまでいる。

 前述した様に、頼家が生まれた前年には平清盛が病没し、平家は斜陽に在った。
 そして頼家が四歳になった文治元(1185)年には平家は壇ノ浦の戦いにて滅亡し、頼家は源平の戦いを知らずに育った。
 かなり有名な話だが、建久四(1193)年五月、頼家が一二歳の時に、富士の裾野で行われた巻狩りで初めて鹿を射止めた折に、親馬鹿・頼朝がわざわざ使者を送って政子に知らせたところ、「武士の子が鹿を射止めたぐらいで……。」と呆れられた(あ、勿論呆れられたのは頼朝の方ね)。

 つまりは、頼家は生まれながらにその一挙手一投足が注目される立場にあったのである。
 平治の乱で祖父・義朝が敗れていなければ、伯父・義平がその嫡流を子々孫々に伝えていた訳だが、義朝も義平も落命し、流人ながら父・頼朝が嫡流を継いだ時点で清和源氏嫡流の後継者としての立場を背負わされ、前述した様に頼家一一歳の時に頼朝の征夷大将軍就任によって将軍後継者と目され、三年後の上洛の折には正式にそれを内外に披露されていた。

 だが頼家がまだ一八歳の若き折に父・頼朝は没した。
 前例なき重任を背負わされたのも、高貴な生まれの嫡男に生まれればこその宿命と云えようか。



同情すべき悲運
 嫡男とは先代の遺産を相続するものであるが、遺産には「正の遺産」もあれば「負の遺産」もある。
 程度の違いこそあれど、「正のみ」・「負のみ」ということは殆ど在り得ず、源頼家は親父が偉大(異大?)だったために、正負ともに莫大な遺産を若くして相続した訳だが、明らかに負の方が大きかった、と云えるだろう。

 負の遺産…それは本来、幼くして残された頼家を守ってくれる筈の身内にこそあった。
 父方の源氏はただでさえ、平治の乱に敗れて以来数が少ないところを、乱後に生き残った叔父達、希義(まれよし)、範頼、阿野全成(あのぜんじょう) 、義円、義経の内、希義・義円は源平合戦で戦死し、範頼・義経は頼朝によって死に追いやられていた。
 ただ一人生きていた叔父の全成は、後に北条義時と組んで実朝を擁立せんとした為に頼家はこれを捕えて配流後に殺している、といった具合で頼家の力となってくれた者は皆無だった。
 偏に頼朝によって残される筈の味方が残されなかったどころか、敵が残されていたのであった。

 母方の身内はもっと酷い有り様だった。
 これも父・頼朝が頼家の外祖父である時政と、叔父である義時に対して然るべき権力を与えつつ、それを制限する体制整備を行っていれば、頼家は比企氏を過剰に頼らなかっただろう。
 そして、頼家が比企一族を過剰に頼ったことは、比企一族の滅亡や、頼家嫡男の一幡が殺さることに繋がった……。
 勿論、猜疑心の塊男・源頼朝のこと、範頼・義経・行家(頼朝叔父・為義十男)・義国(木曾義仲嫡男)・上総広常を死に追いやった過程を見れば、北条一族の方が頼朝に心許せず、鎌倉幕府盤石化の前に頼朝を逆に殺した可能性は鬼のように高い。
 そして「将軍」であり、「先君の子」であり、「身内」でもある頼家に対して祖父である筈の時政がその命を奪っている。
 時政に焦点を絞れば、彼は孫・頼家、曾孫・一幡をも殺しているのである。
 平安末期・鎌倉初期の身内感情が現代のそれと異なり、骨肉の争いは他家でも数多く存在したことを考慮に入れても、頼家に対しては「とんでもない祖父を持ったものだ…。」との同情は拭えない。
 いずれにせよ、北条時政は例外に考えるべきかも知れない。彼は後に身内からもハブにされ、初代執権でありながら、「北条家始祖」と認められていない程嫌われているのだから。


 ともあれ、継がされた統治機構に対して、「守成の名君」に徹するには源頼家を取り巻く環境が悪過ぎた。
 成程、征夷大将軍に就任したときの頼家と同等か、それよりも若い年齢で当主となっても立派に家を、政治基盤を守ったり、より発展させた人物は何人も存在する(例:足利義満、織田信長、徳川家康)。
 しかし、それらの人物は、自身が優れた人物だったのは間違いないにしても、幼少で家を継がなければならなかった場合でも良き側近に恵まれていた。
 となると、頼家の悲惨な末路は頼家の能力以前の問題だろう。

 頼家が悲惨なのは死後も続いた。
 頼家の後を継いだ実朝も、彼が頼家を殺した、と吹き込まれた頼家の遺児・公暁(くぎょう)に斬り殺され、その公暁もどさくさ紛れに殺された。
 源氏直系は三代で滅び、北条の天下が(すぐにではないが)到来したことで頼家兄弟は後世、北条得宗家礼賛史書である『吾妻鏡』の影響もあって、御家を滅ぼした愚者である、との色眼鏡で見られ、薩摩守自身、本作を作る為に頼家のことを改めて調べ出してから頼家が武芸に優れていたことを知った。
 正直、小学生の頃に読んだ歴史漫画の「頼家様はわがまま」の記述を四半世紀も鵜呑みにしていたのである。
 同じ偏見を今も持っている者が世間に多くいるとしたらそれも頼家の悲惨な一面である。

 また、同じ様に殺された身でも、弟の実朝は学者然として、物静かな性格だった上に、望みもしない将軍に据えられ、最後には誤解で殺されたことから同情の声が多い。
 これはまさに嫡男と次男の違いに端を発していると云えよう。

 源頼家…………時代に愛されなかった嫡男、と例えるのは過言だろうか?



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令和三(2021)年五月二一日 最終更新