最終頁 「娘」を巡る様々な局面

「長女」以外も「娘」は「娘」
 人間誰しも父母がいてこの世に生まれて来る。母体を介在せずしてこの世に生れた人間は存在しない。そしてその「母」達も、かつては誰かの「娘」として生まれてきた経緯を持つ。
 「父と娘」をテーマに様々な例を挙げ出せば、何頁あっても足りないこととなる故、本作は「長女」をテーマとした(一部例外もあるが)。だが、云うまでもないことだが、父親にとって次女・三女が可愛くない訳ではない。戦国武将を調べたり、現代の世に生きる周囲の「父親」と云う存在を見たり、調べたりしてみたら人間には「初めて」の存在や経験に対して行動も、言葉も、感情も数多く現れる故に「長女」は姉妹の中で特別な存在になり易い。正確には、そう映り易い。
 だから少し調べるだけで、次女・三女を対象とした父親の喜怒哀楽は歴史の随所に見られる。

 二人ばかり例を挙げたい。
 一人は最上義光(もがみよしあき)である。
 父・義守、甥・伊達政宗との確執や、息子・義康を死に追いやったこともあることから血も涙もない謀将の様に見られがちな人物だが、次女・駒姫の非業の死に、見ている周りの方が辛くなる程の嘆きを示した。
 義光は親しくしていた豊臣秀次の要請を断り切れず、駒姫を側室に差し出したが、直後に秀次は謀反容疑で秀吉から切腹を命ぜられた。文禄四(1595)年七月一五日のことであった。
 連座で秀次の妻妾・子供達も処刑されることとなり、ほんの僅かな時間の差で彼女は「側室」と見做され、会ったこともない夫の罪に連座して三条河原の露と消えた……。
 初めて目にした夫は一七日前に切腹させられた遺体から切り取られた生首だった……。
 義光駒姫を助ける為、様々なルートに秀次駒姫が生前に夫婦として会っていないことを理由とした助命嘆願が訴え、秀吉もこれを認めたが、それを知らせる使者が刑場に到着したとき、既に駒姫はこの世の人ではなかった……………(何か、キーを打っていて気が滅入って来た………)。
 義光の嘆きは云うに及ばずだが、彼の妻(駒姫の母)は嘆きの余り一四日後にこの世を去っている………。これに「戦国の世だからしょーがねーか……。」と思ってのほほんとしてられる父親がいるとしたら、薩摩守はそいつの墓を叩き壊してやりたいぐらいである……。


 もう一例は徳川秀忠である。
 長女千姫の例は本作で触れたが、三歳で前田利常に嫁がされた次女・珠姫に対して、江戸から金沢までの道中、秀忠は一里ごとに茶屋を置き、姫を退屈させないように様々な芸人まで手配する親バカ振りで、彼女が二四歳の若さで両親に先立った際には夫婦して号泣し、既にこの時故人だった家康を呪ったとまで云われている。
 また四女の初姫は、江の姉・常高院(初姫)に請われて、誕生後すぐに京極家の養女に出したが、彼女が夫・京極忠高に愛されず、二九歳の若さで没した際、秀忠と家光は初姫の臨終時に相撲見物していた忠高が葬儀に出ることを許さなかった。忠高もひどいが、秀忠の報復もえげつない。
 当たり前の話だが、目に見える表現の相違だけで、父親にとって、長女も次女も末娘も皆、愛しい娘なのである。


 勿論世の中には例外もある。長女を始めとする娘、または姉・妹に犠牲を強いた武将も少なくないが、じゃあその武将が血も涙もないか?と云うとそれも違う。
(例:本作で採り上げた武田信玄は妹婿・諏訪頼重に対して、助命の約束を反故にして切腹させ、結果として妹も間接的に死に追いやった)
 心ならずも身内の女性、しかも自分と近しい親等の者を時として犠牲にしたのは、大名・領主と云う自分・娘個人や我が一家だけのことを考えるだけでは済まない、一族全体や、全家臣団の行く末を考えなければならないが故に非情の決断や、時として見殺しにする行動を取らせたりもした。
 返す返すも戦国時代とは惨い時代である。やむを得なかったとはいえ、娘を失った父親の嘆きは幾らでも出て来るし、幼くして行われる政略結婚の為、婚姻が今生の別れとなった例は枚挙に暇がない。我が家の幸せよりも重んじなければならない物を背負うような人生、薩摩守なら絶対に御免を蒙りたいものである…………否、断固断るよな。



到るところに「養女」あり
 戦国時代、いくら一〇代前半で結婚出来るからと云っても、側室を多く持てたと云っても、作れる子供の数には限界がある(同時に育てられる数にも)。
 だから政略結婚が必要となった時に対象となる娘がいない、ということは充分にあり得た。そんな場合は近しい血縁者や重臣の娘などが「養女」として嫁がされた訳だが、偉くなった奴ほど数多くの「養女」を持ち、あちこちに嫁がせている。

養女」を正室に迎えた例
正室として嫁いだ「養女」養父実父養父との実の関係
武田勝頼遠山夫人織田信長遠山直廉姪(母が信長の妹)
真田信之小松姫徳川家康本多忠勝重臣の娘
黒田長政いと豊臣秀吉蜂須賀正勝重臣の娘
宇喜多秀家豪姫豊臣秀吉前田利家親友の娘
徳川秀忠豊臣秀吉浅井長政亡き主君の姪
伊達忠宗振姫徳川秀忠池田輝政姪(母が秀忠の妹)

 勿論これは有名所を記したほんの一例で、特に秀吉と秀忠には「養女」が多い!
 この場合の「養女」は現代の「養女」とは様相が異なることも多い。
 子供の出来ない大名が、娘が欲しくて本当に「養女」として貰ったり、戦乱の世で戦災孤児となった娘が「養女」となったりした例もある。
 だが政略結婚が目的の場合は、実際に「養」う必要は無かったりする。血の繋がった姪や従姉妹・ハトコの例もあるが、時には単純に嫁ぎ先との家格合わせの為だけに形式上の「養女」となることもある。徳川家光を始めとする将軍の側室にはそれが多い。
 女性の地位が低かった時代とはいえ、駒的に扱われた「養女」を想えば、ちゃんと実父の元から嫁いだ娘はまだマシだった気もする。

 この問題で興味深いのは織田信長である。
 時として「魔王」と呼ばれる程の非情手段や残虐行為を辞さなかった恐るべき男だが、殊、娘の事となると徳川信康に嫁がせた徳姫を例外として、全員を重臣(例:蒲生氏郷)に嫁がせ、政略結婚には使っていない!上の表にある様に、武田勝頼に嫁がせたのも養女である。
 戦国の魔王にも、「いつ敵になるか分からん家に大切な娘をやれるか!」という想いがあったのなら実に微笑ましい。薩摩守は信長が好きじゃないが、この一面は好きになれそうだ(笑)。


切れない絆を切らない為に
 周知の通り、戦国時代は四〇〇年前に、武士の世は一五〇年前に終わりを告げた。
 平成の世では、今尚家柄にこだわる財閥・華族の御令息・御令嬢か、重大な取引や連合が絡んだ大企業の御曹司・深窓の箱入り娘でもなければ政略結婚が為されることもない。ああ、政治家の息子・娘同士ならあり得るか………。

 それゆえ、世の父親達は娘を「嫁に出す」=「人質に出す」と云う想いに苦しむこともなく、余程婚姻と寿命のタイミングが悪くならない限り、「嫁に出す」=「今生の別れ」と云うこともない。
 だが、その一方で幼い娘を虐待したり、育児放棄したりするふざけた(の一言で済ますには余りにも許し難い)父親も存在する。また明らかに人の親となるのに不適格なこんなとんでもない奴等に限って、子作り行為だけは人一倍好きだったりするから厄介だ
 この手のニュースが何度も新聞紙上やネット上に出て来るから、親バカでも子煩悩な父親を見ると微笑ましく思う。まあそれとて行き過ぎで何でも容認する余り我儘な子を育て、我が子の非を一切認めないモンスター・ペアレントになると厄介だが、親が子を殺したり、子の結婚に利益を求める時代はもう終わりにして欲しいものである。


 「戦国時代って悲惨だったんだなあ…………。」と云うのはよく云われるし、云うのも容易だ。だが同じ悲惨の種を放置して思っていないか?を折に触れて真剣に考えたいし、閲覧者の方々にも考えて欲しい。
 勿論その上で、「戦国時代の悲劇」には「他山の石」とすべき「過去の事例」であり続けて欲しい訳だが。

平成二六(2014)年五月三一日 戦国房薩摩守





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令和三(2021)年五月二六日 最終更新