第漆頁 千姫

俗名千姫(せんひめ)
出家名天樹院(てんじゅいん)
生没年慶長二(1597)年四月一一日〜寛文六(1666)年二月六日
徳川秀忠
お江(浅野氏)
豊臣秀頼・本多忠刻
勝姫(池田光政室)・本多幸千代
婚姻時の背景故豊臣秀吉との約定遵守
妻としての立場正室
略歴
 慶長二(1597)年四月一一日、徳川秀忠(家康三男だが、この時点でほとんど世子)と正室・江の長女として、山城伏見城内の徳川屋敷で産まれた。
 母・江は有名な浅井三姉妹の末妹で、その長姉は豊臣秀吉の正室・淀殿だったため、生まれてすぐに秀吉から、秀吉と淀殿の子・豊臣秀頼(つまり従兄)との婚約を請われ、祖父・家康がこれに応じた。

 だが慶長三(1598)年に秀吉が薨去し、慶長五(1600)年の関ヶ原の戦いで豊臣と徳川の力関係は逆転した。
 慶長八(1603)年二月一二日に家康が征夷大将軍に任ぜられ、徳川と豊臣の間柄は悪化するかに思われたが、半年も経たない同年七月二八日に約束通りに秀頼千姫の婚姻は成立した。時に豊臣秀頼一一歳、千姫七歳。
 名目は故太閤秀吉との生前の約束を守ったものだったが、まだまだ豊臣恩顧の大大名達が徳川に服従し切っていない状態を警戒しての「親豊臣家」の立場をポージングしたものと見られている。

 歴史ドラマや歴史漫画では、姑の嫁の確執や、徳川家が豊臣家を滅ぼした史実を反映したりして、淀殿から疎んじられた様な描写も多いが、淀殿は姑である以前に実の伯母で、千姫の異父姉・完子を、母・江になり代わって立派に育てた経験を持っており、実際にはさほどの確執は無かったと思われる(全くなかったとまでは云わないが)。
 だが、慶長一〇(1605)年に父・秀忠が二代将軍に就任し、この時点で徳川家は秀頼に対して頭を下げなくなくなった。そのため、これ以降大坂の陣が勃発するまでに顔を合わせた実家の身内は叔父・松平忠輝だけで、母の身内として伯母・常高院(初)、大伯父・織田有楽、織田信雄(母の従兄)と顔を合わせることがあったぐらいだった。

 慶長二〇(1615)年五月七日、大坂夏の陣で豊臣方はこの日までには頼りになる将の殆どを失い、秀頼・淀殿は山里廓に避難した。
 その折、千姫は淀殿の乳兄弟にして、側近でもある大野治長の手引きで、城外に脱出し、祖父・家康の陣に掛け込んだ。秀頼と淀殿の命を救う為、治長の切腹を条件とした両者の助命嘆願を行うのが目的だった。

 この時、祖父・家康は孫娘・千姫の無事と再会を喜び、助命嘆願に応じる風も窺えたが、他ならぬ父・秀忠「何故夫・秀頼に殉じなかった!」と叱責されたと云われている。
 家康と秀忠の本音はともかく、秀頼・淀殿の助命は叶わなかった。勿論他に行くあてもない千姫は江戸に戻ることとなった。一二年振りに帰って来た江戸では嫁入り前に共に暮らしていた妹の珠姫・勝姫・初姫も嫁ぎ、弟である竹千代(家光)、国千代(忠長)、妹である和子と初めて顔を合わせた。

 大坂の陣における戦後処理として、落人達が次々と捉えられて処刑される中、秀頼と側室の間の一男一女が捕えられたとの報が千姫の元にももたらされた。いわば夫が侍女に手をつけて産ませた子で、嫉妬の対象となりそうなものだったが、千姫は必死になって助命を嘆願した。
 結果、男児である国松は処刑から救えなかったが、女児は養女とし、寺に入れることで助命に成功した。ちなみにこの娘は縁切り寺で有名な鎌倉東慶寺の尼僧・天秀尼となり、短い余生を不幸な女性達を救うのに尽くした。

 江戸での千姫は夫・秀頼の命を奪った父・秀忠、姉を失った悲しみを持つ母・江の二人と顔を合わしながらの複雑な環境で日々を過ごした。
 元和二(1616)年四月一七日に祖父・家康が薨去。一段落したところでさすがに秀忠千姫を不憫と思ったのか、再婚を考え、同年九月二九日、桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻(ほんだただとき)と再婚させた。
 この時、津和野藩主・坂崎直盛が輿入れの行列を襲って千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、直盛が自害(事態を恐れた家臣に裏切られて殺されたとも)する事件が起きた(坂崎家は改易となった)。

 同年九月二六日に桑名に到着。この時、本多家には新郎・忠刻に元の石高とは別途に千姫の化粧料として一〇万石が与えられたと云う。
 岳父・本多忠政は家康直参の猛将として名高かった本多平八郎忠勝の嫡男で、忠刻は忠勝の嫡孫に当たった。勿論ミドルネームは「平八郎」だ(笑)。そして忠刻の母・熊姫は徳川信康の次女で、千姫は「従姉の子」に嫁いだと云う何ともこの時代ならではの近しい血縁者と結ばれた。

 翌元和三(1617)年、本多家は播磨姫路に移封になり、姫路城に移ってからは播磨姫君と呼ばれるようになった。
 翌元和四(1618)年一〇月一六日、長女・勝姫を出産して初めて母となり、翌元和五(1619)年には長男・幸千代が生んだが、幸千代には元和七(1621)年に三歳で夭折された。
 寛永三(1626)年五月七日、夫・忠刻が、二ヶ月も経たない六月二五日に姑にして従姉でもある熊姫が、更に三ヶ月も経たない九月一五日に母・江が次々に逝去する不幸に見舞われた。時に千姫三〇歳の若さだった。

 その後、本多家を娘・勝姫と共に出て江戸城に戻ると、出家して天樹院と号した。娘と二人で竹橋邸に暮らしたが、寛永五(1628)年に勝姫は父・秀忠の養女として池田光政の元へ嫁ぎ、一人暮らしとなった。互いにやもめとなった父・秀忠とは時折顔を合わせていたようだが、その秀忠も寛永九(1632)年一月二四日に薨去した。

 正保元(1644)年、弟・徳川家光の側室(つまり義妹)・お夏が迷信を避けて息子の綱重(家光三男・千姫の甥・六代将軍家宣の父)と一緒に江戸城から移ってきて、共に暮らすようになった。この縁で大奥にて大きな権力を持つようになったと云われている。
 その後も妹達、特に勝姫(従兄である松平忠直に嫁していた)に連なる揉め事に介入したりしながら過ごし、寛文六(1666)年二月六日に江戸にて逝去した。享年七〇歳。戒名は天樹院殿栄譽源法松山禅定尼


父親の溺愛
 チョットここで本作冒頭を思い出して頂きたい。
 薩摩守が本作を作るきっかけになったのは隆慶一郎氏の『捨て童子 松平忠輝』における徳川秀忠千姫の父娘を見たのがきっかけになっている。
 娘・千姫が、自分の嫉妬する才能の持ち主である忠輝に懐いているのを見て更に嫉妬する秀忠が描かれていた。
 勿論これは、あくまでも作品の中での話で、『影武者徳川家康』を見ていても、隆氏の秀忠嫌いはチョット異常を感じる程なので、嫉妬面もある程度差っ引かなければならないが、それでも父としての秀忠に触れているところに、「父親ってそういうものか……?」と思ったのが、こういう作品を作るきっかけとなった。薩摩守には妹や、姪とも云えるぐらい年の離れた従妹がいるが、どうも実感が湧かない(当たり前か…)。もしかしたら娘を持つ父親達を羨んでいるのかも知れない。

 少し話を遡らせると、秀忠が江と結婚したのは文禄四(1595)年九月一七日のことである。割と有名な話だが、秀忠が当時一七歳で初婚だったのに対し、江は六歳年上の二三歳で、既に二度の結婚歴があり、子供も一人産んでいた。
 どこぞの女性団体の抗議や、女性閲覧者の反発を買わないよう慎重にキーを叩きたいが、一〇歳前後での嫁入りが珍しくなかった当時の女性の年齢に対する価値観では、二〇歳を過ぎている上に、生娘じゃない新妻を貰うのはお世辞にも良縁とは思わない人間が多かったのだろう。もし一七歳当時の道場主が二四歳の、それなりに男を知っているお姉さんと肉体関係になれるなら大喜………………ぐうええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ(←道場主の楢山バックブリーカーを喰らっている)。

 イテテテテテテ……真面目な話、秀忠の父・家康も豊臣秀吉との関係において、当時四三歳だった秀吉の妹と(しかも人妻だったのを無理矢理離婚させて)婚姻することを押し付けられた経験があっただけに、秀忠と江の婚姻にも渋いものを感じていたことだろう。
 それにしても四三歳の人妻かぁ……チョット羨ま………ゴホッ!ゴホッ!ゴホッ!ゴホッ!………妄想を抱いている場合じゃなかった……いずれにせよ、当時の慣例から云って理想的な結婚には映らなかっただろう。
 だから秀忠には婚姻生活に不安もあっただろう。身分的にも、年齢的も秀忠が側室を持たなかったのは「愛妻家」の一言では片付け難い(実際二度浮気している)。

 まあ長々書いたが、それでもいざ千姫が生まれると秀忠は溺愛した。千姫が生まれてすぐに義兄・秀吉から、秀頼との婚約を要請されたが、この婚約は秀吉と家康の間で進んだものである。もし秀忠がある程度の年齢に成長していたらどう対処しただろうか?そして仮定の話ではなく、千姫の婚約に対し、(勿論拒否出来ないことに対しても)秀忠はどんな顔をしただろうか?

 前述した様に、大坂城落城の際に秀忠は城中から自陣に掛け込んで来た千姫に対して、秀頼と供に死を選ばなかったことを責めたが、これは「征夷大将軍」と云う公の立場から発した「我が娘といえども依怙贔屓していません。」と云うポージングで、本心ではなかろう。もし本心から云っているなら国松を初めとする豊臣家中が徹底的に殲滅された戦後処理からも千姫も命が無かった筈である。
 義姉・淀殿、義子(にして義理の甥)・秀頼を死に追いやった身で、娘の無事を露骨に喜ぶ姿を征夷大将軍として諸大名に見せる訳にはいかなかっただろう。勿論状況的に千姫秀頼に殉じたり、徳川を怨む豊臣家中の誰かに殺されたりすることもあり得たので、内心は大喜びだったに違いない。血の繋がった姉と甥を亡くして悲しみ、怒るかみさん(=江)の気持ちを幾分なりとも落ち着ける意味でも。

 立場上冷徹に振舞わなくてはならなかったにもかかわらず、秀忠千姫の助命嘆願を一部受け付け、再婚の手配をした。その際の化粧料一〇万石は尋常ではない石高だ。秀忠君に「よっ!親馬鹿!」と呼び掛けたくなる(笑)。「一〇万石」って、松平家の人間でも傍系ではまず得られない石高ですよ、旦那……。
 二度目の夫に死に別れた際にも江戸城にて娘や妹達と暮らせるよう取り計らっていたのだから、立場が無ければもっと遠慮なく可愛がったであろうことは想像に難くない。もっとも、立場があったからこそ出来たことも多いのだから何とも複雑である。
 秀頼のことを思えば、複雑なものもあっただろうけれど、いずれかの段階で千姫秀忠を許していたと思いたいものである(多分許していたと思うが)。


女としての幸せ
 これはなかなかに複雑である。
 千姫自身は最初の夫・豊臣秀頼にも、次の夫・本多忠刻にも充分に愛され、血縁者と云うこともあるんだろうけれど、二人の姑(淀殿・熊姫)との仲も悪くなかった。
 仮に嫁姑の確執があったとしてもたいしたものではなかっただろうし、父・徳川秀忠や祖父・家康に一度も姑を悪く云った記録は無い(もし有れば云う機会は幾らでも有った)し、何よりも千姫は淀殿・熊姫の死を悲しんでいる。
 だからこそ二人の夫に先立たれた悲しみ、自分の子ではないにしても前夫の子(豊臣国松)を救えなかった悲しみ、ようやく産めた嫡男・本多幸千代に先立たれた悲しみは筆舌に尽くし難いものがあっただろう。

 一方で幾ばくかの慰めは存在した。
 天秀尼の命を救うことは出来たし、実家に戻る度に増えていた弟・妹達に慕われ、面子は違えど常時身内が側にいるように手配され、歴代将軍(祖父・父・弟・甥)も何かと気を揉んでくれた。
 嫁ぐと同時に実家と絶縁同然になることも珍しくなかった時代にどう転んでも身内と供にいられる生涯を送れたのは一つの幸せではなかっただろうか?
 勿論、これは普段大人しく、控え目ながらもいざという時は年少の身内、特に親ならぬ女児の為に体を張る優しさを持った千姫に巡り巡って来た必然的なものでもあった。
 天秀尼が入った東慶寺は女性の為の縁切り寺として有名だが、それと並ぶ縁切り寺である上野国の満徳寺も千姫と所縁を持っている。

 平成元(1989)年のNHK大河ドラマ『春日局』では、豊臣家滅亡後実家に戻って来た千姫 (野村真美)を竹千代(大沢健)が迎え、励まし、千姫が徐々に明るさを取り戻すと云う展開があった。
 江戸城に戻った千姫(当時一九歳)の部屋を訪れた竹千代(当時一二歳)は「お初に御目に掛ります姉上様、竹千代に御座います。」と挨拶していたのを見て、道場主は現代の姉弟関係ではまず無いであろう会話に瞬時ながらポカーンとしたのを覚えている。
 戦国の世は時として現代では考えられない様な身内との別れをもたらし、再会自体が驚きであるケースも少なくない。不幸に見舞われながらも、別の幸福がやって来るのは日々の心掛けあってこそであるのは今も昔も変わらないことを千姫の生涯に教えられるし、そうあるべきであるとも思わされるものである。
 そんな千姫の生涯を想えば、昨今では殆ど取り合われなくなったが、「千姫淫乱伝説」を生み出した奴は相当心が拗けていたに違いない。


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令和三(2021)年五月二六日 最終更新