第壱頁 平重盛……多少美化された感が無くもないが……

名前平重盛(たいらのしげもり)
生没年保延四(1138)年〜治承三(1179)年閏七月二九日
血統桓武平氏
立場平家当主嫡男
官職正二位内大臣
柱石となった対象平家
死の影響平家弱体化・滅亡
略歴 保延四(1138)年、有名な平清盛を父に、その正室・高階基章娘を母に嫡男として生まれた(有名な二位尼・平時子は清盛の継室)。
 祖父忠盛、父清盛の力もあって、久安六(1150)年一二月、一三歳で鳥羽法皇の蔵人に補され、翌月には従五位下となった。

 当然、平家の次期当主として育てられ、保元元(1156)年の保元の乱には、中務少輔として、父に従って平家武者の先頭に立って奮戦した(源為朝との豪勇に味方が怯む中、形勢不利と見た清盛は撤退命令・制止を振り切って、為朝と戦おうとした)。
 保元の乱は清盛父子が味方した後白河天皇方の勝利となり、清盛の出世に伴う様に平重盛も従五位上に昇進し、その年の内に正五位下となった。

 三年後の平治の乱でも帰洛後に叔父・頼盛と共に奮戦し、重盛「年号は平治、都は平安、我らは平氏、三つ同じ(平)だ、ならば敵を平らげよう。」と述べて味方を鼓舞する等の活躍をした。
 この戦いも、勅命を巧みに獲得した清盛父子の勝利に終わり、重盛は乱の功績で、恩賞として伊予守に任じられ、年が明けるとすぐに従四位下兼左馬頭となった。
 その後も父の権勢に比例して重盛も昇進を重ね、長寛元(1163)年一月に従三位・公卿になったとき、まだ二六歳の若さだった。

 長寛二(1164)年九月、父に従って、厳島神社に一門の繁栄を祈願して装飾経三三巻(平家納経)を寄進。仁安元(1166)年一〇月、憲仁親王(後の高倉天皇で、母・平滋子は清盛の義妹)が立太子されると、親王の乳母には重盛の妻・経子が選ばれ、重盛は乳父となった。
 同年一二月、清盛の後任として春宮大夫となり、翌仁安二(1167)年二月には権大納言となり帯剣を許されるほどになった。ちなみに同じ日、父・清盛は武士として最初の太政大臣となっていた。
 三ヶ月後の五月一七日、清盛は僅か三ヶ月の在職で太政大臣を辞任。その一週間前に重盛は東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨が下され、これにより重盛は軍事・警察権を正式に委任され、清盛の後継者としての地位を確立していた。

 仁安三(1168)年二月、重病に倒れていた清盛が奇跡的に回復すると出家。後白河上皇は憲仁親王(高倉天皇)を即位させた。重盛も体調不良で一二月に権大納言を辞任していた状態だったが、出家後の清盛が福原に隠居(勿論実権は手放さない)したので、重盛は六波羅にて一門の統率に務めた。

 その後も重盛は、嘉応元(1169)年の嘉応の強訴(延暦寺の大衆が、尾張国の知行国主・藤原成親(重盛の義兄)の流罪を求めた)、嘉応二(1170)年の殿下乗合事件重盛次男・資盛と摂政・藤原基房及びその従者達が車の上での無礼を咎めて互いに恥辱を与えた合った事件)、承安三(1173)年四月の法住寺殿萱御所火災、同年冬の南都大衆の強訴といった事件の対応に尽力し、清盛と仲違いを始めていた後白河法皇にも称えられるほどだった。
 これらの功績もあって、承安四(1174)年七月、重盛は右近衛大将に任じられ、これには清盛も大いに喜び、拝賀の儀式には公卿一〇人、殿上人二七人が付き従えさせた。

 安元二(1176)年一月、後白河法皇五〇歳の祝賀に重盛は一門の筆頭として出席。平家と法皇は尚も蜜月状態にあり、と内外に示した。
 だが同年七月、建春門院(平滋子)が薨去したことで平家と後白河法皇の対立は次第に深まったが、その際にも重盛は翌年一月に左近衛大将に、同時に異母弟・宗盛が右近衛大将に任ぜられ、福原に後白河法皇を迎えたりして、双方の対立緩和に務めた。

 だが、同年四月、安元の強訴(延暦寺が加賀守・藤原師高の流罪を要求して起こした)、直後の太郎焼亡(大火事。太極殿、関白以下一三人の公卿の邸宅が焼失し、重盛の邸も焼けた)、六月には鹿ケ谷事件(後白河法皇、西光、藤原成親、俊寛等と平家打倒の密議を凝らした)といった事件が次々と発生し、その都度重盛は清盛、後白河法皇、公卿、縁戚、僧兵勢力の間を行き来して解決に尽力した。

 だが、鹿ケ谷事件では重盛の義兄(妻の兄)・藤原成親も積極的に加わっており、重盛は後白河法皇と成親を庇う為にも父とも激論を交わしたが、最悪の強硬手段は押し留めた(詳細後述)ものの、成親を初めとする貴族達を完全には庇いきれず、以後、重盛は気力を失って政治の表舞台に殆ど姿を見せなくなった。
 治承三(1179)年三月、重盛は熊野に参詣して後世のことを祈り、その後病状が悪を受けて五月二五日に出家。七月二九日に父に先立って逝去した。平重盛享年四二歳。


柱石としての役割 平重盛は「父」である平清盛に対する「孝」と、「主君」である天皇・上皇の狭間で「忠」とのはざまで苦悩し心身をすり減らした人物と云える。
 『平家物語』における重盛は忠孝と武勇に優れ、平清盛と後白河法皇と云う平安末期でも特に濃いキャラである二人に対し、云うべきことを云い、その横暴を諫めた。

 殊に鹿ケ谷事件での平重盛の活躍は際立っていた。
 多田行綱の密告を受けた清盛は激怒して、法皇を除く関係者を悉く捕らえたが、この時点でも清盛は重盛に幾許かの遠慮をして、首謀者で重盛の義兄に当たる藤原成親は取り手を派遣せず、普通に呼び出して、屋敷の一室に軟禁した(首謀者の一人、西光法師はもうこの時点で首を刎ねられていた)。
 そしてこの騒ぎを聞きつけた重盛は「天下の大事ならぬ私事」として僅かな供廻りだけを連れて清盛の元に馳せ参じると、清盛に対して穏便な取り計らいとするよう説得した。

 成親のことは、「あのお方は人が良過ぎるのでございます。平治の乱のときも利用され、今度も利用されたのです。
 成親卿は法皇様より御寵愛を受けておられるお方です。その首を刎ねるということは法皇様を無視する様なものでございます。
 その昔、菅原道真公は時平大臣の讒言によって、また西宮の大臣・源高明公は多田満仲の讒言によって流罪となりました。いずれも無実で、醍醐・冷泉両帝の間違いであったと伝えられております。
 昔の賢帝でさえこの様な間違いを為されたのです。ましてや我等は凡人です。如何なる誤りを犯すとも限りませぬ。よくお考え下さい。成親卿は朝敵などでは御座いませぬ。それだけに御慎みが肝要です。
 御父上は栄華も充分に極められました。もう思い残すこともありますまいが、子孫のこともお考え下さりませ。父祖の善悪は必ず子孫に及ぶと申します。何卒、何卒。」

 と説いて強硬論を述べ難くした。
 同時に家臣達に対しても、
 「もし御父上が軽々しく成親卿を斬れと申されても斬ってはならぬ。父上はいつもカーッとなされて乱暴を振る舞われるが、後で必ず後悔為される。
 早まって過ちを犯せばそのままに捨て置かぬ。その時になって我を恨むな!」

 と一喝して、主従の暴走に対して釘を刺した。

 だが、感情的になった人間の暴走が正論まくし立てだけで完全に封じ込められれば誰も苦労は要らない訳で(苦笑)、案の定、清盛は重盛帰宅後に事を起こそうとした。
 勿論、それが読めない重盛ではない(笑)。清盛が後白河法皇のいる法住寺に兵を派し、法皇を軟禁しようとしていることを聞き付けると、再度清盛を尋ね、平家の現在の栄華も後白河法皇を主君としてのものであることを説き、臣下にあるまじき振る舞いをしないよう説いた。
 そして清盛が法皇の横暴を理由に(←完全に同情出来るものである)強硬手段を捨て難くしている様子を見ると、清盛に対し、平家の栄華は皇恩に依存し、平家への反感は「平家に非ずんば人に非ず」が如き奢り高ぶった振る舞いにある、としてそれでも清盛が法住寺を襲うなら、自分が法皇を守る、と云い切った。
 驚いた清盛が「父と戦うというのか?!」と尋ねると、重盛は父に逆らう気はないから、法皇を襲うというならまず自分の首を刎ねてくれ、と申し出た。そうすれば重盛は父に対して「不孝」を、法皇に対して「不忠」を為さずに済む、としたのである。
 これにはさすがの清盛も閉口し、矛先を鈍らせた。そうすると重盛は群臣達にも重ねて「院を攻めるならまず重盛の首を刎ねてからにせよ!」と告げて自邸に引き返すと、激情の人である父がそう簡単には治まるまいと見て、平盛国(平家始祖・平高望王から分派した清盛・重盛の同族)をして、洛中に「我を主と思う者は直ちに馳せ参じよ。」と触れせしめた。

 この時点で、平家の棟梁は重盛だった。勿論時代のお約束で一番偉いのは清盛だったが、律令制度の上では清盛は「隠居・出家した僧」に過ぎず、重盛のこの触れには清盛の元に詰めていた武士までもが重盛邸に走った。
 重盛邸に一万もの武士が集まったと聞いて、「重盛は儂を攻めるつもりか?!」と狼狽えた清盛だったが、清盛側近は、「内大臣(重盛)様はそのようなことをなさる方では御座いません。恐らく相国(清盛)様に院攻めを諦めさせる為でしょう。」とし、これには清盛も「よく出来た息子よ。」と感心して重盛の意に従ったのだった。
 また清盛が法皇に対する害意を捨てたと悟った重盛は、参集した武士達に、即座の駆け付けを褒めつつ、一大事は誤報だったとして都人達を不安に陥れない為にも早々に返る様促した。
 『平家物語』の中でも文句の着け様の無い程の、重盛の優れた名シーンであろう。

 重盛の夭折はこの三年後で、重態に陥った重盛を救わんとして、清盛は日宋貿易を通じて知り合った宋の名医を送ったが、重盛は「外国の医師の手で助かれば、我が国に名医がいないという恥を晒すことになる。」として、宋医に治療代を渡しながらも治療は拒み、最後まで不徳の自分が内大臣にまでなったのは分不相応であるとし、自らの命と引き換えに平家の行き過ぎた行いを許して欲しい、と仏に念じてこの世を去った。

 確かに、この日本という国を、「天皇陛下を頂点とする帝政国家」という視点で見るなら、一番偉いのは天皇で、何事も天皇の御意に従うべきで、それに反するものはすべて不忠者である。但し、それは天皇親政が全き状態で行われていてこその話で、白河法皇の院政以来、天皇親政など一部の例外を除いて事実上行われなかったに等しい。後白河法皇にしても、保元の乱では亡き鳥羽法皇に無理矢理上位させられた兄・崇徳上皇の院政に反対して、「政治は新政であるべき」と主張して摂関家や源氏・平家まで巻き込んだ刃傷沙汰を起こしながら、乱勝利から僅か三年で退位して後任の二条天皇、六条天皇、高倉天皇、後鳥羽天皇の累代に渡って、院政を布いた。
 勿論、これに反発する勢力は歴代の現役天皇を担ぎ上げ、特に重盛亡き後の清盛は自分の娘と高倉天皇の間に生まれた外孫・安徳天皇を強引に即位させ、これに対抗した。
 つまり当時の人々に同情すれば、単純な忠義を貫き辛い時代だったとも云える。そして保元の乱に代表される様に、一族間で揉め合っていたのは皇室だけではなかった。平家、源氏、摂関家も例外ではなかった。
 そんな時代に「忠」と「孝」の双方を可能な限り重んじた重盛の采配は見事とさえいえた。

 尚、昨今では史実との相違の検証が進んだため、重盛も以前ほどには完全無欠の聖人君子としては見られていない。
 彼の名声の代表とも云える殿下乗合事件に際しては、辱めを受けた資盛の恥を雪がんとして摂政の従者達を袋叩きにしたのは、実は祖父・清盛ではなく、父・重盛であった(笑)のは昨今有名になりつつある。
 だが、それでも重盛の存在が清盛の暴走と、後白河法皇の横暴の双方に対するストッパーとなり、重盛存命中は全国各地の源氏勢力も平家に反抗する行動を起こせずにいたことや、清盛亡き後の平家一門が僅かな機関で源氏に滅ぼされたことを見ても、彼が平家の大切な柱石であったことに疑問をさしはさむ余地はないと云えよう。


逝きて後  平重盛死後、重盛病中に逝去した平盛子の荘園を没収していた後白河法皇は重盛の越前国も没収。法皇の為、時には父と対立することも辞さなかった重盛の忠勤にもかかわらず為された法皇のこの仕打ちに対する、これに激怒した清盛はついに法皇を軟禁するという実力行使に出て、平家と法皇の蜜月状態は完全に終結した(勿論、これが全国の源氏に平家追討令が出されるきっかけとなった)。

 重盛は清盛にとっては良く出来た嫡男だったが、重盛の息子や側近達まで清盛や周囲の一門に重んじられた訳ではなかった。
 それというのも、重盛の母が正室であったが、身分が低かったため、外戚の存在感が大きく物を云う当時、重盛が支えとなる有力親族を持ち得なかったことにあった。しかも同母弟・基盛(清盛次男)が早くに死去していたことも大きかった。
 異母妹の徳子を養女として高倉天皇の中宮としたものの、実際に外戚として重んじられたのは徳子の同母兄弟の宗盛・知盛・重衡等であった(←彼等の母は清盛継室・時子)。
 結局、重盛死後、平家の棟梁となったのは重盛の子・維盛ではなく、異母弟の宗盛(清盛三男)であり、後に富士川の戦いで大敗した維盛は清盛に入京を禁じられ、公卿への昇進も清宗(宗盛の子)に先んじられるという冷遇振りだった。

 従って、重盛に対する悪意はなかったものの、重盛死後の息子・側近達の発言力は著しく低下し、重盛の軍事力を支えた伊勢平氏譜代の平貞能や伊藤忠清も九州・東国に体良く左遷されてしまった。
 こうなると重盛を介して平家政権と通じていた東国武士の動揺も激しく、北条氏を初めとする平家に繋がる氏族の中にも源氏と気脈を通じる者達が出てきて、やがて関東は源頼朝の手に帰し、平家を滅亡に追いやる一大勢力が集うこととなってしまったのだった。

 勿論、かかる平重盛の存在の重要性は多くの史家が重視した。
『愚管抄』(鎌倉時代初期の史論書。作者は天台宗僧侶の慈円)では重盛が生きることに望みを失った言葉を残していたことに注目し、彼の内面の考えまで触れている。また『日本外史』(江戸時代後期に頼山陽が著した国史書)では重盛が「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」と呟いたことを取り上げている。
 歴史に「if」は禁物だが、清盛より先に重盛が死んだことを平家の不幸と考える人は今も昔も多いだろうし、皇室や源氏の中にも数多く存在したことだろう。


次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和三(2021)年六月三日 最終更新