柱石逝きて後……

 史実を基にした『三国志演義』という書がある。中国の後漢末から晋初に掛けての歴史を基にした物語で、これを基にした小説、漫画も雑多なジャンルにて、その多くは「三国志」の(またはそれを含む)タイトルで大量に著されている。
 そしてそれ等の作品の多くは諸葛亮(諸葛孔明)が五丈原で逝去した段階か、それから少ししたところで締められている。

 理由ははっきりしている。

 諸葛亮亡き後の蜀漢に魏に勝るシーンも要素もほとんどなく、呉はほとんど動かず、「三国」が鼎立した物語としての盛り上がりに欠けるからである。
 従って、三国志ファンの多くは諸葛亮亡き後の三国への関心も知識も薄い。

 昨今では諸葛孔明の才智をもってしても、「が魏を制するのは端から不可能だった。」との見方が強い(魏の国土はの三倍、人口は五倍)。それもあってか、二三四年に諸葛亮が五丈原に陣没すると「魏に勝つ」という意識は更に下がり、姜維(きょうい)の様な一部好戦的な例を除けば、の重臣の多くは「如何に守りを固めるか?」、「国を滅ぼさない為にどうするか?」を優先した。極端な云い方をすれば、諸葛亮と云う大人物を失ったことで諦めが先行したとすら云える。
 勿論そんな諸葛亮が没した影響はその直後から大きく、魏延と楊儀の対立が起き、両者ともに程なく命を落とし、流刑中の李厳は「もはや官に戻る期待は持てない…。」との失意を抱き、病没し、国家としても十数年に渡って対外的に大人しく雌伏することになった。

 まあに関していえばその後の魏の乱れや、多くの重臣が守りを固めたこと、更には天然の要害に守られて諸葛孔明死後も三〇年近い命脈を保ったが、「国家の柱石」とも云える重要人物の死が国家や政権の滅亡に繋がった例は日本史にもまた多い。
 そこで本作では、例によって薩摩守が独断と偏見で選んだ国・組織・政権・御家の「柱石」となった人物で、且つ、その死が国・組織・政権・御家を滅亡させるほど影響した人物に注目し、「如何なる柱石ぶりだったのか?」、「その死が如何に影響したか?」、「他に代わり得る人材は居なかったのか?」等を考察してみたい。
第壱頁 平重盛……多少美化された感が無くもないが……
第弐頁 和田義盛……執権暴走歯止め最後の砦
第参頁 太源崇孚雪斎……偉大過ぎた陣僧
第肆頁 武田信繁……御親類衆・国人間の扇の要
第伍頁 朝倉宗滴……長命終焉が御家の終焉
第陸頁 北条幻庵……五代百年の生き字引
第漆頁 前田利家……家康にただ一人比肩出来た次席大老
最終頁 一本の柱石のみに頼る事勿れ


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令和三(2021)年六月三日 最終更新