第弐頁 和田義盛……執権暴走歯止め最後の砦
名前 和田義盛(わだよしもり) 生没年 久安三(1147)年〜建暦三(1213)年五月三日 血統 三浦氏 立場 鎌倉幕府御家人・侍所別当 官職 左衛門尉 柱石となった対象 鎌倉幕府合議制 死の影響 執権北条家の専横激化
略歴 久安三(1147)年、杉本義宗を父に、大庭景継の娘を母に、嫡男として生まれた。通称は小太郎。父は元々三浦氏の出で、和田姓は坂東八平氏の一つ、三浦氏の支族が相模国三浦郡和田の里または安房国和田御厨に所領を持ったことに因む。
治承四(1180)年、本家である三浦氏が伊豆で平氏打倒の挙兵をした源頼朝に味方することを決め、和田義盛も弟・小次郎義茂とともに参加した。だが、三浦勢は丸子川(酒匂川)まで来たところで、大雨で渡河出来ずにいる内に頼朝軍は同年八月二三日に石橋山の戦いで平家方に敗れ、頼朝が行方不明になったことから三浦半島へ兵を返した。
翌二四日、帰路の鎌倉由比ヶ浜で平家方の畠山重忠の軍勢と遭遇して合戦。更に二日後の二六日に畠山が数千騎で三浦氏の本拠・衣笠城を襲った。
義盛は西の木戸口を守って奮戦したが、三浦勢は既に疲弊しており、止む無く城を捨てて海上へ逃れた。だが城には老齢だった祖父・三浦義明(八九歳)が「今、この老いた命を頼朝公に捧げて、子孫の繁栄を図らん。」と云って残り、奮戦した果てに討ち死にした。
義盛達三浦一族は海上で頼朝の舅であった北条時政等と合流したことにより、二九日に安房平北郡猟島で頼朝を迎えた。このとき義盛は「父が死に、子孫が死んでも、頼朝公のお姿を見ればこれに過ぎる悦びはない。どうか本懐を遂げて天下を御取り下さい。その暁には私を侍所の別当に任じて下さい。上総介だった伊藤忠清が平家から八ヶ国の侍所別当に任じられ、その威勢を羨ましく思い、いつか自分もと八幡大菩薩に祈願いたしたのです。」と願い出たと伝えられている。
九月、安房に集結した頼朝は再挙を図り、各地の武士に参陣を命じた。このとき義盛は坂東武者の中でも最大勢力ともいえる上総広常への使者を務めた。広常は二万騎という大軍を率いて参じ、頼朝の器量次第ではこれを討ち取るつもりだったという曲者でもあった。
翌一〇月には、義盛と由比ヶ浜で戦った畠山重忠を含む東国武士達も続々と参じ、数万騎の大軍となって頼朝は源氏の本拠鎌倉に入った。
一〇月二〇日、富士川の戦いで平維盛率いる平家軍を撃破し、直後に弟・義経と対面した頼朝は関東の地固めに入った。この地固めに際して義盛は一一月に常陸の佐竹氏を攻めた義盛は広常とともに佐竹秀義を生け捕りにした。
一一月一七日に鎌倉へ凱旋し、関東統治の為の諸機関が設置されると、義盛は初対面時に申し出た望みの侍所別当に任じられた。
そして一二月、鎌倉大倉の地に頼朝の御所が完成すると、その入御の儀式では義盛は居並ぶ御家人達の最前に立った。
この様にコテコテの武士でありながら和田義盛は頼朝の側近くで関東の地固めに尽力しながら、御家人としての立場を固めた。具体的には罪人の処断等に務め、当初は源義仲や平家との合戦には名を連ねなかった。
平家もかなり落ち目になった元暦元(1184)年八月、頼朝の弟・範頼が平家追討の為に鎌倉を進発すると義盛は軍奉行として従軍した。
慎重な性格の範頼は山陽道から九州へ渡り、平家を包囲し、退路を遮断する戦略において義盛とよく相談した。だが、前年に西国一帯を襲った飢饉の影響もあって、範頼軍は兵站に苦しみ、海戦に強い平家の妨害もあって九州にも渡れず戦いは長期化した。
『吾妻鏡』の記述によると、範頼は兵の厭戦気分を嘆く文中で、「和田小太郎義盛までもが秘かに鎌倉へ帰ろうとする始末です。その他の者たちは云うまでもありません」と記されたと云う。範頼にしてみれば、義盛までもが厭戦気分に捉われたことで士気の衰えを強調していた訳だから、消極的記述ながら義盛が剛の者の代表の如くみられていたことが分かる。
年が明けて一月二六日、兵船の調達に成功した義盛は北条義時、足利義兼等と豊後へ渡り、芦屋浦の戦いで平家方を撃破して背後の遮断に成功した。その間に源義経が屋島の戦いに勝利し、背後遮断の二ヶ月後となる三月二五日、壇ノ浦の戦いに至った。
この戦いでも範頼軍は陸地から平家の退路を断つ形で義経軍を支援。義盛は馬上渚から矢を射かけ、二〜三町(一町は一〇九米)も飛ぶその矢に平家方は腰を抜かした。
しかもこのとき、義盛は矢に自分の名を記しておき「この矢を返してみせよ。」と挑発するというパフォーマンスも敢行。平知盛(清盛四男。平家一門では最も奮戦した剛の者)は配下で伊予の住人・仁井親清が見事に矢を射返させて、義盛の自慢を笑った。
これを受けて怒った義盛は船に乗って散々に戦ったというからかなり血気の男だったことが分かる。
勿論周知の通り合戦は源氏方の勝利に終わり、平家は滅亡。直後に義経と頼朝の兄弟対立が始まったのだが、これには義経の軍奉行を務めていた梶原景時の讒言があった。その景時は侍所次官の所司で、謂わば、義盛の直属の部下だったため、これは義盛と景時が対立する基ともなった。
義経は謝罪・弁明に務めるも頼朝に許されず、頼朝に反旗を翻そうにも兵が集まらず、奥州藤原秀衡の元へ逃亡。秀衡死後、文治五(1189)年に藤原泰衡の襲撃を受けて義経が自害するとその首は酒に漬けられて鎌倉に届けられた。
同年六月、義盛は景時とともに首実検を行った。翌七月、頼朝が(泰衡との約束を反故にして)奥州藤原氏討伐の軍を起こすと義盛もこれに従軍。合戦では義盛は先陣を切って藤原国衡と矢戦を交わした(このため、戦後、国衡を討ち取った戦功を巡って畠山重忠と論争を起こした)。九月、泰衡が家人に裏切られてその首が幕府軍陣中に届くと、義盛は重忠とともに首実検を行った。
かくして武家の抵抗勢力をすべて排除した源頼朝が建久元(1190)年九月に上洛すると、義盛は先陣を務めた。一二月一日、頼朝が右近衛大将を拝賀する際の随兵七人の内に選ばれて参院に供奉し、頼朝の推挙受けて左衛門尉に任ぜられた(←つまりそれまでは頼朝側近として大きな力を持っていても、公式には無位無官だった)。
建久三(1192)年、侍所別当を梶原景時と交代した。『吾妻鏡』によると、景時が「一日だけでも。」と義盛に頼み、所領へ帰る間の代理のつもりだったが、それがそのまま奪われてしまったと云うから些か変な話である。
『吾妻鏡』は頼朝と(その側近を務めた)北条氏を決して悪く書かないから、頼朝が腰巾着・景時が義盛のことを頼朝に悪く云って交代させた不当人事を伏せたと思われる。
だが建久一〇(1199)年一月一三日に頼朝が死去。源頼家が二代将軍になると義盛は宿老として、有力御家人による十三人の合議制に列した。
そして一〇月、梶原景時が結城朝光を讒言する事件が起こると義盛を初めとする御家人達は激。義盛は従弟の三浦義村等諸将六六人の連署での梶原景時弾劾状を作成して大江広元へ提出した。
広元はことを大きくすることを恐れ、弾劾状を手元に伏せていたが、それを知った義盛は広元を「貴殿は関東の爪牙耳目として、長年働いてきた。景時の権威を恐れて諸将の欝憤を隠し立てするのは、法に違えるのではないか」と激しく詰問。これには広元も弾劾状を頼家に披露しない訳にはいかず、景時は失脚、鎌倉を退去して上洛する途上で一族郎党とともに滅ぼされた(梶原景時の変)。その翌月、義盛は侍所別当に復職した。
かくして景時の専横を阻止した義盛だったが、建仁三(1203)年には先君・頼朝の岳父一族である北条氏と、当君・頼家の岳父一族である比企氏との間で抗争が発生。先君未亡人・北条政子の名で比企氏討伐を命じられた義盛も侍所別当として参戦して比企氏を攻め滅ぼした(比企能員の変)。
だがこの直後、危篤状態から奇跡的に回復した頼家は、病中に岳父である比企一族が滅ぼされ、同時に巻き添えを食う形で我が子・一幡までも殺されたことに激怒。頼家は義盛と仁田忠常に宛てて北条氏討伐を命じる御教書を書き、堀親家に届けさせた。
だが義盛は思慮の上で、この御教書を北条時政に届け、これによって堀親家は捕えられて殺され、仁田忠常も北条氏によって滅ぼされた。
同年九月七日、頼家は将軍職を奪われ出家させられ、伊豆修善寺へ追放。代わって弟の実朝が三代将軍職に就任すると時政は初代執権に就任した。
だが義盛が協力した北条氏は益々傲慢になった。元久二(1205)年六月、時政の策謀で畠山重忠が謀反の疑いを掛けられ、時政の嫡男・義時を総大将とする討伐軍が発せられると義盛もこれに参加して重忠とその一族を滅ぼした(畠山重忠の乱)。
ほどなく、その時政は後妻の色香に迷って実朝の廃位を画策したことで政子と義時によって強制隠居に追いやられた(牧氏事件)。そして義時が二代執権に就任し、北条氏の専横は益々強まった。
承元三(1209)年、義盛は内々に望む上総国司の職が北条氏によって拒絶されていることを知った。義盛の上総国司への執着は並々ならぬものがあったようで、大江広元を通じて款状を提出し、自らの勲功を述べ、「一生の余執」としてこれを望んだが、承元五(1211)年一二月、款状は義盛に差し戻されてしまった。
建暦三(1213)年二月、義盛が上総伊北荘に下っている最中に、泉親衡が頼家の遺児を擁立して北条氏を打倒しようとする陰謀が露見し、関係者の自白から義盛の子・義直と義重、甥の胤長の関与が発覚した。
三月、鎌倉に戻った義盛は将軍実朝に対して身内の赦免を願い出た。結果、息子達は許されるが、甥の胤長は張本人であるとして許されなかった。助命嘆願は和田一族九〇人が願い出た大掛かりなものだったが、胤長は彼等が控える将軍御所の南庭に縄で縛られて引き立てられ、これにより和田一族は大きな恥辱を与えられた。
結局胤長は陸奥国へ配流となり、鎌倉の邸は没収された。本来なら罪人の屋敷は一族に下げ渡されるのが慣わしであったので、義盛は自分に賜るよう求めたが、聞き届けられず、北条義時は乱の平定に手柄のあった別の御家人に下げ渡してしまった。
数々の仕打ちに激怒した義盛は、義時の挑発に乗る形となってしまい、反北条派を誘い挙兵を決意した。四月二七日、事態を憂慮した実朝が義盛邸へ使者を送ると、義盛は使者に対して、「上(実朝)には全く恨みはございません。相州(義時)の余りに傍若無人について仔細を訊ねるべく発向しようとしているだけです。」と答えた。
だが、挙兵に際して最も頼りにしていた三浦義村が裏切った。三浦氏は和田氏の本家で、義村は挙兵への同心を約束し、起請文まで書いていたが、これを反故にして義盛謀反を義時に通報する。
五月二日、和田義盛は一族とともに挙兵。鎌倉で激しい市街戦が展開された。武勇で知られる和田一族は奮戦し、戦闘の上では決して引けを取らなかったが、義時方には新手が次々に到着し、和田勢は休む間もなく新手と戦い続けることとなり、夜にはすっかり疲弊し、由比ヶ浜へ後退して援軍を待った。
翌三日朝、横山党を初めとする援軍を得て、再び勢いを盛り返した和田勢だったが、義時と大江広元は将軍実朝の名で御教書を発し、大義名分を得ると多くの御家人達の援軍を得て、大軍となって逆襲した。
和田一族は次々と討たれ、夕刻、義直討ち死にの報を受けて号泣した義盛は。もはやこれまでとばかりに江戸義範の郎党に突入し、戦死した。和田義盛享年六七歳。
柱石としての役割 ある意味、この和田義盛を「柱石」とするのは過言だと思っている。確かに義盛は源頼朝には忠実で、弓の名手であり、武勇において御家人の尊敬を受ける人物であったが、政治力があったとは云い難い。
仕官時の直訴により早くから侍所別当となったが、西国遠征の際には真っ先に東国へ帰ろうとしたり、鎌倉内で三浦氏と足利氏が争った際に、中立の立場で仲裁にあたらなければならないのを身内である三浦方に加わったり、北条家の走狗としか思えないような行動も目立った。
また、「全くの馬鹿」とまでは云わないものの、「切れ者」と評するには明らかに及ばず、前述した梶原景時に別当職をとって代わられたことや、北条義時の挑発に乗ったことも聡明とは云い難く、その北条家との戦いにしても、タイミング的に遅きに失したと云える。
言葉悪くいえば本来は戦場で活躍する「戦バカ」だったのだろう。
だが、薩摩守は個人的な視点で和田義盛は、鎌倉幕府、厳密にはそれが持つ武士政権機構を守ろうとした人物ではなかったか、と見て本作の対象に選出した。
和田氏の本家である三浦氏は、元々は平氏に通じる氏族で、義盛が一三歳の時に平治の乱で平家の世が成立していた。頼朝とは同い年で、源氏の棟梁とはいえ流人に過ぎない若僧に一族の命運を預けるのは極めて危険な賭けだったと云える。
平家に尻尾を振っている方が無難に生きられただろうし、ある程度頼朝の勢力が拡大してから味方してもさほど危険は無かった筈である(その場合は侍所別当にはなれなかっただろうけれど)。
だが一方で、関東地方の武士達は平将門以来、土着と独立心の強い傾向もあった。ともあれ、義盛は石橋山の戦いの頃には親頼朝の旗色を明らかにし、頼朝の関東地固めの急先鋒となり、平家滅亡後は残党狩りの先頭に立ち、頼朝没後は北条氏に協力したのも、武家政権確立を第一とした、と考えれば頷けなくはない。
もっとも、梶原景時や畠山重忠を討つのに北条時政に協力して尽力したことには私怨を感じない訳ではないが(苦笑)。
ともあれ、義盛は幕府体制の盤石化に努めた訳だが、これは容易な話ではなかった。
頼朝の麾下に参じた面々にして、根っから源氏に忠誠を誓っていた者は皆無に等しい。一人一人その詳細を論じると日が暮れてしまうので、簡単に十三人の合議制に名を連ねた御家人の例を下表に参照頂きたい。
合議制参加御家人
名前 血統 役職 頼朝への仕官時期 備考 大江広元 中原朝臣 政所別当 元暦元(1184)年頃 三善康信 三善氏(太政官書記官) 問注所執事 寿永(1183)年四月頃 母が源頼朝の乳母の妹 中原親能 中原朝臣 鎮西奉行 治承四(1180)年一二月頃 大江広元の実兄 二階堂行政 藤原南家乙麿流 政所別当 元暦元(1184)年頃 母が源頼朝の外祖父・熱田大宮司藤原季範の妹 梶原景時 桓武平氏 侍所所司→侍所別当 養和元(1181)年一月 足立遠元 藤原北家山蔭流 公文所寄人 治承四年(1180)一〇月頃 平治の乱の頃から源氏に仕えていた 安達盛長 藤原北家魚名流 三河守護 平治元(1159)年頃 妻・丹後内侍が源頼朝の乳母・比企尼の長女 八田知家 宇都宮氏(藤原北家) 常陸守護 治承四(1180)年八月頃 保元の乱では義朝軍に従軍。 比企能員 藤原北家魚名流 信濃・上野守護 寿永元(1182)年八月頃 頼朝乳母・比企尼の甥。源頼家岳父 北条時政 桓武平氏 伊豆・駿河・遠江守護 治承元(1177)年頃 源頼朝岳父 北条義時 桓武平氏 寝所警護衆 治承元(1177)年頃 源頼朝義弟 三浦義澄 桓武平氏 相模守護 治承四(1180)年八月頃 和田義盛 桓武平氏 侍所別当 治承四(1180)年八月頃
殆どが平氏か藤原氏の流れを汲み、平治の乱以前には源氏に味方していた者もいるが、乱に敗れ、流人と化した頼朝にまで忠誠を誓っていた者など安達盛長ぐらいである。
つまるところ、当時の武士達にとって、情勢の変化で誰に仕えるかなど物凄く読みにくい時代にあったと云えよう。現代人が抱く「武士の忠義」は江戸時代の朱子学を受けて確立したもので見がちだが、忠義の基本対象は「主君」よりも「主家」で、同時に血統を絶やさないことが何より大切だったから、平安末期の武士の忠義は単純ではないし、「武士の権益を守ってくれる代表」が何より貴かった。
ある意味政治力に優れていた源頼朝はこの辺りをがっちり押さえていたから承久の変における北条政子の演説には御家人達は皆涙し、将軍家が三代で滅びたのに幕府が存続するという珍現象が実際に起きた。
和田義盛もこの辺りを重視し、「武士の権益を守ってくれる幕府体制」を重視すればこそ、頼朝に追従して他の御家人を讒言する景時や、二代将軍頼家の岳父の立場をたてに専横を図った比企能員を、「御家人連合の敵」と見做し、連合の為には「北条家の力が必要不可欠」と見たから、結果的に北条時政に迎合していると取れかねない行動を取ったと思われる。
大江広元に正論を突きつけて景時弾劾を実現させた例からも、義盛は全くの馬鹿ではなく、義盛なりに頭も使っていたことだろう。
惜しむらくは同族の三浦義村が北条の力の前に屈することと、北条家自体が傀儡将軍を立てての専横を目論んでいたことが読み切れず、謀略では完全に北条一族の方が上手だったことにあった。
逝きて後 和田義盛敗死により、正面切って北条氏にたてつく者は居なくなったといっていい。義盛戦死時に十三人の合議制に残っていたのは大江広元、三善康信、中原親能、二階堂行政、足立遠元、八田知家、北条義時で、大広広元を除けば歴史的にも影の薄いメンバーで、北条氏を滅ぼしてまで権力を我が手に握らんとする者も、征夷大将軍に絶対の忠義を貫く為に御家滅亡の危険も厭わない者も、無きに等しかった。
結局、義盛戦死後、打倒北条氏に走った者は武士ではなく、皇族から現れた。後鳥羽上皇である。上皇は政治に関心が薄く、朝廷との文化的交流や官位昇進に熱心な将軍実朝を抱き込むため、源仲章を送り込んで裏から糸引かんとしたが、実朝は公暁に殺され、やがては承久の変に至った。
だが皮肉なことに和田義盛が命懸けで守らんとした武家政権は、「外敵」を得たことで一致団結して上皇軍を打ち破り、幕府体制を守り通した。そして幕府が府外の「外敵」に対して団結した様に、執権の地位を独占した北条一族もまた内紛をさんざっぱら繰り返しながら北条氏以外の「外敵」に対しては団結し、義盛を裏切った三浦義村の一族も、和田合戦から三四年後の宝治合戦で北条家によって滅ぼされたのだった。
義盛が生涯を掛けて重視した幕府体制の確立は義盛が死んでも為されたが、義盛が人生の最後に戦った北条家の専横は結局幕府滅亡時まで続き、これが鎌倉時代を丸で安定しない時代にしたのは歴史の大いなる皮肉といえよう。
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