第壱頁 大伴子虫と長屋王………一〇年の時を経た仇討ち

恩を受けた人
名前大伴子虫(おおとものこむし)
生没年不詳
役職従八位下・左兵庫少属
受けた恩仕官・厚遇

恩を施し、返された人
名前長屋王(ながやのおう)
生没年天武天皇五(676)年〜神亀六(729)年二月一二日
役職正二位左大臣
報恩仇討ち



恩を受けた側・大伴子虫
 名前にあるように、大伴氏の出であることと、従八位下・左兵庫少属の官位にあったことの他、その人柄・事績・対人関係は後述分を除いて一切不詳である。
 長屋王に厚遇され、これに仕えていたが、神亀六(729)年、長屋王は漆部君足(ぬりべのきみたり)・中臣宮処東人(なかとみのみやところのあずまひと………………←長いし、読みにくいわ!!(苦笑))から聖武天皇の皇太子だった基皇子を、左道(邪な呪術)を用いて呪殺したと讒言された。
 愛息を失った悲しみで冷静さを失っていた聖武天皇はこの讒言を真に受け、長屋王は詰問の果てに自害に追いやられた。
 これに前後した子虫の動向は不明だが、休憩時間に主人を讒言した東人と碁を打っていたこともあるので、長屋王の変に際しては事件とは無関係と判断される所・立場に在ったと思われる。



恩を施し、返された人・長屋王
 天武天皇五(676)年の生まれで、高市皇子の子にして天武天皇の孫。当時の朝廷は天武系の皇族と藤原一族が勢力を二分する世界で、その血縁は複雑を極めた(長屋王自身、藤原不比等の娘を娶っているから、政敵・藤原四兄弟は義兄弟でもあった)。

 天武天皇の後は持統天皇のごり押しもあって草壁皇子が皇太子となったが、草壁が即位前に夭折すると、持統天皇が即位し、しばらくして文武天皇(草壁の子)が即位し、二代の女帝を挟んで聖武天皇に至る訳だが、皇統を外れたとはいえ、天武天皇の長男・高市皇子を父に持つ長屋王は嫡流に近い立場として皇族内に確固たる地位を保持していた。

 大宝四(704)年に正四位上(←皇族であることを考慮してもスタートとしてはかなりの高位)に叙任されたのを皮切りに、とんとん拍子に出世を重ね、養老二(718)年には大納言に任ぜられ、右大臣・藤原不比等に次ぐ地位に登った。
 養老四(720)年八月に不比等が薨去し、翌養老五(721)年一月に従二位・右大臣に叙任された。
 この時点では不比等の子である藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)はまだ若く、武智麻呂が中納言、房前が参議に過ぎず、長屋王の勢力は圧倒的だった。但し、長屋王が行った施策は公民の貧窮化や徭役忌避への対策を通じて、社会の安定化と律令制維持を図るもので、これは不比等の政治路線を踏襲したものだった。
 特に税(租庸調)や兵役(衛士・防人)に苦しむ農民の逃亡を防ぎ、土地に縛り付ける為に条件に応じて諸税・労役・兵役を免じ、新田を開墾した場合は三代目までその所有を認めた(三世一身法)。
 また蝦夷や隼人の反乱に対しても速やかな鎮圧を実現した。同時に官人に対する統制強化・綱紀粛正策も実施し、勤務状況の悪い者が数多く官職を解かれた。

 養老五(721)年一一月、元明上皇が崩御する際に長屋王と藤原房前に後事を託し、外廷を長屋王が主導し、内廷を房前が補佐する政治体制となった(翌月元明上皇崩御)。
 神亀元(724)年二月、聖武天皇が即位すると長屋王は正二位・左大臣に昇進。直後、聖武天皇は生母である藤原宮子(藤原不比等の娘)に「大夫人」の尊号で称する旨の勅を発したが、長屋王は、公式令に則って「皇太夫人」と称すること、勅によって「大夫人」を用いることを違勅になる旨を上奏し、聖武天皇に先勅を撤回させたが、宮子の尊号が否定されたことで長屋王と宮子の兄弟である藤原四兄弟との政治的な対立が誰の目にも明らかなものとなった。

 神亀四(727)年一一月、聖武天皇の妃・光明子(宮子の腹違いの妹で、聖武にとっては叔母に当たる)が基皇子を出産。大喜びした聖武天皇は即座に皇太子に指名し、基皇子が成人した暁には(自身が病弱だったこともあって)即座に譲位することを考えていたが、長屋王は前代未聞の生後一ヶ月余りでの立太子を不満とし、反対の姿勢を示して、立太子後の基皇子の元への訪問を行わなかった。
 結局、神亀五(728)年九月、基皇子は生後一年を迎えずして夭折。藤原家にとって間の悪いことに、聖武天皇の他の妃(←勿論藤原氏ではない)が男児(安積親王)を産み、外戚としての立場が大きく揺らごうとした。ここに藤原四兄弟は一大謀略を敢行した。所謂、長屋王の変である。

 神亀六(729)年二月、漆部君足と中臣宮処東人が「長屋王は密かに左道(呪術)を学びて国家を傾けんと欲す。」と密告。怒り心頭の聖武天皇はろくに吟味もせずそれを真に受けて藤原宇合に六衛府の軍勢率いさせて長屋王の邸宅を包囲した。
 舎人親王が尋問し、それに対して長屋王は必死に弁明したと思われるが、元々が謀略なので訴えが通る筈もなく、長屋王及びその妻子は首をくくって自害した。その自害が諦観から自ら決断したものなのか、宇合等に強要されたものなのかは明らかでない。長屋王享年五四歳。



施恩 詳細不明。皇族とその家人として長屋王大伴子虫をそれなりに厚遇したと思われるが、事件に連座しなかったところを鑑みると、役目的には然程近い距離には無かったが、心情的に親密だったと思われる。



報恩 長屋王が自殺に追いやられたことで政敵を排除した藤原四兄弟は妹で聖武天皇の妃だった光明子を皇后の地位に就けることに成功し、我が世の春を謳歌した。
 だが、天平九(737)年、朝鮮半島→太宰府経由で天然痘が平城京にも侵入し、同年四月から九月の間に藤原四兄弟は相次いで感染・病死した。四兄弟の呆気ない死と疫病以外にも地震や飢饉が相次いだ惨状に「長屋王の祟りでは?」との噂が人口に膾炙した。
 これを受けて多くの人々が長屋王の冤罪を信じるようになり、聖武天皇も長屋王に賜死したことを悔いるようになった(天然痘の流行を収める為、朝廷では冤罪の疑いが濃かった囚人の恩赦を行っている)。

 そして天然痘の惨禍がようやく沈静化しつつあった天平一〇(738)年七月一〇日、大伴子虫は中臣宮処東人と政務の合間の休憩時間に囲碁に興じていた。その途中、両者の話題が長屋王のことになると子虫は突如激怒し、東人を罵るや、刀でもってこれを斬り殺した。

 子虫が東人の述べた長屋王に関する何の話にキレたかは詳細不明である。

 東人が調子に乗って長屋王を讒言したことをゲロしたのか?
 東人が冤罪濃厚となりつつあった長屋王を改めて謀叛人呼ばわりしたのか?
 元々子虫長屋王を讒言した東人に殺意を抱いていて、囲碁のルールに関する論争に託けて斬った(←梶原景時が上総介広常を斬った時と似た感じ)のか?
 単純に子虫が東人に対して、「隙あり!」と思ったのがこの時だったのか?

 詳細が記録されていない以上、上記の事は断言出来ないし、完全否定も出来ない。
 ただ、言動だけで見れば、両者の間にどんな会話があったにせよ、それまで共に遊んでいた相手を子虫はいきなり罵って斬った訳だから、現代風に云えば突発的殺人事件を起こしたことになる。
 勿論奈良時代と現代の刑法を同列には語れないから、子虫の蛮行が当時の律令でどう裁かれるか単純には断じられないのが、この後子虫がどうなったか一切不明である。長屋王と云う皇族重鎮の名誉が絡んだ話で刀を抜いた人物のその後が全く残されていないのは不可解だが、罪や罰の一つも言及されていないとなると、何らかの情状が酌量されて不問に付されたか、形式的に軽い罰が与えられて終わったと見られる。

 少なくとも、長屋王の謀叛が冤罪であったことが確実視され、東人の言動が子虫の斬撃を招いたことに多くの人々が「無理もない………。」と思わせる程の要因があったのだろう。
 そしてそれと同等か、それ以上に子虫長屋王の為にかかる蛮行に出かねない程の忠節を持っていたことを万人が解していたのではなかろうか?

 尚、長屋王を讒言する密告を行ったもう一人の、漆部君足は長屋王憤死後間もなく急死したとだけ伝わっている。


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令和四(2022)年一一月九日 最終更新