第弐頁 源頼朝と池禅尼・平頼盛母子………一族族滅を回避した恩義

恩を受けた人
名前源頼朝(みなもとのよりとも)
生没年久安三(1147)年四月八日〜建久一〇(1199)年一月一三日
役職清和源氏棟梁、右近衛大将、征夷大将軍
報恩助命

恩を施し、返された人
名前池禅尼(いけのぜんに) 平頼盛(たいらのよりもり)
生没年長治元(1104)年〜長覚二(1164)年長承二(1133)年〜文治二(1186)年六月二日
役職正二位権大納言
報恩助命



恩を受けた側・源頼朝
略歴 超有名人物につき、今回も「略」(苦笑)。



恩を施し、返された人・池禅尼平頼盛
略歴 池禅尼は平忠盛の継室となった女性で、長治元(1104)年に藤原宗兼(北家)の娘に生まれた。池禅尼は勿論出家名で、実名は宗子(むねこ)。保安元(1120)年頃に忠盛の正室となったが、実家の名高さから忠盛妻妾の中では最も重んじられ、重仁親王(崇徳上皇王子)の乳母を務めたこともあった。

 そして保安四(1123)年に家盛(忠盛次男)、長承二(1133)年に頼盛(忠盛五男)を産んだ。忠盛長男には清盛(永久六(1118)年)がいたが、宗子が正室だったことから家盛が家督を継ぐ可能性は充分にあった。しかし家盛は不幸にして二六歳で父に先立ち、頼盛は清盛と一五歳も離れていたことから既に朝廷内で名の通っていた清盛が家督を継いだ(正室腹の頼盛を差し置いて家督を継いだことも、清盛が白河法皇の御落胤であるとの説を高めている)。

 仁平五(1153)年、夫・忠盛が逝去し、宗子は出家して池禅尼となった。その二年後に近衛天皇が崩御。鳥羽法皇から近衛帝に無理やり譲位させられていた崇徳上皇の子で、池禅尼が乳母を務めた重仁親王が即位する可能性が出てきた。
 だが、崇徳上皇を「自分の子ではない。」と見て嫌い抜いていた鳥羽法皇は後白河天皇を即位させ、崇徳上皇を非常に落胆させた。
 そして保元元(1156)年に鳥羽法皇が崩御すると、院政を求める崇徳上皇と天皇親政を求める後白河天皇が激しく対立し、両者の諍いに摂関家、源氏、平氏も双方に分かれて加担したことで保元の乱が勃発した。
 乱は後白河天皇方の勝利に終わり、天皇方についた清盛は大きく力を伸ばした。
 だが同じく天皇方に味方した源義朝がこの時の論功行賞に不満を抱いた。三年後に後白河天皇が退位して院政を開始すると(←天皇親政を主張していたのは誰だ?)義朝は藤原信頼と組んで清盛の留守を狙って挙兵し、上皇と二条天皇を捕虜にした(平治の乱)。
 熊野から慌てて戻った清盛は上皇・天皇を女装させて自分の元に逃れさせると錦の御旗を得て平治の乱に勝利し、源義朝は落ち延びる途中尾張で殺され、乱に参戦した義朝の三人の息子の内、次男・朝長は負傷したことで自害し、長男・義平と三男・頼朝(初陣)が個々に捕らえられ、処刑されることとなった。

 このとき池禅尼の執り成しで頼朝は死罪を免ぜられ、伊豆への流刑となった(詳細後述)。頼朝より幼い義朝の子供達は寺に入ることで命を救われた。このことが後々の平家の命取りとなった訳だが、それは後の話で、平治の乱自体は平家の大勝利で、平家一門は西国を中心に多くの領土と荘園を持ち、清盛は太政大臣となり、後には娘・徳子を高倉天皇に嫁がせ、安徳天皇が生まれたことで藤原家宜しく天皇の外祖父となった。正に「平家にあらずんば人にあらず」の世が到来した(短期間だったが)。

 この間、頼盛は平家にあって清盛に次ぐ者として二つの大乱にも尽力し、保元の乱直後には兄・教盛(忠盛四男)と共に昇殿が許され、安房国受領となり、平治の乱では名刀を抜いて奮戦し、平家全盛の世が来ると頼盛は尾張守となった。
 ただ、平家内における頼盛の立ち位置はここで頭打ちとなった。別段冷遇された訳でもないが、清盛の長男で、頼盛の甥にあたる重盛がどんどん出世し、平家次期当主としての名声を高め、長覚二(1164)年に池禅尼の逝去(長寛(1164)二年頃没)に前後して、官位でも重盛が頼盛を上回った。



施恩 既に前述しているが、源頼朝平治の乱で敗れて捕らえられ、本来なら斬首される所を池禅尼の執り成しで助命され、伊豆への流刑となった。
 勿論清盛はすんなり応じた訳ではなかった。当時頼朝は初陣とはいえ一四歳で、既に元服を終えている以上は処刑対象とするには充分だった。
 とはいえ、二〇歳以上を、令和の法改正で一八歳以上を大人とする現代でも、既定の年齢に達してはいても「なったばかり」の人間に対しては多少の甘さが伴うことは珍しくない。後々一ノ谷の戦いにおいて熊谷直実は首を取るべく組み敷いた平敦盛(当時一六歳)が若輩なのことで、その首を取ったことに深い悲しみを覚えた例からも、頼朝の年齢は大人として扱うか否か微妙だったのだろう。
 加えて、池禅尼頼朝が彼女の亡き息子・家盛に似ているから、彼を殺すのは忍びないとして、その助命を泣いて哀訴してきたから清盛としてもバツが悪かった。

 頼朝が家盛とそんなに都合よく似た容姿をしていたのかどうかについては何とも云えないが、結果として清盛は折れ、死を免ずる時の慣例通り、「温情により死を一等減ずる」として、前述通りの流刑となった。
 一般に流刑と云ってもその生活ぶりは様々で、後年鹿ケ谷事件で流刑となった俊寛僧都や藤原成親等の流刑生活は食うにも困ったり、怪死や自死の疑いが残ったりと云うひどい有様だったが、頼朝の流人生活は一応の監視付きとはいえ、比較的自由に振舞えるものだった。
 勿論、身分は犯罪者なので、伊豆の土豪である伊藤祐親や北条時政はその監視を命ぜられていたが、頼朝はその娘達と恋仲になり、子供まで成した。どうも地方豪族の娘達にとって、源氏の棟梁(頼朝は三男だったが、母親の身分が高く、都生まれ都育ちだった)で貴公子然とした立ち居振る舞いは一種の憧憬を生んだらしかった。

 話が横道に逸れたが、「平家に対する二度の反逆は許さん」とする方針からの制限に則するなら、罪人とはいえ、頼朝が置かれた境遇はかなり恵まれていた。
 父や兄を殺されていることから、頼朝が助命を許可した清盛に対してどのような想いを抱くかはなかなかに複雑なものがあるが、当初殺す気でいた清盛に対して「私も死ぬ!」とまで云って自分の助命を嘆願してくれた池禅尼頼朝が大恩を感じたのは必然だった………………と云うか、これで恩を感じてなかったら薩摩守は今以上に頼朝を軽蔑し、嫌っていただろうな………



報恩 平治の乱から二〇年を経て、平家と後白河法皇の蜜月状態は既に終わっており、平家に反感を持つ勢力が動き出した。治承四(1180)年、後白河法皇の第二王子・以仁王が平家追討の令旨を発し、源氏の中で唯一平家に味方していた源頼政が挙兵した。

 以仁王と頼政はすぐに敗死した(乱を沈めたのは平頼盛)が、源頼朝を初め、全国の源氏が挙兵。翌年熱病のために命を落とした平清盛は今際の際に自分が死んでも葬式などせず、墓に頼朝の首を備えることを遺言して息を引き取った。
 清盛の後は息子達の中で最年長だった宗盛が継ぎ、これを頼盛が補佐した。この時点で存命していた清盛の弟は四人いたが、忠盛正室腹の生まれだった頼盛が政治的に補佐し、兄の経盛・教盛、弟の忠度は武断的に補佐した。
だが、源氏の勢いを食い止めることが出来なかった。

 寿永二(1183)年七月二四日、平氏の北陸方面追討軍は倶利伽羅峠の戦いにて源義仲(木曾義仲)に大敗し、宗盛は都に迫った義仲軍を防ぐために、頼盛に山科方面への出兵を要請した。
 やむなく従軍した頼盛だったが、直後に連絡の不備が起きた。

 二五日未明に後白河法皇が比叡山に脱出し、これを知った宗盛が六波羅に火を放って都を退去(所謂、「平家の都落ち」)したのだがその際に宗盛が頼盛に都落ちを知らせていなかった。
頼盛は都落ちを聞くと、子の為盛を宗盛のもとに差し向けて事情を問い詰めるが、宗盛は動揺するばかりで明確な返答はなかった。事情はどうあれ、結果的に頼盛は前線に置き去りにされたに等しかった。
 都に戻った頼盛だったが、自宅は全焼しており後白河法皇に保護を求めた。二八日、後白河法皇は平氏追討・安徳天皇の帰京・神器の回復の方策を立てるため、公卿議定を開催。この議定では、頼盛の処遇も議題に上り、都落ちに同行しなかった頼盛は追討対象外とされ、出席者一同これに賛同したが、義仲軍が都を占拠している状況では頼盛も処分を免れず、頼盛は八月六日に他の平氏一門とともに解官された。

 解官後の頼盛は八条院の庇護を受けながら、密かに鎌倉の源頼朝と連絡を取っていたと云われている(後白河法皇の意向を受けてのことだった可能性も有り)。その後、周知の通り部下達の乱暴狼藉もあって義仲は法皇・貴族に嫌われ、法皇が義仲を無視する形で頼朝に宣旨を出したこともあって、両者の仲は一気に険悪化し、頼盛は洛中を蓄電した。

 『玉葉』によると、一一月六日に、頼盛が息子・郎党達と共に鎌倉に入ったと記されている。頼朝は居館から一日の行程にある相模国国府を頼盛の宿所に充て、相模の目代を世話役にし、同書によると「如父モテナシ(父親の如くもてなし)」たとある。
 勿論頼朝に後白河法皇とのパイプ役として頼盛を利用すると云う計算もあったと思われるが、池禅尼に命を救われたことへの旧恩に報いる面もあった(この際、断言してやる)。

 寿永三(1184)年、義仲が滅ぼされ、一ノ谷の戦いで末弟の忠度が戦死した。
 同年の内に屋島の戦いにも平家は敗れ、京都は頼朝の勢力下に入った。この間、『玉葉』によると、頼盛頼朝の為に八条院や後白河法皇に働きかけて九条兼実を摂政にするよう工作していたと考えられる。
 四月、頼朝頼盛に荘園三三箇所を返還し、本領を安堵するという措置を取った。その後、頼盛は一旦帰京して五月三日に改めて亡命としてではなく正式に関東に下向した。
 五月二一日に頼朝は高階泰経に書状を送って、頼盛と子息の本官還任と源範頼・源広綱・平賀義信の国司任官を要請。六月一日に頼盛のために盛大な送別の宴を開いた。
 六月五日、頼盛は帰京して権大納言に還任。子の光盛は侍従に、保業は河内守となった。
 だが、京都に戻り、再び朝廷に出仕した頼盛だったが、一門の都落ちに同道せず合戦を前に京都から逃亡したことや鎌倉の厚遇を受けたことで院近臣の反発を買い、朝廷内で孤立。一二月二〇日、頼盛は光盛を近衛少将に任じることを奏請して自身は権大納言を辞任した。

 そして翌元暦二(1185)年三月、平氏一門は壇ノ浦の戦いに敗れて滅亡。二人の兄・経盛と教盛は入水し、宗盛父子が生け捕られた以外は多くが入水・戦死した。
 一門の滅亡の報を受けた頼盛はそれから程なく頼朝に出家の素懐を申し送って了承を得ると、五月二九日、東大寺で出家して法名を重蓮と号した。翌月、後白河法皇は播磨・備前を院分国として、知行権を頼盛に与えた。この措置は頼朝の要請によると見られ、頼盛は藤原実明を播磨守、光盛を備前守に推挙した。

 これ以降、頼盛は八条室町の自邸に籠居して表舞台にほとんど姿を見せず、文治二(1186)年六月二日逝去した。平頼盛享年五四歳。この頃洛中は頼朝と訣別した源義経捜索に大わらわで、その死は周囲から忘れ去られたひっそりとしたものだった。

 かように源頼朝平治の乱において処刑される所を池禅尼に助命され、その恩義を忘れることなく、父の仇である平家一門を滅亡に追いやりつつも、彼女の血を引く息子・頼盛を初めとしたその子孫たちを殺めることは無かった。逆を云えば、池禅尼の血を引かない兵士は皆殺しにされたに等しい。

参考:平頼盛兄弟達の末路
名前 頼盛との関係 末路 その子供達
清盛 異母兄・長兄 治承五(1181)年閏二月四日病死 重盛(早世)
基盛(早世)
宗盛(壇ノ浦の戦いで捕らえられ、刑死)
知盛(壇ノ浦の戦いで入水)
重衡(一ノ谷の戦いで捕らえられ、刑死)
家盛 同母兄・次兄 久安五(1149)年三月一五日早世
経盛 異母兄・三兄 壇ノ浦の戦いで入水 経正(一ノ谷の戦いで戦死)
敦盛(一ノ谷の戦いで戦死)
教盛 異母兄・四兄 壇ノ浦の戦いで入水 通盛(一ノ谷の戦いで戦死)
経教(壇ノ浦の戦いで敵将二人を道連れに入水)
忠度 異母弟・末弟 一ノ谷の戦いで戦死

 以上からも頼朝が平家一門を尋常じゃなく恨んでいたことに疑いの余地はない。平家に味方して、父を裏切って騙し討ちにした長田忠致に至っては、助命の約束を酷い駄洒落で反故にして殺している(過去作「反故にするんじゃねぇ!」参照)。
 その一方で、頼盛一家は助命されただけではなく、その後の本領安堵を初め、身の立つように計らわれた。しかも頼盛自身(宗盛に置き去り同然にされた経緯もあったが)まるで助命されるのを確信していたかの如く早々に頼朝に降伏している。
 薩摩守(←平忠度の事ではない(笑))の推測に過ぎないが、平治の乱にて頼朝への裁きが下された時、処刑宣告→助命嘆願→流刑への減刑という一連の流れを頼盛も両親と共に見ていて、頼朝が母・池禅尼に感謝する様を見ていたのではあるまいか?

 勿論、早期の降伏には頼盛にも複雑なものがあったことだろう。まだまだ平家が滅亡すると決まってもいない、源氏にしたところで誰が棟梁となるかはっきりしない時期に、一門を見捨てる様に降伏し、その後の戦いで弟や甥達は次々と命を落とし、本家は滅亡したのだから、頼盛には罪悪感もあったことだろう。
 平家の都落ち後、頼朝に保護を求めた頼盛は自分と共に平宗清(宗盛の子息)の保護も求めている。恐らく、本家の血筋を残したかったのだろう。頼朝はこれに賛同する意を示したが、当の宗清は父と行動を共にしたため、結局平家一門で生き延びれたのは頼盛一家のみだった。

 少し話が逸れるが、歴史上多くの名家や大名家が滅亡しているが、所謂、「根絶やし」や「族滅」は殆んどなく、多くの場合庶流の一部が生き延びている。平家における頼盛一家の生き残りもそうだが、一例を挙げると天目山の戦いで滅びた武田家も、武田勝頼の血筋は(女系を除いて)絶えたが、信玄の血を引いた者は世に残っている。
 もし血統が完全に途絶えると祖廟を祀る者がいなくなり、中国や朝鮮半島では祀られなくなったものは怨霊となって祟るとされたので、自分に背いた者の一族郎党を悉く処刑した曹操も一部の傍流を残した。
 同じ儒教の影響を受けたアジアの一国である日本にどこまでこの考えが浸透していたか不詳だが、一応頼朝も族滅を免れた身として、平家の族滅に躊躇いがあったのではなかろうか?

 頼朝頼盛の関係は、単純に云えば親同士の処刑と助命を子供の代で返した、と云うだけのものかも知れない。だが、両者とも自身の命は助かっても多くの近しい身内と死に別れるという痛恨事に見舞われている。身内を殺された恨みと自身の命を助けられた恩義の狭間で苦しんだことだろう。
 まして頼盛の場合、平家が滅亡にまで追い込まれていない内から頼朝に降り、ある意味身内を見捨てた者として後ろ指を差されもした。それゆえ彼はひっそり残り少ない余生を生きたのだろう。

 だが、単なる恩と仇の応酬であっても、やはり命が救われたことは重く受け止めたいし、薩摩守の大嫌いな、忠義も血縁も重んじない猜疑心の塊男・源頼朝だからこそ池禅尼の恩を忘れず、これを頼盛に返したことは讃えたいと思っている。


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令和六(2024)年五月二三日 最終更新