第陸頁 報いれない恩にどう報いるか

 本作を作ろうと思ったのはかなり昔である。きっかけとなったのは、源頼朝が平家を滅ぼすに際して、池禅尼の実子である平頼盛とその一族を助命した史実を知った時だった。
 過去作で何度も触れているが、薩摩守は猜疑心の塊・男としか思えない頼朝が昔から大嫌いだった。勿論、漢の高祖劉邦、明の洪武帝・朱元璋、旧ソ連のヨシフ・スターリン等の例は知っていて、急速に権力の絶頂に立った者がその地位を守る姿勢に入った時に猜疑心に囚われるのがある程度無理ないのは承知しているつもりである。
 そしてそれらの例を鑑みても頼朝とスターリンは猜疑心振りを嫌う筆頭だった。数々の猜疑心に囚われた人物と比べても、何故にそこまで頼朝を嫌うのか?を語り出すと長くなるのでここでは割愛するが、過去に拙房を閲覧下さった方から「貴方源頼朝に恨みでもあるんですか?」と云うメールを頂戴したこともある程だから、考察や判断の良し悪しはどうあれ、薩摩守の頼朝嫌いは尋常ではないのだろう(苦笑)。

 だが、そんな頼朝でも(「そんな頼朝だから」と云うべきか?)、平治の乱で斬首される所を助けてくれた池禅尼の恩に報いて頼盛一家の命を助けた史実を知った時、正直、ほっとしたものを感じ、頼朝のその一面だけは好きになった。
 多くの功臣や血を分けた身内を疑い、武士にとって主君である法皇に対して「日本一の大天狗」と揶揄する様な人物が、もし自分の傍近くに存在していたら、愛情も血縁も忠義と云った情や美徳を尽くしても全く持って安心して接することが出来ない。だが、そんな男でも「恩義」は忘れていなかったことは嬉しかった。

 実際、程度や形は千差万別ながら、人として生きてきて天寿を全うするまで人生を歩むにおいて、誰の恩にも浴さないなど不可能だろう。本作で採り上げた恩義なんてほんの一例に過ぎず、もし戦国武将達が本作を閲覧すれば、「俺の方がもっと大きな恩義を受け、それをしっかり返したぞ!」と声高に叫ぶ人はごまんといそうである。
 例によって、誰と誰のケースを採り上げたのは独断と偏見である。ただ、多くの人々の恩義を受けて生き、その多くを返せずにいる薩摩守としては、この最終頁で「恩義」と云うものを考察した裏方に触れることで、歴史上の様々な施恩と報恩を考察する契機となり、世のすべての人々が正しく恩義を重んじ、報い合えればと願われてならない次第である。



考察壱 何を「恩」とするか
 冒頭の例に『三国志演義』における蜀の劉璋と、その配下である張粛の例を出しておきながら何だが、本作において、所謂、「君恩」は大伴子虫を例外として他には採り上げていない。勿論主従関係となった例も存在するが、「恩義」自体は「君恩」と少しずれると思っている。
 また、親や師の「恩」も例としていない。誤解を恐れず述べれば、親が子に、師が弟子に、主君が配下に、雇い主が従業員に「恩」を施すのは当たり前で、いちいちそれを「恩」とするのも変な話だと思っている。

 親が子を成せば、深い愛情を注ぎ、これを一人前に育てるのは本来なら当たり前のことである。
 師匠が弟子に学問なり、技能なりを伝授するのも師弟の性で、弟子は「我が師の恩」を極自然に感じるだろうし、師匠が「恩」を着せるのはおかしな話だと思っている。
 主君や雇い主が配下や従業員に「恩」を施すのも、「奉公」に対する報酬で、対人関係が良好だとしても周辺状況でその関係が壊れることもあり、これらのつながりは「契約」に近いと思っている。

 では、本作は何をもって「恩義」としたのか?
 主な命題となっているのは「命」である。大伴子虫が為した報復も、頼朝の助命返しも、黒田長政が竹中家を庇ったのも、「命」が絡んでいるし、足利義昭も(腹に一物あったとはいえ)織田信長の協力が無ければ、将軍位以前に「命」が危うかった。
 勿論明日の命をも知れない戦国時代にあっては、命を助け助けられの例は数え切れないほどあったことだろう。命の絡まない権力や財産や名誉上の恩義も多いことだろう。ただ、権力も財産も失ったとしても、生き続けていれば取り戻せる可能性は零ではない。一方で「命」は失われれば「それっきり」なのである。
 それゆえ、「命を救われた」とする、いわゆる「命の恩人」に対する「恩義」は何より大きいと考え、前頁までの五例を選んだ。

 令和四(2022)年一一月現在、薩摩守はアラフィフにして独身で、妻帯していない。それでも妹の子(つまり甥)と会う度に、彼等が少しずつ成長を見るのは嬉しい。また、学生時代や前職の仲間と再会したり、連絡を取り合ったりする際に新たな命の誕生を尊く思ったりもする。
 甥や、知人の子でさえこうなのだから、実子となると生まれてくることや、その命が育つことへの喜びは尚更だろう。そして人は皆こうして生まれ、生まれてきたことや成長を喜ばれつつ大人になっていく筈なのに、歴史上にはそんな労苦を一瞬にして無に帰すような理不尽な落命が枚挙に暇ない。
 それゆえ、本作に採り上げなかった人物や史例に対しても、今後も人の命を救った話には注目し、考察を重ねたいと改めて思うのである。



考察弐 恩義と時の流れ
 受けた「恩」は必ず返せるとは限らない。本作でも黒田長政が命を救われた恩を返したのは竹中重治その人ではなく、その嫡子・竹中重門だった。身も蓋も無い云い方をすれば、「恩を返したい。」と思った時には重治はこの世を去っており、本人には返し様が無かった。
 勿論、本人に恩を返せずとも、その子に返したことは尊い。だが、長政も、その父の官兵衛も出来得るなら重治本人に返したかったことだろう。

 前段の「考察壱」で、本作では親が子に、主君が配下に施した「恩」は対象外としたと述べているが、上から下への恩義には、受けた側が「返したい。」と思った時には、その相手がこの世にいないケースが多いことも関係している。
 「親孝行したい頃に親は無し」と云う格言がある様に、自分が親の身となって、親の気持ちが分かり、親に孝行したいと思う頃にはその親が天寿を全うしているケースは現代でもあるし、時代を遡ればもっと多いことだろう。

 かかる例ならずとも、「恩」を受けた側が、それを返そうと思った時にはその相手がこの世にいないケースもまた枚挙に暇がないだろう。
 個人的な例を挙げれば、薩摩守自身、平成二七(2014)年に父に死なれ、もう父親への恩は返せない。
 学生時分に様々な教えを受けた恩師達の何人かは鬼籍に入っている方もいれば、鬼籍に入っていてもおかしくない年齢に達している方々も少なくない(小学生時代に最も自分を買ってくれた担任の先生は御存命だとしても一〇〇歳を超えている)。

 最初の職を解雇された際に世話になり、東京での生活を維持するのに助けとなってくれた先輩はしばらく連絡を取っていなかった間に亡くなられていた(少し大袈裟な書き方をすれば、この先輩の世話になって生活できていなければ菜根道場は作れなかった)。

 その他、少年時代に空手や野外活動で教えを請うた方々が何人もこの世を去られている。

 勿論、人間はいつかこの世を去る。上述した恩のある、鬼籍に入られた方々の大半は天寿を全うしたとも云える年齢で世を去られている。極端な例を挙げれば、道場主が高校一年時に英語を教わった先生は非常に熱心に大学合格を目指して指導して下されたが、この恩師は道場主が高校三年時に病死されたので、大学合格の報を知らせようが無かった。
 つまるところ、幼少の頃や若い時分に教えを授けて下さる形で恩を施して下さる方々は多くの場合親とも云える年齢の方々で、寿命で云えば「弟子」よりも先に世を去る可能性が高い。年齢的な問題で如何ともし難いケースが多いのを承知していても、返せなかった恩は悔やまれてならない。

 漫画『地獄先生ぬーべー』の一コマで、主人公鵺野鳴介(通称・ぬーべー)の危機に彼の教え子達が命懸けで彼を助けようとし、その際に普段小悪魔的な悪戯を繰り返してぬーべーの手を焼かせている細川美樹が、泣きながら「恩を掛けっぱなしにしようたって、そうはいかないわよ!」と叫んでいるシーンを見る度に、多くの人々への返せない恩を想い、胸を塞がれる思いになる。

 勿論恩を返せなかった人々に対しては、その身内を含む縁のある方々に返すか、自分を育ててくれた人々が期待したような人間として成長することが恩返しになると思うのだが…………………そんな成長を遂げたと胸を張って云えないのが情けない……………。

 親が子供に愛情を注ぐのに見返りなど求めないように、恩人達の多くは薩摩守に恩を着せた意識は無いのかもしれない。だが、それでも忘れないようにしたいものである。



考察参 忘れてはいけない「恩」と忘れなければならない「恩」
 中国史の『史記』のワンシーンだが、戦国時代末期の魏の公子・信陵君(本名・魏無忌)は優れた食客を三〇〇〇人抱え、兄である魏王を助けていたが、人望や能力があり過ぎたことが災いし、政治の場から外されていた。
 そんな信陵君は、姉の嫁ぎ先である趙の国が秦に攻められて滅亡の危機に瀕したのを、国軍を奪って援軍に駆け付け、趙の危機を救った。だがその際に信陵君は国軍を動かす為にその割符を国王の寝所から盗み、割符を疑った国軍司令官を殺している。
 割符を盗んだのは魏王の寵姫・如姫で、過去に父親が殺された際に信陵君が仇討ちに尽力してくれた恩義に応えての事だった。

 このことで信陵君は趙から「国を救ってくれた恩人」として迎えられ、趙は城五つを渡して恩に報いんとした。だが、一方で信陵君は魏にあっては、「割符を盗み、司令官を殺し、国軍を勝手に動員した大罪人」となってしまい、魏には戻れない身となっていた。
 それゆえ信陵君は趙に骨を埋めるつもりで、五城を受け取ろうとしたが、同行していた食客達がそれに反対した。いくら趙にとって「恩人」でも、魏にとっては「罪人」で、趙の城を受け取れば「母国魏の恩を忘れる。」と云う行為であるとして信陵君を諭し、信陵君も自分が人の道を踏み外すところだったのを諭してくれた食客達に感謝し、その後も趙から五城を受け取って欲しいとの要請も拒み続けた。

 そして一〇年後、信陵君は魏に帰国した。
 信陵君に去られた魏は、秦から格好の餌食とされ、滅亡の危機に瀕していた。異母兄である魏王は信陵君に「過去の罪は問わないから。」として何度も帰国して助けて欲しいと懇願していた。
 当初信陵君は自分を呼び戻して誅殺する為の罠だと疑い、応じなかった(実際そんな例は腐るほど存在した)。だがある日、趙で信陵君の飲み仲間となっていた薛公と毛公が彼を諭した。両名が云うには、信陵君が趙で客分としてもてなされ、多くの食客が付き従い、諸国にも名が通っているのは母国である魏があればこそで、母国の滅亡を座視しているのはその恩義を忘れる行為だとした。

 この時の薛公と毛公も、五城を受け取らない様諭した食客も、信陵君に対して、「忘れてはいけないことと、忘れなければいけないことがある。」としていた。つまり彼が「信陵君」となった後の、周囲に施した恩は忘れなければならないが、彼が世に大きな力を持つ「信陵君」になる母体となった母国・魏の恩は忘れてはいけない、としたのである。
 彼等の説得を受けた信陵君は一〇年振りに帰国し、魏王は涙せんばかりに喜び、信陵君復職の報を受けて諸国も魏に協力し、秦の侵略は阻止された。
 ただ、この後、秦は謀略をもって再度信陵君が魏王から疎んじられるように謀り、冷遇された信陵君は酒色に溺れて四年後に世を去り、魏は滅亡に向かった………。

 「恩義」というものを考えさせられる信陵君の生涯だったが、やはり思うのは、多くの人々が信陵君に対して、「施した恩は忘れなさい。」と諭しつつ、諫言者達自身が信陵君への恩返しに奔走していたことである。
 恩徳は決して見返りを求めて施すものでは無い。その様な謙虚な姿勢を持ちつつ、それでも自分が受けた恩には直接的であれ、間接的であれ、返す姿勢をすべての人々が持ち続ければ……………その時にこそ歴史に学ぶ者の理想の一端が為された世になると思われ、そうあって欲しいと願われてならない次第である。

令和四(2022)年一一月一八日 薩摩守



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令和六(2024)年五月二三日 最終更新