第伍頁 黒田長政と竹中半兵衛・竹中重門………正に「情けは人の為ならず。」

恩を受けた人
名前黒田長政(くろだながまさ)
生没年永禄一一(1568)年一二月三日〜元和九(1623)年八月四日
役職福岡藩藩主
受けた恩助命

恩を施し、返された人
名前竹中重治(たけなかしげはる)竹中重門(しげかど)
生没年天文一三(1544)年九月一一日〜天正七(1579)年六月一三日天正元(1573)年〜寛永八(1631)年閏一〇月九日
役職羽柴家与力幕府与力
報恩敗戦処分による取り潰し回避



恩を受けた側・黒田長政
略歴 永禄一一(1568)年一二月三日に羽柴秀吉(豊臣秀吉)の「二兵衛」と呼ばれた知恵袋・黒田官兵衛孝高(如水)の嫡男に生まれた。幼名は松寿丸(しょうじゅまる)。松寿丸誕生時の黒田家は播磨の小大名・小寺家の分家に過ぎず、小大名に在りがちな、大勢力と如何に付き合うかと云う難題に直面していた。
 父の官兵衛は羽柴秀吉を通じて織田信長に従う道を選び、結果的には成功したが、主君で身内でもある小寺政職や同僚の豪族・荒木村重等は毛利家との誼の方を重んじ、それが為に官兵衛は村重に一年以上も監禁され、織田家の人質だった松寿丸も危うく一命を落とすところだった。

 織田軍が摂津有岡城を落としたことで官兵衛は救出され、黒田家の忠義も信長の信頼を得るところとなると、秀吉の片腕として益々その才を発揮し、秀吉が城持ち大名となるのに貢献し、本能寺の変で織田信長が倒れた際も、逸早くその仇討ちを進言することで秀吉が信長の後継者となる事にも貢献したが、好機に対する露骨な捉え方から以後、秀吉に徴用されつつも警戒された。
 秀吉が天下を統一すると筑前の中大名に封じられ、やがて官兵衛は隠居して長政が当主になると朝鮮出兵にも活躍した。だが、機を見るに敏な黒田家は早くから秀吉亡き後の天下を取るのは徳川家康と見て、これに接近。長政自身、家康養女を正室に迎え、石田三成を嫌っていたことからも家康との誼を深めていた。

 慶長三(1598)年八月一八日に豊臣秀吉が薨去し、翌慶長四(1599)年閏三月三日に秀吉家中の武断派と文治派の諍いを抑えていた前田利家が逝去すると長政は加藤清正・福島正則・細川忠興・浅野幸長・加藤嘉明・池田輝政等とともに三成を襲撃せんとしたが、これは家康に止められた。
 そして翌年、家康が会津討伐を命じられて出陣すると長政もこれに従軍。この隙をついて挙兵し、上杉軍と共に家康を挟撃せんとした三成が行動を起こすと家康の手先となって従軍大名のほぼ全員が家康につくよう根回しし、その後勃発した関ヶ原の戦いでも西軍諸将の内応を工作したのも、長政だった。
 一方、その頃、隠居の官兵衛は九州で挙兵し、西軍方の城を落として第三勢力を作り、長引くであろう東西両軍の戦いに漁夫の利をせしめて天下を取ろうと目論んだが、関ヶ原の戦いは他ならぬ息子・長政の活躍にて一日で終わってしまった。
 戦後、家康が自分の手を取って褒めてくれたことを得意気に語る長政に官兵衛は「その時、お前の左手は何をしていた?」と云って、暗に「何故空いた手で家康を刺さなかったのか?」と叱責・揶揄した。

 ただ、これは長政に天下を取らせんとした自分の尽力を無にしたこと当の長政が丸で気付かず、無邪気に喜んでいたことを窘めたかったのが本音と思われる。
 いずれにせよ以後の黒田家は豊臣恩顧大名として幕府に睨まれていることを留意しつつ江戸幕府における西国雄藩の一つとしての生き残りに尽力。大坂冬の陣では長政は従軍を許されず江戸留守居を命じられたが、夏の陣には従軍を許された(同じ立場だった福島正則は夏の陣も従軍を許されなかった)。

 豊臣家滅亡後、長政は藩主として数々の産業を奨励し博多人形や博多織、高取焼など伝統工芸の復興に力を入れた。そして元和九(1623)年、徳川家光が第三代征夷大将軍宣下を受けるのに際してその先遣として上洛していたところ、既に病を得ており、京都における黒田家の位牌寺・報恩寺の客殿寝所にて逝去した。黒田長政享年五六歳。



恩を施し、返された人 竹中重治竹中重門
 黒田官兵衛同様、羽柴秀吉の「二兵衛」と呼ばれたもう一人の知恵袋が竹中半兵衛重治である。一般には「竹中半兵衛」の呼称の方が有名である。
 重治は天文一三(1544)年、美濃斎藤氏の家臣、美濃大野郡大御堂城(岐阜県揖斐郡大野町)城主・竹中重元の子として生まれる。
 弘治二(1556)年斎藤義龍が父・道三に反旗を翻した長良川の戦いが初陣で、道三に味方して父の代わりに大将として籠城戦を指揮して義龍軍を退けた。
 だが、道三は敗れ永禄三年(1560)年に父の死去(または隠居)により若くして家督を相続して菩提山城主となると義龍に仕え、次いでその子龍興に仕えた。

 義龍死後、尾張の織田信長による美濃侵攻が連年のように激しくなり、義龍の後を継いだ龍興が若年だったこともあって、家臣団には動揺が走った。そんな状況下でも重治は良く戦い、永禄六(1563)年にも新加納で織田勢に対して巧みな戦術を駆使して勝利をもたらした。

 だが、龍興は酒色に溺れて政務を顧みず、一部の側近だけを寵愛して重治や西美濃三人衆(安藤守就・稲葉一鉄・氏家卜全)を政務から遠ざけていた。このため永禄七(1564)年二月六日、重治は舅・安藤守就の軍勢と龍興の居城・稲葉山城(岐阜城)を襲い、龍興を逃亡させた。
 この話は重治が龍興から受けた恥辱を返すのが目的だったと云われており、半年後には稲葉山は返還されたと云われている。この辺りの詳細には謎が多いが、本作とは直接関係ないんで割愛させて頂く。
 いずれにせよ稲葉山城を出た重治は二一歳の若さにもかかわらず隠遁生活に等しい日々を送った。

 永禄一〇(1567)年信長の侵攻により斎藤龍興が稲葉山城を追われると重治は一時北近江の浅井長政の客分として仕えたが、約一年で辞して旧領の岩手へと帰り、再度隠棲した。
 その後、重治を見込んだ信長が木下藤吉郎にその登用を命じ、『三国志演義』の劉備が諸葛亮の草廬を三度訪れて家臣に迎えた逸話の如く、藤吉郎は「三顧の礼」を尽くして重治を迎えた。
 このとき重治は秀吉の天性の才能を見抜き、信長に直接仕えることは拒絶したが、秀吉の家臣となることを了承したとされる(この辺りも話が出来過ぎていて、完全否定も出来ないが実態には謎が多い)。

 翌永禄一一(1568)年、信長は足利義昭を奉じて上洛し、義昭を第一五代征夷大将軍に就けたが、やがて義昭と仲違いし、義昭は諸国の大名に信長追討を命じ、所謂、「信長包囲網」を形成し、信長は妹婿の浅井長政とも敵対した。
 そんな中、重治は浅井家臣団との人脈を利用して、主に調略活動で活躍。元亀元(1570)年に浅井方の長亭軒城や長比城を調略によって織田方に寝返らせ、後の姉川の戦いにも安藤守就の部隊にて従軍した。そしてそれに前後して正式に秀吉の与力となったと伝わっている。

 浅井家滅亡後、木下藤吉郎改め羽柴秀吉が城持ち大名となると、やがて中国攻めの総大将に任じられ、重治もこれに従った。天正六(1578)年には宇喜多氏の調略に成功し、この報告の為京都に赴いた際に信長にも賞賛され、播磨へと帰陣した。
 だが同年、有岡城城主の荒木村重が信長に反旗を翻し、その説得に向かった同僚の黒田官兵衛が城内で捕縛・監禁された。しかも官兵衛の安否は全くの不明で、信長は官兵衛が裏切ったと思い込み、人質だった官兵衛の嫡男・松寿丸を斬れと秀吉に命じたが、重治は信長の首実検に際し、秀吉に偽の首を提出させることで松寿丸の命を助け、松寿丸は自身の領地に引き取り、家臣の不破矢足の屋敷に匿った。
 だが、翌天正七(1579)年四月、播磨三木城の包囲中に病に倒れ、まだまだこれからという若さだったが、陣中にて六月二二日に死去した。竹中半兵衛重治享年三六歳。官兵衛の救出はその四ヶ月後のことだった………。

 重治の後を継いだのは天正元(1573)年生まれで、七歳の嫡男・重門だった。
 勿論父と同様に働ける年齢ではない。従叔父(父の従弟)・竹中重利の後見を受けて、秀吉に仕え、長じて小牧・長久手の戦い小田原征伐等に従軍した。
父の縁もあってか、天正一六(1588)年に一六歳で従五位下丹後守に叙され、翌天正一七(1589)年に美濃不破郡に五〇〇〇石を授けられた。文禄の役では名護屋城駐屯役、慶長の役では軍目付を担い、戦後、戦功によって河内に一〇〇〇石を加増された。

 慶長五(1600)年、関ヶ原の戦いでは、当初西軍に属して犬山城主・石川貞清を援助したが、黒田長政・井伊直政の仲介によって東軍に鞍替え。居城・菩提山城を徳川家康に提供し、本戦にも長政軍に合力して激戦地で奮戦した。
 周知の通り戦は東軍の大勝利にて一日で終結し、翌日家康は近江に向けて出発するに際して、重門に米一〇〇〇石を与えて、戦場となった領地の民に迷惑を及ぼしたことを謝するとともに、戦場の死体を収拾して首塚を造ることや、損害を受けた社寺の修復を命じた。
 その後重門は東軍主力に同行せず、同地に留まり、伊吹山中に逃亡していた小西行長を捕縛し、近江草津に進軍していた家康の元に送り届かるという手柄を立てた。

 戦後、竹中家は幕府旗本(交替寄合席)として美濃岩出山を安堵され代々継承。竹中氏陣屋に拠点を移し、二条城の普請や大坂の陣にも参加したが、寛永八(1631)年に江戸にて死去した。竹中重門享年五九歳。



施恩 殆んど上述しているに等しいな(苦笑)
 改めて解説すると、黒田家は元々播磨地方の一豪族の分家に過ぎなかった。結果として仕えた羽柴秀吉が日本史上稀な大出世を遂げ、その後の徳川政権への移行期にも徳川家と上手く付き合ったため、西国の雄藩大名として幕末までその名を残せたが、そこに至るまでの道は決して平坦ではなく、少し運が悪ければ黒田官兵衛も長政もどこで命を落としていても全くおかしくなかった。

 その中でも父子で最大の危機を迎えたのが上述している摂津有岡城を巡る事件だった。
 有岡城の城主・荒木村重は、一度は織田信長への降伏に応じたが、結局はそれを反故にして毛利についた。約束履行を求めて直談判すべく有岡城に向かった官兵衛だったが、村重は応じず、逆に捕らえられて一年以上も土牢に監禁された。
 そしてこの事実は織田方に知らされなかった為、信長は官兵衛が裏切ったと取り沙汰し、秀吉に人質だった松寿丸 (=長政)の殺害を命じた。

 だが、この黒田家最大の危機を救ったのが竹中重治だった。
 重治松寿丸を女装させて匿い、信長には偽首を届けて彼を殺したと虚偽の報告をしたのだが、云うまでもなくこれは極めて危険な賭けだった。この時点で官兵衛の安否も所在も全く不明で、村重に殺されている可能性もあれば、逆に説得されて村重についていた可能性だってゼロではなかった。
 何より、主命に従わず、斬ったとの虚偽を報告したのだから、松寿丸が生きていることが発覚すれば、改めて松寿丸を殺さなければならなくなるのであれば良い方で、重治が殺される可能性や、秀吉が大幅な格下げを食らう可能性だってあった。
 結果的に官兵衛が生きて救い出され、無実の官兵衛を疑って松寿丸殺害を命じたことを信長が悔やむ隙をついて全貌を明かしたことで、信長の方が謝罪し、虚偽は不問に付され、松寿丸の人質としての任も解かれたが、本当に官兵衛が裏切っていたり、裏切らずとも死んでいたりした場合は、松寿丸を匿ったことに対して、「儂の命令に逆らったのは許さん!」の一言で松寿丸が殺され、羽柴家中が軒並み罰せられていてもおかしくなかった。

 ともあれ、重治の機転で長政の命が救われたことに間違いは無かった。土牢に閉じ込められていた官兵衛は息子の命が危なかったことを解放された後に知り、即座に重治に謝意を述べんとしたが、このとき既に重治はこの世の人ではなかった……………。
 常に冷静な官兵衛が、息子の命をそれこそ命懸けで守ってくれたことへの感謝と、それが返せないままに逝かれてしまった申し訳なさに号泣し、松寿丸もまた生涯この恩義を重んじたのは云うまでもない。



報恩 何せ竹中重治の、主君をも欺く尽力がなければ松寿丸の命は無かった。もし信長の命令通りに松寿丸が殺されていれば、救出後の黒田官兵衛も織田家を見限るか、仕官し続けるにしてもかなり複雑な思いを抱えなければならなかったことだろう。
 当然、官兵衛・長政重治に深く感謝し、重治亡き後も竹中家には何としても報いたいとの想いを抱いていた。

 期せずしてその機会が訪れた。関ヶ原の戦いである。
 関ヶ原の戦いは上述した様に、豊臣恩顧大名や西軍諸将が家康に味方するように奔走した長政の活躍で東軍大勝利に終わり、周知の通り、東軍諸将は(土壇場での露骨な裏切り者を除いて)厚く賞され、逆に西軍諸将への懲罰は苛斂誅求を極めた。
 石田三成・小西行長・安国寺恵瓊が斬首、五大老の一人で副将格だった宇喜多秀家が八丈島への島流し(←一度は死罪を宣告されていた)、同じく五大老の一人で総大将だった毛利輝元と戦の発端となった上杉景勝は石高を四分の一にされる大減封を食らい、他に三家が減封、一〇〇近い中大名・小大名が改易となった。

 勿論、西軍に付いた諸大名も指を咥えて懲罰を待っていた訳ではなく、ある者は謝罪に努め、ある者は徳川方の有力者に仲介を求め、ある者は徹底抗戦の構えを見せ、またはそれらを併用して生き残りを図った。
 当然、西軍から東軍への内応工作に尽力した長政を頼った者は前後に多く、犬山城主として当初西軍に付いていた竹中重門もまた本戦直前で長政の説得に応じ、関ヶ原では黒田方として戦っていた。
 だが、「敵を裏切ってくれること」は嬉しくても「裏切者を仕えさせる」ということは嬉しくないのが世の常である。降伏したり、寝返ったりした者の中には褒賞どころか懲罰を受けた者も少なくなかった。

 毛利輝元にしてから、本戦後に本領安堵の約束が家康と吉川広家の間に成立しているとの説得に応じて大坂城西の丸を明け渡したのに反故にされて大減封を食らい、本戦終盤で裏切った者達も、小早川秀秋は大幅な加増を受けたが、秀秋につられる様に裏切りに加担した赤座直保・小川祐忠は改易を免れなかった。
 これらは一例で、本戦直前、本戦中、本戦直後、と様々なタイミングがあったが、懲罰を免れた条件は必ずしも一定していない。逆に言葉で謝罪し、国元では抵抗準備を進めていた島津義弘は、薩摩に精強な兵が残されていたことや遠隔地であったことが幸いして、例外的に本領安堵を認められた。
 ただその中にあって、重門の降伏は微妙だった。

 西軍に付いた諸大名、特に中小勢力が軒並み改易されたのも、徳川家譜代家臣と東軍諸将に報いる必要から、広大な領土を没収する必要があったからに他ならない。
 かと云って、杓子定規に「逆らった。」、「今更降伏しても遅い。」の一言で苛斂誅求を課そうにも、島津・前田・毛利・佐竹・上杉・長宗我部といった中堅以上の勢力が土壇場で抵抗し出すと厄介である(実際島津家が本領安堵を勝ち取れたのも、討伐が困難と見られたことも大きい)。
 となると、犠牲になったのは抵抗したところで大して怖くもない有象無象の中小大名に集中した。そうなると、戦場近くの交通の要衝を領有していた竹中家は格好のターゲットとも云えた。

 まあ、回りくどいことを云ったが、関ヶ原の戦い後の論功行賞で竹中家が懲罰対象となるのを阻止したのが黒田長政だった。
 実際のところ、降伏自体は早期だったことや(勿論長政がそう取り計らったのだが)、決戦直後の家康の重門への迷惑料支払いなどを見れば、重門が助かった可能性は大きかったと思われるが、だからと云って、降伏が遅ければどうなっていたか分かったものでは無い。
 ともあれ、上述したが、黒田官兵衛・長政父子は幼き頃の長政の命が救われたことを竹中重治に対して、隠匿に尽力してくれた竹中家に対して大きな恩を感じていた………と云うか、恩を感じてなきゃ人間じゃないな(苦笑)
 父子とも解放直後に即座に重治への御礼言上を行いたいところだったが、そのとき既に重治は夭折していた。文字通りの命の恩人がろくに礼も云えない内にいなくなっていたことに官兵衛も長政も感謝と申し訳なさの双方が大きく混在する中、例えようのない遣り切れなさに囚われていたことだったろう。

 勿論、長政重門に東軍への参入を取り成したのも、戦後の論功行賞に便宜を図ったのも旧恩に報いんとしたものであったのは誰の目にも明らかだったことだろう。
 重治に対する長政の恩とその報いは、簡単に云えば「裏切りへの誤解から殺されるところを匿われ、助けられたので、後年その家が危ないところを助けた。」と云う報恩として物凄く分かり易い話である。
 「情けは人の為ならず。」をこれほど端的に示している実例も珍しいのではないだろうか?

 過去作で何度か述べているが、うちの道場主は黒田官兵衛を「最も敵に回したくない男」としている。本能寺の変と云う主君の不幸や関ヶ原の戦いと云う天下分け目の戦いを冷厳な目で注視してこれを巧みに利用せんとするばかりでなく、自分の死期を悟るや家臣に口喧しく当たり散らして、自分の死後に家臣達が喜んで長政に仕えるように仕向けた風に、自分の死さえ利用し尽くす策士振りは本当に恐ろしい男だと思っている。
 だが、道場主は決して官兵衛が嫌いではない。必要と感じたことに対する冷徹振りが恐ろしくて敵に回したくないだけで、一個人としては感情豊かで恩義にも節義にも熱い人物だと思っているからむしろ好きな方である。
 救出直後に松寿丸が危なかったことと、それを救ってくれた重治がこの世にいないことに号泣した一コマは、悲しいシーンではあるが好きなシーンでもある。
 そして、冷厳極まりない男とその息子が恩義をしっかり重んじていたことに微笑ましさを感じるのである。

 余談だが、重門没後の竹中家は、六〇〇〇石の知行を孫の竹中重高が相続し交代寄合となる際、弟の重之に一〇〇〇石を分知されて存続し、重門の庶子・重次は福岡藩黒田家に重臣として仕えた。竹中家と黒田家の深い縁が反映されたものであることは云うまでも無かろう。


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令和四(2022)年一一月一八日 最終更新