第壱頁 豊島明重事件 裏に潜んだ将軍乳母

事件名豊島明重事件
勃発年月日寛永五(1628)年八月一〇日
下手人豊島明重(別名・信満)
被害者井上正就・青木義精
被害殺害
時の将軍徳川家光
下手人への裁定本人はその場で自害。嫡子が切腹


事件概要 旗本・豊島明重(とよしまあきしげ)が、老中・井上正就(いのうえまさなり)を殺害した事件である。
 寛永五(1628)年八月一〇日、江戸城に登城した豊島は、西の丸廊下にて井上に、「武士に二言はない!」と叫ぶと脇差を抜いて斬り掛かり、斬られた井上は絶命した。
 これを見た番士の青木義精(←名前の読み方わかる方、教えて下さい(苦笑))が羽交い絞めにして止めんとしたが、豊島は脇差を自らの腹に突き立て、刃は豊島の体を貫き、背後にいた青木の命も奪ってしまったのだった。

 結局、僅かな時間の間に井上正就豊島明重青木義精三名の命が失われたのだった…………。


事件背景 豊島明重井上正就に害意を抱いたのは、武士の、性格には仲人としての面子を潰されたことに対する遺恨だった。
 旗本である豊島井上の嫡子・正利と大坂町奉行・島田直時の娘の縁談を進めていたのだが、井上は春日局から別の縁談を勧められ、島田家との話を帳消しにしてしまったのだった。豊島はこれを酷く恨み、井上を殺害するに至ったのだった。


断罪と余波 時の将軍は三代将軍徳川家光。一方で、先代である二代徳川秀忠は大御所として健在だった。家光にとって初の難題だったが、理由はどうあれ、豊島明重の重罪は明白だった。
 だが、豊島はその場で命を落としており、問題は重罪に対する一族の連座と、事件の要因となった関係者への処遇だった。
 まず、豊島の罪は一族の連座が免れぬほど重罪だった。結果を先に書けば嫡子・吉継だけが切腹となった。他の一族に咎めが無かったのは、井上正就と同じ老中の一人だった酒井忠勝が「遺恨を果たしてとは天晴れ。」と捉えたことで寛大な処分とされたことにあった。
 つまり、豊島の刃傷は「恥を雪いだ。」と云うことがほんの少しは認められた訳で、別の云い方をすれば、井上豊島の面子を潰したことはかなりの批難に相当したのだろう。そうでなければ同じ老中である酒井が暴挙を限定的とはいえ、「天晴」とするとは考え難い。下手をすれば、理由があれば老中を斬ることに一定の同情が有ることを他ならぬ老中が認めることになるのだから。

 結局、法的には豊島の蛮行が断罪されたものの、原因となった井上の言動が多少は考慮され、厳罰に歯止め掛って終わったと云うことになる。ここで少し疑問なのが、縁談を反故にした井上の在り様である。
 現代に当てはめてみると、これが大企業の、背景に大掛かりな商談・契約・協力体制のある企業の、御曹司と御令嬢の縁談に置き換えると、反故にされた仲人が怒り心頭になるのは良く分かるが、「何も殺さなくても………。」となるだろう。ただ、縁談でも商談でも御破算になる例が無い訳ではない。それゆえ、「断り方」は大事だ。
 井上の立場や、当時の幕府の在り様を見れば、井上豊島の仲介を蹴って春日局からの縁談を重んじたことに理解を持てないでもない。春日局は将軍徳川家光から母以上に慕われている人物で、その発言力は大奥内に留まらない。彼女に気に入られるか、その機嫌を損ねるか、が自身や御家の出世に大きく影響するのは誰の目にも明らかである。

 それゆえ、その辺りの事情を詳細に話して、誠意を込めて謝罪すれば、或いはこの刃傷沙汰は無かったのかもしれない。勿論、そんな過程を経て尚、豊島の怒りが収まらなかった可能性も考えられる。ただ、「仲人としての面子が潰されたこと」がかなり周囲から同情されたことを鑑みると、縁談破約がかなり性急で強引なものだったか、井上が誠意ある謝罪を行わなかったか、またはその双方が考えられる。
 この大事件に関して、春日局がどう考えていたか、その言動は記録に残っていない。それゆえに謎が深いのだが、確かな史実として、事件後に豊島から自分の娘と井上の息子との縁談を仲介されていた島田直時が自責の念にかられ、切腹している…………。
 それこそ、「何も死ななくても…………。」と云いたくなる犠牲である。


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令和五(2023)年四月二七日 最終更新