第弐頁 稲葉正休事件 下手人滅多切りに、御老公ブチ切れ

事件名稲葉正休事件
勃発年月日貞享元(1684)年八月二八日
下手人稲葉正休
被害者堀田正俊
被害殺害
時の将軍徳川綱吉
下手人への裁定無し(下手人がその場で斬り殺されたため)


事件概要 貞享元(1684)年八月二日、大老だった堀田正俊が、従叔父で、若年寄でもあった美濃青野藩主・稲葉正休に江戸城内の御用部屋入り口にて刺殺された。
 刺された正俊はその場での即死こそ免れ、医師の手当てを受けた後に自邸に運ばれたものの、結局は助からなかった。一方の正休だが、正俊に同席していた老中の大久保忠朝、阿部正武、戸田忠昌の三人によって斬り殺された。

 四〇年程前、小学館の漫画『日本の歴史』第13巻で、この事件を読んだとき、正休正俊を刺した直後に居合わせた一人の武士の「何をするか!」の一言で刺殺されたシーンを読んだ。  長じて大学時代、大学の図書館で正俊を刺殺した正休が自身もその場で斬り殺されたとの記述を読み、事件は前掲書通りの展開を辿ったと見ていた。
 だが、更に詳細に調べると、このとき、正俊を刺した正休は刀を置いて神妙に無抵抗を示したが、江戸城内での刃傷と云う一大事に三老中はすっかり気が動転し、無抵抗状態の正休を滅多斬りにしてしまったというのが実態であることを知った。
 勿論正休はその場で落命。後にその有様を耳にした水戸藩主・徳川光圀は大激怒。神妙にしている相手に有無を云わさず斬り殺した暴挙と、それによって事件の真相が完全に闇の閉ざされたことを詰ったものだった。

 ただ、三老中の名誉の為に付記しておくと、三名は「善人の良将」と云われた者達で、その後長年に渡って綱吉治世を大過なく納めるのに尽力して天寿を全うしている。
 恐らくは、余りに想定外の出来事に周章狼狽し、神妙にしているとはいえ人を殺した直後の相手に冷静にいられず、手加減が出来なかったのだろう。勿論好ましいことではないし、現代の警察官が凶悪犯相手といえども武器を捨てて無抵抗を示しているのに発砲すれば物凄い非難が浴びせられることを思えば、光圀が雷を落としたのももっともと云える。


事件背景 堀田正俊稲葉正休は身内である。そしてその血縁には春日局と云う女性の存在が重きをなしていた。
 云うまでもなく春日局は第三代将軍徳川家光の乳母を務めた女性で、彼女が乳母に就任すると同時に竹千代(家光)の小姓に選ばれた中に、正休の伯父・稲葉正勝と、正俊の父・堀田正盛がいた。
 この両名、厳密には春日局と血は繋がっていない。
正休の父・正吉は春日局の夫・稲葉正成の十男で、後妻の子なので血は繋がらないが、正勝にとって正休は実の甥である。
 また、堀田正盛は父・正吉と稲葉正成の娘の間の子であった。母は春日局にとって夫と先妻の子で、厳密には実の娘ではないが、育てたことに間違いはなく、正盛はその縁で春日局の養子・及び家光小姓となっており、正俊は孫も同然だった。 つまり正休正俊にとっていとこおじにあたる人物だった。
 いずれにせよ、両名とも稲葉正成の血を受け継ぐ、れっきとした身内で、春日局の後ろ盾で出世したと云っても過言ではなかった。

 殊に正俊の父・正盛は家光と春日局に気に入られ、正盛は老中にまで出世し、家光薨去の折には禁じられていたにもかかわらず家光に殉じて追い腹を切った。堀田家の後は嫡男が継いだが、三男・正俊もまた春日局に気に入られ、妻は春日局の曾孫だった。
 四代将軍・家綱に徹底的に忠実に使えた正俊は、家綱が子を成すことなく逝去した折、大老の酒井忠清が朝廷から宮将軍を迎えんとしたことに断固として反対し、家綱の末弟・綱吉を五代将軍として水戸光圀と共に推し、これを実現させた。
 このことから綱吉も正俊に深く感謝し、将軍に就任すると即座に酒井を大老から免じ、正俊を後任に任じた程だった。勿論異例の大抜擢である。
 そんな正俊故に、その権勢を恐れる者も多かったが、妬む者も多かった。そして後に綱吉が生類憐みの令を発布するに及んで、正俊はこれに反対し、次第に綱吉に疎んじられるようになった矢先にこの事件は勃発した。

 上述した様に、下手人である正休自身がその場で弁解も釈明も云い訳も行えないまま斬り殺されたので、何故正休正俊を刺殺したかの真相は不明である。
 一般に前年に淀川の治水工事から外されたことを恨んでのこととされている(現地を視察した正休が工事に必要な経費を四万両としたのを、同行した豪商・河村瑞賢が「二万両で足りる。」と正俊に言上したのが原因らしい)が、この事件により稲葉家は改易となったのだから、仕事一つ失ったからと云って殺意を芽生えさせるのも、改易と引き換えに殺人を犯すのも、解せない話ではある。
 ただ、正休は確実に正俊を殺す気でいたようで、事前の準備―得物となる刀の選定には万全を期しており、前頁の豊島明重正休が「本懐を遂げたことは見事」と囁かれたのに対し、次頁の浅野長矩は吉良義央を打ち漏らしたことも非難材料とされた。
 詳しく調べた訳ではないが、事の是非はどうあれ、一旦刀を抜いた以上は確実に相手を討ち果たすべきであることが重んじられたのも、武士の世界における一つのけじめだったと思われる。

 結局、「死人に口なし」状態となったので、様々な憶測が囁かれ、中には、将軍権威高揚の為に将軍就任への恩義から頭が上がらない正俊を疎んじた綱吉の差し金を疑うものまであった。
 TBSドラマ『水戸黄門』の第29部では、堀田正俊暗殺の報を受けた綱吉(堤大二郎)は、「これで残る邪魔者は一人だけ。」と呟いていた。明言されてはいなかったが、この後、綱吉は水戸光圀を隠居に追い込むことで、自分を擁立してくれた恩から頭の上がり辛かった者達の呪縛から解放されたこととなっていた。


断罪と余波 上述したが、堀田正俊が殺され、その下手人である稲葉正休がその場で斬り殺されたことで、裁きとして下ったのは稲葉家青野藩の改易だった。
 ただ、生前の綱吉による寵愛が相当妬まれたものか、正俊は相当嫌われており、江戸城内には正休に同情する声が少なくなかった。勿論やったことは例え正休がその場で斬られなかったとしても、良くて切腹、悪けりゃ打ち首物の重罪だったので、同情論も開けっ広げに人口に膾炙したものではなかっただろう。

 一応、公式な記録としては正休正俊への刃傷は狂気によるものとされ、正休の死と青野藩の改易で加害者側への処分が終わり、被害者側である正俊の家督は長子・正仲への相続が許されたことで事件は終わった。
 ただ、事件の余波として、将軍と幕臣の距離感は激変した。
 事件が将軍と近い距離で起きたこともあって、老中・若年寄の幕閣が政務を行う場は、将軍の応接所であった中奥御座之間から表と中奥の間に新たに設けられた御用部屋に移動させられた。
 一応は将軍の安全を守る為の措置だったとされるが、これにより将軍と幕閣の距離は拡大し、御座之間と御用部屋間を取り持った側用人―牧野成貞や柳沢吉保といった者達が徐々に権力を持つようになっていった。


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令和五(2023)年四月二七日 最終更新