第肆頁 水野忠恒事件 いつの時代も厄介な心身問題

事件名水野忠恒事件
勃発年月日享保一〇(1725)年七月二八日
下手人水野忠恒
被害者毛利師就
被害軽傷
時の将軍徳川吉宗
下手人への裁定蟄居・謹慎


事件概要 享保一〇年(1725年)七月二八日、松本藩主水野忠恒は江戸城に登城して一週間前の婚儀を報告した。その帰りに、松之廊下で長門長府藩世子・毛利師就(もろなり)とすれ違った忠恒は突如師就に小刀で斬り掛かった。
 これに対して師就は刀を抜かずに鞘のままで応戦し、忠恒の刀を打ち落とした(←見事である)。直後、近くにいた大垣新田藩主戸田氏房が忠恒を取り押さえた。
 応戦と戸田の阻止により右手・左耳・のどを負傷したものの軽傷で済んだ師就だったが、さすがにいきなり斬り付けられたとあっては怒り心頭とならずにはおれずなかった。怒りから反撃に転ぜんとした師就だったが、幸い目付・長田元鄰が押し留めたことでそれ以上の事件拡大は防がれたのだった。


事件背景 水野忠恒は江戸幕府始祖・徳川家康の生母の実家である水野家の末裔だった。四代藩主であった父の忠周(ただちか)の次男として生まれたため、家督は兄の忠幹(ただもと)が継ぐこととなっており、後継者の自覚の無さか、かなり奔放に育った。
 幼少の頃から弓や鉄砲をいたずらに乱射するなどの奇行が多かったと云うから、現在のアメリカに生まれたら、銃乱射事件を起こすタイプと見做されただろう。
 そんな忠恒だったが、五代藩主となっていた、政務にも人望にも優れていた忠幹が子を成さずして早世したため、期せずして第六代藩主となった訳だが、当然人間性がいきなり変わることも無かった。

 藩主になってからも、狩猟に耽り、政務は家臣任せ。丸投げで何も介入しないなら無難だったかも知れないが、短気で粗暴なため、亡兄との比較もあって家臣達の人望も無かった。そのことは忠恒にも自覚はあったようで、いつしか忠恒は不行跡と人望の無さから自分の領地が取り上げられ、毛利師就に与えられると思い込むようになったが、勿論幕府にそんな予定はなかった。
 この、忠恒師就に斬り掛かった理由は、事後の取り調べで分かったことなので、忠恒が自らの不行跡への自覚と懸念から罰を受けると思い込んだのは分からないでもないが、「領地召し上げ」・「それが師就に与えられる」とのピンポイントな思い込みに囚われたのは謎である(そんな噂を信じたとの説もある)。

 ともあれ、師就は謂わば、全くの被害妄想と思い込みから刃傷に曝された訳であった。訳が分からなかっただろうし、事件当時二〇歳の若者としては納得いかないどころではなく、鞘から刀を抜かずに応戦したのはかなり立派だったと云えよう。


断罪と余波 刃傷事件としてはかなり軽微且つ穏便に済んだ方である。
 結論を先に書けば、水野忠恒は蟄居、松本藩は改易となった。当たり前だが、毛利師就は正当防衛として御咎め無しとなった(薩摩守が将軍なら冷静対応を賞したいところである)。
 普通なら、忠恒は切腹を免れないところだったが、それまでの奇行や、余りにも激し過ぎる思い込みを動機とした刃傷ゆえ、有り体に云えば「きち(ピー!)」扱いされた。個人的には心身衰耗を理由に刑罰が軽減されることにも、その鑑定眼にも大いに異を唱えたいところではあるが、忠恒は死罪を免れた。

 推測するに、この裁定には、「忠恒の証言がぶっ飛びすぎていて、そういう人物を厳罰に処すと世間が煩い。」、「被害者である毛利師就が軽傷で済んだ。」、「忠恒が水野一族である。」といったところが大きく影響したと思われる。
 上述した様に、水野家は徳川家康の生母・於大の方の実家で、家康が天下を取るまでは干戈を交えたこともあったが、江戸時代においては徳川御三家、その支族である松平家に次ぐ身内とされ、それなりに優遇された。

 徳川吉宗を初めとする幕閣がこの事件についてどのように話し合ったかは、薩摩守の研究不足で詳らかではないが、結果として、忠恒は「乱心者」として川越藩に預けられ、その後その身柄を叔父である水野忠穀(ただよし)の江戸浜町の屋敷に預けられ、事件から一四年後に同所にて享年三九歳で没した。蟄居中、医師をつけられていたので、病人として遇されていたことが分かる。
 同時に改易された松本藩は、かつての藩主であった戸田松平家が藩主となり、水野家自体は「勲旧の世家、全く廃すべからず」とされたことで断絶だけは免れ、忠穀は信濃佐久郡において七〇〇〇石、また忠穀の兄・忠照に二〇〇〇石を与えて存続が許された。
 そして忠穀の没後、後を継いだ忠友の代に、田沼意次によって三河大浜藩主、その後駿河沼田藩主として返り咲いた。


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令和五(2023)年五月一日 最終更新