第伍頁 板倉勝該事件 人違いで殺され、危うく改易?

事件名板倉勝該事件
勃発年月日延享四(1747)年八月一五日
下手人板倉勝該(いたくらかつかね)
被害者細川宗孝
被害殺害
時の将軍徳川家重
下手人への裁定切腹


事件概略 延享四(1747)年八月一五日、旗本板倉勝該(いたくらかつかね)が江戸城大広間脇の厠付近にて、月例拝賀の為に登城していた第五代熊本藩主・細川宗孝(むねたか)に背後から斬り付けた。

 斬られた宗孝は程なく絶命。下手人である勝該は岡崎藩主水野忠辰にその身柄を預けられた。


事件背景 事件の要因となったのは、下手人である板倉勝該と、その身内にして、本家筋である遠江相良藩主・板倉勝清との確執にあり、被害者である細川宗孝人違いでいきなり斬り殺されると云うとんだとばっちりで落命した(一応、本当に宗孝を恨んでいて、殺害した説もある。詳細後述)。
 板倉家は、有名な初代京都所司代・板倉勝重を祖とする家系で、藩主の次男の更に次男に生まれた勝該に大名となれる可能性は低かったが、それでも有力一族の一員として六〇〇〇石の領地を持つ立派な士分だった。
 ただ、この勝該、前頁の水野忠恒同様、情緒不安定で常日頃から言動が危なく、勝清は、「勝該が何かやらかさないうちに、儂の息子を養子に入れて跡を継がせたほうがいいんじゃないか……。」と考えていた。

 これを知った勝該は自分の言動を棚に上げて激昂し、あっさり勝清に殺意を抱くに至った。勿論この危ない性格・言動が危惧されていたことを勝該が気付くことはなく、直情的に行動に出た勝該は月例拝賀の日に勝清を斬ることを決意した。

 ここからが些か不可解なのだが、結局、勝該は勝清を斬ろうとして、細川宗孝を斬ってしまったのである。
 身内の顔を見間違えるなんてどうもぴんと来ないのだが、推測するに、勝該の襲撃は背後から斬り掛かると云う卑怯なもので、当然相手の顔は見えない。相手の顔が見えると云うことは、相手からもこちらが見えると云うことなので、不意を突くために勝該が標的を勝清であると見定めた目印は、家紋にあった。

 家紋の中には、菊の紋(皇室)や三つ葉葵(徳川将軍家)を別格にすれば、同じ家紋を複数の大名が用いていたり、差別化を図る為に僅かにデザインを変えたり、といったことが多かった。
 宗孝にとって不運なことに、細川家と板倉家の家紋はともに「九曜」と呼ばれるものだった。全く同じだった訳ではなく、細川家は「九曜星」というもので、板倉家は「九曜巴」というものだったのだが、思うに、勝該の襲撃はかなり直情的なもので、九曜巴を見て、ろくに九曜星との相違も確認せず、「勝清だ!殺ってやる!」的に斬り掛かったのだろう。


九曜星(細川家)九曜巴(板倉家)
間違えるか?普通…………(by薩摩守)


 斬られることを全く予想だにしていなかった宗孝はほぼ即死だったとされている………。

 一応、異説として、勝該は本当に宗孝に恨みを持っていて、これを殺害したとの説もある。
 『醇堂叢稿』なる書物によると、勝該の屋敷は白金台町(現・東京都港区白金台)にあり、そこは熊本藩下屋敷北側の崖下に位置し、大雨が降る度に細川家下屋敷からの汚水が板倉屋敷に流れ込み、勝該は細川家にその対策を要請していたが、無視され続けたことを恨んだと云うものである。

 家紋を識別手段にしたためとはいえ、勝該が身内と他人を間違えたというのも不可解だが、住宅問題程度の恨みで旗本が大名に斬り掛かると云うのも不可解である。
 ただ、勝該の言動や思考がかなりぶっ飛んでいたのは間違いなさそうである。


断罪と余波 これまでの殿中事件でも触れた様に、江戸城内、所謂、殿中では鯉口三寸斬るだけで重罪である。しかも、完全に抜刀した上、旗本が大名を惨殺したのである。
 その場で捕らえられた板倉勝該は八日後に切腹に処された。動機や罪状や無関係な人間を巻き込んだ酷さから、打ち首にならなかっただけまだましだったと云えよう。
 一方、本来なら勝該が殺害する予定だった板倉勝清は完全に事件と無関係とされ、その後も寺社奉行や側用人などの要職を務め、老中にまで登りつめて天寿を全うした。譜代の名家である板倉家への恩情なのか、勝該のぶっ飛び振りに重点が置かれたためか、板倉家にして見れば危ない身内が勝手に自滅してくれた形になった。

 一方で、本当に大変な思いをしたのは巻き添えを食った細川家だった。
 殺害された宗孝はこのとき三一歳で、藩主となって十数年が経過していたが、まだ世継ぎを儲けていなかった。突然の事態に細川家中は顔面蒼白となった。
 結果的に宗孝の死に宗孝自身の非があげつらわれることは無かったが、事件直後の段階では「喧嘩両成敗」の裁定が下る可能性も考えられた。もし宗孝が「喧嘩」したと見做され、しかも世継ぎがいない、とあっては、無嗣改易となる可能性は極めて高く、多くの藩士が路頭に迷う危機に直面した。

 このとき、細川家存続へ意外な人物が助け舟を出してくれた。外様大名の伊達宗村である。宗村は惨殺された宗孝を、「まだ生きてる!」として、細川家の家臣達に「これはとんだご災難、早く手当てをせねば命が危うい。さぁさぁ、細川の衆、早く主をお連れせよ。」と、さも宗孝がまだ生きているかのように振舞う宗村の意を悟った細川家中は我に返った。
 彼等は即座に「重傷の宗孝」を屋敷に連れ帰り、表向きは「江戸城内で殺人未遂事件が起き、宗孝は後日亡くなった。」と装い、息を引き取るまでの間に宗孝の弟・重賢(しげかた)を養子とする、末期養子制度を利用した家督継承に成功した。

 これも推測だが、恐らく幕閣では宗孝が養子を定める前に息を引き取ったのを承知の上で、突然の災難に見舞われた細川家に同情し、「息を引き取る前に養子を定めた。」との芝居を黙認したのだろう。
 江戸幕府成立初期は、小早川秀秋、松平忠吉(家康四男)、平岩親吉(徳川家譜代)といった大身や一族・譜代でさえ嗣子なき状態では容赦なく改易に処された。それによって大量に発生した浪人達による幕府転覆計画が由比正雪の乱だったが、何とかこれを未遂に押さえた幕府ではそれまでの容赦ない改易処分連発を少し控えめにした。
 その一つが、無嗣改易を回避する末期養子制度だった。つまり藩主が世継ぎを儲けていない状態で臨終となった際に、短期間での養子手続きを認めるもので、改易による浪人大量発生を回避するために有効な手段となった。

 時代がだいぶ異なるが、安政七(1860)年三月三日に、大老井伊直弼が殺害された、所謂、桜田門外の変に際し、直弼はその場で殺害されたのだが、井伊家では「重傷を負ったが、その場では何とか一命を取り留めた。」と装い、一週間後に次男への家督移譲が申し出された。
 かくして公式には、直弼は三月三〇日にその死を公表され、井伊家の菩提寺である豪徳寺にある直弼の墓碑には三月二八日が命日として刻まれている。井伊家の人間と接触したことは無いが、恐らく今でも井伊家では直弼の命日を三日ではなく、二八日としていると思われる。

 まあ、頭の固い幕閣も少しは融通が利くようになっていたか、さすがにこの事件で細川家を改易にするのは酷過ぎるとの想いが働くようになっていたか、或いはその双方だったと思われる。
 余談だが、急遽宗孝の後を継いだ重賢は、「細川家中興の祖」と呼ばれる名君となった。




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令和五(2023)年五月五日 最終更新