第壱頁 後白河上皇 平治の乱………女装で屋外脱出

脱出者後白河上皇・二条天皇
包囲者源義朝・藤原信頼
事件平治の乱
手引者藤原惟方、藤原経宗
脱出手段女装
影響大義名分の移動
事件と重囲 平治元(1159)年、源義朝藤原信頼とともに打倒信西(藤原通憲)・平清盛を目指して挙兵した(平治の乱)。
 義朝は三年前の保元の乱で平清盛と共に後白河天皇(当時)方について勝利に貢献した。しかし、後白河天皇の側近・信西は日頃から懇意にしていた清盛を露骨に贔屓し、戦時には清盛に先陣を命じ、戦後の論功行賞でも戦働き的にも完全に義朝の方が清盛よりも貢献度が上だったのに、清盛の方が厚賞に預かった。
 この露骨な平家贔屓及び酷刑の執行命令(薬子の乱以来三〇〇年近く行われなかった死刑を復活させ、しかも身内の手で首を打たせた)から信西を憎む者も多く、同年一二月九日に清盛が熊野詣に出た隙を狙って義朝は挙兵したのだった。

 戦に勝つ為には様々な要因が必要となるが、まだまだ武士の身分が低かった平安末期において何より大切なのは大義名分、錦の御旗を得ることだった。つまり「朝敵」にならないことで、保元の乱においては崇徳上皇側も後白河天皇側も各々が推戴する皇族を正統とした。
 それゆえ、乱に敗れた側は「謀反人」とされ、酷刑の憂き目を見た。その点、そのことを重視し、清盛の隙を突いて挙兵した平治の乱当初の義朝の動きは素早かった。

 挙兵当日の一二月九日夜、院御所三条殿を襲撃した義朝後白河上皇(←天皇親政を盾に保元の乱で兄・崇徳上皇と戦ったくせに、たった三年で退位して院政を敷いた)とその同母姉・上西門院の身柄を確保し、三条殿を焼いた。
 義朝は二人を二条天皇のいた内裏に連行し、そこで上皇と天皇の二人を表向き警護・事実上軟禁して、両者が自らの手の内にあることで錦の御旗とし、三条殿から逃げた信西を追跡し、自害した信西の首を晒し物とした。

 上皇・天皇を掌中にした藤原信頼は臨時除目(人事)を行い、義朝は播磨守、この乱が初陣だった三男・頼朝は一四歳で右兵衛権佐に任じられた。
 つまりはこの人事で自らが政権を掌握したことをアピールせんとした信頼だったが、信頼がなく(苦笑)>、天皇親政を大義名分とされた二条天皇義朝に好感を抱いていなかった。
 この挙兵は熊野詣途中で紀伊にいた清盛に急報され、上皇・天皇が信頼義朝の掌中に確保されたことに気が動転した清盛は九州に落ち延びることも考える程だった。
 一方、信頼は一応の姻戚関係がある清盛も自分につくと考え、清盛による反撃を甘く見ていた。

 だが、洛中でも、信頼義朝の強引な運びが裏目に出て、信西への怨みから信頼の合力していた藤原惟方(ふじわらのこれかた)と藤原経宗(ふじわらのつねむね)が信頼に愛想を尽かし、信西亡き今信頼に協力する意志をなくし、密かに清盛に通じた。



脱出 平清盛に寝返るのは良いとして、問題は後白河上皇二条天皇の両名がともに藤原信頼源義朝の元にある事だった。
 この状況下で義朝を攻めては朝敵の汚名を着せられることになり、朝敵となると中立派も敵に回り、一族郎党からも裏切り者が出かねない。当然、上皇と天皇を内裏から脱出させ、清盛の元に連れて行くことが必要となった。

 勿論、信頼義朝にとって後白河上皇二条天皇も大切な手駒で、これを奪われると自分達は朝敵となる。それゆえ内裏は警護に託けて厳重に見張られていた。ただ、まだまだ武士が軽く見られていた時代、皇族・貴族・一般人も戦を後の時代よりは軽く考え、ある種の仁義も重んじていた。
 三年前の保元の乱でも、天皇方が大勝を収める要因となった夜襲に対して、双方で戦術として提案されたが、上皇方の藤原頼長は「卑怯!」と却下し、天皇方の藤原忠通も同じ評を下したが、こちらは信西に退けられた。
 話を平治の乱に戻すと、このときは戦に女を巻き込むことへの嫌悪感が利用された。

 一二月二五日夜、藤原惟方後白河上皇に面会して別場所に軟禁されている二条天皇の脱出計画を伝えた。それは表題にある通り、上皇を女装させ、見張りの目を誤魔化すものだった。
 具体的には惟方の手の者が内裏に仕える女官の実家で子供が生まれるので里帰りをさせて欲しい、と見張りの兵に申し出た。
 中に入ることが許されると後白河上皇を女装で女官に扮させ、上皇は二六日に日付が変わった頃に牛車で内裏を出た。牛車が出ることを警備兵は見ていたが、女装した上皇を身体検査するでもなく、取り敢えず女であると視認しただけで通してしまった。
 同様に二条天皇も内裏脱出に成功し、両帝はそのまま平清盛の六波羅邸に到着し、清盛の保護下に入った。



脱出の影響 この脱出劇により、平清盛軍は「官軍」、藤原信頼源義朝軍は「賊軍」となった。
 後白河上皇二条天皇の脱出に前後して人望のない信頼の身内から離反者が続出し、形勢の逆転に憤慨した義朝信頼に対してその人望無さを「日本第一の不覚人」と痛罵し、貴族である彼に武装しての従軍を強要した程だった(←つまりは貴族に木端役人の格好をさせるという恥辱を与えた)。

 脱出直後の二六日朝には「藤原信頼源義朝を追討せよ。」との宣旨が下され、源氏方からは益々離反者が続出した。
 これにより、義朝の元に残ったのは悪源太義平(長男)、朝長(次男)、初陣の頼朝(三男)を初めとする、一族の中でも血縁の強いものばかりで、源氏に在って最も頼りになると目されていた源頼政は朝敵となることを恐れて清盛方についてしまい、息子達の奮戦空しく義朝は敗れた。

 敗れた義朝は源氏の勢力の強い東国に逃れて再起を図らんとしたが、美濃で息子達とはぐれ、尾張で入浴中に長田忠致の騙し討ちに遭って落命。義朝に一緒に逃亡することを断られた信頼は降参し、自己弁護に終止したが、斬首刑となった。

 いつの世でもそうだが、大義名分・錦の御旗が如何に大切かを示す好例と云える。



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令和二(2020)年一二月二六日 最終更新