第弐頁 源頼朝 石橋山の合戦………洞窟前の意外な味方

脱出者源頼朝
包囲者大庭景親
事件石橋山の戦い
手引者梶原景時
脱出手段偽不在情報
影響源氏棟梁の勢力盛り返しと頼朝の方針転換
事件と重囲 平治の乱に敗れた源頼朝は本来なら斬首されるところを平清盛の義母・池乃禅尼の計らいで伊豆・蛭ヶ子島への流刑となった。それ以来二〇年、ある程度行動の自由はあったものの常に監視の目が光った。
 地侍・伊東祐親の娘と恋仲となり、子供まで出来たが、平家の威勢を恐れる祐親によって子供(祐親にとっては孫)を殺されるという悲哀を食らわされたこともあった。

 だが、次第に傲慢となっていく平家に皇族・貴族は愛想尽かし初め、治承四(1180)年、以仁王(もちひとおう。後白河法皇の第二皇子)の令旨を受けて全国各地の源氏が立ち上がり、頼朝も叔父行家から以仁王の令旨を受け、同年八月一七日に岳父・北条時政と共に挙兵し、伊豆の目代・山木兼隆を討ち取った。

 だが、この時点での頼朝の勢力はまだまだ弱く、伊豆一国を収めるにも足りなかった。既に頼朝挙兵前に以仁王と彼が頼りとした源頼政は敗死しており、早晩平家からの追討軍がやって来るのは火を見るより明らかで、頼朝としても攻め続けて勢力を拡大するしかなかった。
 頼りは相模国三浦半島に本拠を置き大きな勢力を有する三浦一族だったが、遠路のためになかなか到着しないのを待ち切れなかった頼朝は同年八月二〇日、時政から三〇〇の兵を借り、伊豆を出て相模国土肥郷(現・神奈川県湯河原町。名前の通り土肥実平の所領)まで進出し、三浦氏と合流せんとした。そしてこれを迎え撃ったのは大庭景親(おおばかげちか)率いる三〇〇〇の兵だった。

 景親は二三年前の保元の乱では兄の景義(かげよし)と共に源義朝配下として従軍し、景義が源為朝(義朝の弟で、崇徳上皇方についていた)の強弓を脚に受けるまで兄弟で奮戦していた。
 だが、平治の乱で義朝が殺されて平家の天下となると、景義が源氏に忠誠を誓い続けたのに対し、景親は時勢に迎合して平家についてしまっていた。
 つまり頼朝から見れば景親は源氏の裏切り者で、景親としても何度も寝返る訳に行かない事情からも、必死になって頼朝方と戦った。

 同月二三日、頼朝は石橋山(現・神奈川県小田原市)に陣を構え、(挙兵の大義である) 以仁王の令旨を御旗に高く掲げさせた。これに対して景親は谷一つ隔てた地に布陣した。
 だが、頼朝にとって折悪しく、この日は大雨で、三浦軍は酒匂川の増水によって足止めされ、頼朝軍への合流が出来なかった。

 景親頼朝と三浦軍が合流する前に一〇倍の兵力でこれを潰さんとして、夜戦を仕掛け、暴風雨の闇夜と云う最悪の視界の中、両軍は激突した。
 戦いは時政と景親との論争に始まり、時政は大庭氏の先祖・鎌倉景正が後三年の役にて源義家(頼朝の高祖父)に従った過去を挙げ、景親頼朝に弓引くことを詰ったが、景親は、過去は過去、現在は現在として、平家への恩義からもかつての主筋と敵対することを堂々と宣言した。
 かくして問答は終わりとばかりに両軍は激突したが、さすがに一〇倍の兵力差は甘くなく、頼朝は大敗した。

 勿論、このまま頼朝を活かしてはいつ再起するやもしれない(実際、後に景親は勢力を盛り返した頼朝によって死に追いやられた)。
 景親は執拗に敗走するより頼朝を追撃した。しかも伊東祐親が三〇〇騎でもって背後の山を塞いでいたため石橋山は包囲されていたに等しかった。



脱出 何としても戦線離脱しないと命の危ない源頼朝だったが、幸い大庭家中に源氏の恩を忘れ切れない飯田家義がいて、彼の手引きによって土肥の椙山に逃げ込んでいた。
 だが翌二四日、大庭軍による追撃の手は椙山に迫り、頼朝軍残党は敗走しつつも激しく抵抗。頼朝自身、弓矢をもって抗戦しつつ、散り散りになった自軍を集めた。

 土地勘のある土肥実平は、頼朝一人ならば隠し通せるが、人数が多くてはとても逃れられないので、ここで散って雪辱の機会を期すよう進言した。
 実平の進言を容れ、散開して逃げた源頼朝主従だったが、景親は山中をくまなく探させ、北条時政の嫡男・宗時は伊東祐親の軍勢に囲まれて討ち死にした。

 そして頼朝と従者達も後世「しとどの窟」と呼ばれる洞穴に身を潜めたが、大庭軍の武士の一人に発見された。だが、その武士は洞穴の中に頼朝軍は居なかったと偽り、向こうの山が怪しいと景親等を導き、頼朝の命は救われた。
 勿体ぶったが、この絶体絶命の危機を救ってくれた武士は梶原景時で、この縁で後に景時が後々猜疑心の強い頼朝から重用されることになったのは有名である。

 景親が別方向に誘導された隙を突いて頼朝主従は辛くも戦線を離脱し、箱根権現社別当行実に匿われた後に箱根山から真鶴半島へ逃れ、そこから船にて海上出て、三浦一族と合流し、安房に落ち延びた。
 九月、安房において頼朝は再挙し、源氏代々の恩義を感じる坂東武者(安西氏、千葉氏、上総氏等)に迎えられて房総半島を進軍して武蔵り、約一ヶ月で二〇万に及ぶ大軍勢を率いる勢力にまで盛り返したのだった。



脱出の影響 源頼朝の生涯において最大級の危機とも云える石橋山の戦いから脱出し得たのは、偏に梶原景時と云う望外の協力者がいたからで、彼一人がいないだけで頼朝が命を落としていた可能性は限りなく大きかった。

 源平合戦と云う戦史で見るなら、頼朝がこの戦いにおける虎口を逃れ得たことは、頼朝に安房での再起に転じるきっかけとなったと云うことになる。
 それはそれで事実だが、薩摩守はこの脱出劇が頼朝の戦略・政治的判断・人格に与えた影響は更に大きいと考えている。
 推測だが、石橋山の戦いに前後して頼朝は地侍との絆の強さが如何に重要かを嫌というほど思い知ったのだろう。
 流人中、周囲の豪族は血統的には平家に近く、伊東も北条も山木も本来なら源氏に味方し得ない家系だった。その一方で、平家の血を引く大庭景義・大庭景親兄弟は兄が頼朝の挙兵に駆け付け、弟は頼朝を執拗に攻撃した。
 だがその景親の軍中に在っても梶原景時・飯田家義等が密かに味方し、虎口を逃れた後は坂東武者が味方に付いたことで短期間での再起に成功した。

 武士達とてのほほんと生きていた訳ではない。誰に味方するかを間違えれば自分自身のみならず、一族郎党がどうなるか分かったものではなく、情勢を読み、源平のいずれにつくか非常に頭を痛めたことだろう。
 伊東祐親は平家の威勢を恐れて娘と頼朝の間に生まれた孫を殺してまで平家に随身し、結局頼朝に敗れた後は自害した。
北条時政も最初は娘の政子を恋仲となった頼朝から引き離して山木兼隆に嫁がせたが、政子はすぐに山木の元を脱する有様で、頼朝に味方したのも当初はなし崩し的なものだった。
 そんな中、平家に味方する勢力の中にも頼朝に味方する者もいて、坂東武者は僅かな期間に大勢が駆けつけて来た。だが、その中の二万騎を引き連れて来た上総広常は(祖父の代からの伝統で)下馬の礼をせず、頼朝の出方次第では討ち果たす気でいた(これに根を持った頼朝は後に景時に広常を殺させている)。
 頼朝にとって、何が地侍をして自分に味方せしめ、自分に敵対せしめるか、物凄く頭を悩ませたことだろう。
 後の時代を知るから云えることだが、東国武士が求めていたのは自分達の土地を巡る権益と、貴族の犬として白眼視されてきた名誉を守ってくれる武士の権威だった。そんな東国武士にとって、遠く京の都にて貴族化し、本当に武士の権益を守ってくれるか怪しくなった平家よりも、先祖代々東国武士の権益を守ってくれた源氏の棟梁である頼朝に期待するところは大きかったのだろう。
そしてそのことを戦よりも政治的センスに優れる頼朝は鋭敏に嗅ぎ取ったのだろう。

 勢力挽回後の富士川の戦い頼朝が弟・義経に平家追討を託し、自らは鎌倉にて地固めに入ったのを頼朝の優れた政治センスと見る人は多いし、薩摩守もその通りと思う。
 頼朝が大嫌いな薩摩守だが、彼が政治家として優れていたのは認めているし、彼が武士の求めていたものに忠実な武断政治を確立したことは間違いなく七〇〇年に及ぶ武家政権の礎を築き得た基として敬意を抱いている(それゆえ、頼朝の血統が三代で断絶しながら、その後も幕府が存続する歴史的珍現象が起き得た)。
 源頼朝がかかる政治的センスを確立するきっかけとなったのが、この石橋山の戦いに前後する挙兵から安房への脱出期間に在ったと見るのは過言だろうか?


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令和三(2021)年一月三日 最終更新