第肆頁 徳川家康 伊賀越え………兵士と野武士と落ち武者狩りの包囲網

脱出者徳川家康
包囲者明智光秀・野武士・落ち武者狩りの農民
事件本能寺の変・伊賀越え
手引者服部半蔵、茶屋四郎次郎、他多数
脱出手段土豪の協力取り付け
影響信長同盟者としての生き残り
事件と重囲 事の起こりは前頁の本能寺の変に在った。
 織田信長の重臣・明智光秀が主君に反旗を翻し、僅かな供回りで本能寺に宿泊していた信長主従は襲撃を受け、切腹して果てた。この前日、徳川家康は京にて信長の饗応を受けていた。

 家康が上洛したのは三ヶ月前に武田家を滅亡させたことへの長年の尽力が信長に認められ、駿河一国を拝領したことへの御礼言上だった。
 信長は対武田戦線における家康の長年の労苦を労い、その上洛を歓迎し、共に戦勝を祝った。だが、この時の信長は多忙を極めており、羽柴秀吉(豊臣秀吉)から毛利征伐の援軍を請われてその準備に追われ、自らの手による接待が出来ないことを詫びつつ、家康に堺見物を勧め、家康もそれを楽しんでいた最中に信長横死の急報を受けた。

 信長横死の詳細を知った家康は一時絶望した。
 何せこの時の家康は信長同様僅かな供回りで堺見物に来ていて、軍を率いていなかった。信長に反旗を翻した光秀にとって格好の獲物だった。当然街道は明智軍によって封鎖されているだろうし、軍勢でもって攻められては一溜りもない。
 盟友・信長を弑逆した光秀の手に掛かるぐらいなら、上洛して松平家所縁の知恩院(浄土宗鎮西派総本山)に駆け込んで自害し、信長に殉ぜんとした。だが、これは本多忠勝を始めとする家臣達が説得し、家康も三河に帰国して信長の仇討ちをすることを決意した。

 問題は三河に帰るルートである。
 家康が政商・茶屋四郎次郎から信長の横死を知らされたのは堺見物を終えて京に戻る途中の河内飯盛山付近で、普通に考えるなら京→大津→岐阜→岡崎へのルートを辿るが、京都は光秀の掌中に落ちたばかりだった。
 加えて、危ないのは明智勢ばかりではなかった。京都及びその周辺は混乱し、誰が味方で誰が敵か分からない状態だったが、土豪野武士農民達にとってこの時点で三河・遠江・駿河三国の国主である徳川家康とその重臣達の首を挙げて敵対する勢力に持参すれば出世は想いのままで、実際に家康の堺見物に同道し、畿内脱出前に別れた穴山梅雪は落ち武者狩りの手に掛かって落命した。

 急ぎ協議した家康主従が脱出ルートとして決めたのは有名な伊賀越えだった。



脱出 徳川家康主従が伊賀越えを選んだのには二つの要因があった。

 一つは明智勢が封鎖しているであろう街道を避けること。
 もう一つは配下である服部半蔵の伝手で伊賀者の助力を得られることだった。

 ルートで云えば、
 河内国四條畷(現・大阪府四條畷市) → 木津川の渡し(現・京都府京田辺市興戸) → 山城国宇治田原(現・京都府宇治田原町) → 近江国甲賀小川(現・滋賀県甲賀市) → 御斎峠 → 伊賀国柘植(現・三重県伊賀市) → 加太峠 → 伊勢国長太を辿り、長太にて船を得て三河大浜でようやく自領の土を踏み、岡崎への期間を果たした。

 この間、家康一行は数々の苦難に見舞われ、それ以上に多くの助力を得た。
 そもそも信長横死の急報をもたらした茶屋四郎次郎家康の重要な情報源だった。同時に彼は褒賞金目当ての落ち武者狩りに対して買収によって幾つかの難局をしのいだ(金が目的なら、買収に応じるのは戦闘による命の危機無しに目的を達せられることになる)。

 また、堺見物の案内を務めた信長家臣の長谷川秀一西尾吉次は一行脱出経路の決定や大和・近江の国衆への取り次ぎを行うなど伊賀越えの成功に大きく貢献し、西尾は、そのまま家康の家臣になった。

 宇治田原では土豪・山口甚介が、甲賀小川では土豪・多羅尾光俊山口甚介の父)が宿を提供してくれた。
 伊賀国に入ってからは半蔵の伝手で伊賀の土豪家康一行を守り、加太峠で一揆に襲われた際は山口定教率いる甲賀郷士がこれを追い払った。

 そして伊勢商人・角屋七郎次郎秀持は伊勢から三河大浜までの船を手配して、家康主従が自領に駆け込む最終段階に尽力した(この手柄での後に角屋は廻船自由の特権を与えられた)。
 これらの内、いずれが欠けていても家康が落命していた可能性は高く、本能寺の変から伊賀越え完了までの三日間は徳川家康の生涯における三大危機の一つに数えられるほどの物だった(後の二つは三方ヶ原の戦いにおける大敗と、大坂夏の陣における真田幸村勢の強襲)。



脱出の影響 歴史に「if」が禁物なのは、云い出せばキリがないからであろう。
 最終的に徳川家康は天下を取り、二六〇年に渡って徳川家が日本を統治した訳で、本能寺の変伊賀越えの間で家康が命を落としたと仮定しての歴史は想像もつかない。

 勿論、生涯数々の戦に臨んだ家康は(家康に限らないが)運一つで討死していた可能性は常に有った訳だが、それでも通常の戦場における討死なら生き残った重臣達が家康の遺児達を盛り立ててその遺志を継ぐことも出来ただろう。
 だが、五〇人に満たない人数で大脱出を敢行していた家康が命を落としていたら、随行していた酒井忠次、石川数正、本多忠勝、井伊直政、榊原康政、服部正成、大久保忠隣、本多信俊、阿部正勝、牧野康成、高力清長と云った徳川家でも重きを為していた家臣達が供に(或いは先達て)討死していた可能性が極めて高く、徳川家そのものが滅亡に等しい大打撃を受け、織田・北条・場合によっては武田家残党に飲み込まれていたかも知れなかった。

 ともあれ、伊賀越えを無事に果たし、重臣を欠けさせることなく岡崎への帰還を果たした家康は、信長の仇討ちこそ羽柴秀吉に持っていかれたが、信長の後継者や医療配分を巡って織田家中が紛糾するのを尻目に甲斐・信濃における武田家旧領と残党を取り込むことに成功し、豊臣家の天下に在っても最大となる実力を蓄え、最後の勝者となり得た。
 歴史の結果を知る者からすれば、「何を今更……。」と云いたくなる話だが、伊賀越えの結果一つですべてが失われていたかもしれないことを思えば、この大脱出が持つ意義はとてつもなく大きいと云えよう。


次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和三(2021)年六月一〇日 最終更新